172 賽は投げられた(5)

「あたしも一度だけ入ったことがあるんだよ。その『ヤコービの庭』に」


「……」


「あの『歯車の館』じゃない本物の方にね。ジャックがまだいる頃、あいつの設定した管理者権限ってやつで」


「……そうなんですか」


「まったく度肝抜かれたよ。あいつがあたしなんかとはてんでが違う天才だってことをまざまざと思い知らされた。あれはもう仮想現実とか、そんな次元の話じゃなかった。あたしがそんとき見たあれはまるで――」


 椅子を引きながらキリコさんはそこまで言いかけ、だがその先は出てこなかった。何も言わず椅子に腰かけ、グラスを口に運んで少し水を飲んだあと、乾いた音を立ててテーブルの上に置いた。


「どうだったんですか?」


「ん?」


「どんな場所だったんですか? そこは」


「……懐かしかったね」


「懐かしい?」


「そう。あたしにとって、そこは懐かしい場所だった。捨てなきゃいけなかったもの、置き去りにしたもの……そういうものがぜんぶあった、そこには」


「……」


「けど、それだけさ。結局、そこはあたしのための場所じゃなかった。所詮は作られた世界だ。それきりあたしは二度とそこには入らなかったし、この先なんかの理由で入るにしても、もうあのときみたいには感じないだろうね」


「……」


「ああ、何でこんなこと語っちまってるのかねえ。勢いでいらないこと喋っちまったよ。忘れておくれ、まったく」


 そう言ってまた頭を掻くキリコさんを前に、俺は何も返せなかった。


 キリコさんにとってその『ヤコービの庭』というものが――そしていなくなってしまった隊長が未だに心の中の重要な位置を占めているのを感じて、わけもない嫉妬と寂しさが胸に湧き起こるのを覚えた。


 彼女がここで隊長と過ごしていた長い時間のことを、俺は何も知らない。今まで意識しなかったその事実がにわかに自分の中で大きくなり、膨らんでゆこうとするのを必死になって押し留めた。


「他には?」


「え?」


「他に何か聞きたいことは? それとも、質問タイムはこれで終わりでいいのかい?」


「いっぱいです。もう今日のところは」


「そうかい。ならこのへんにしとくよ」


 返事通り、さすがにもうこれ以上は無理だった。今でさえ流しこまれた情報の海に溺れ、まともに息もつけないでいるのだ。


 ……そればかりではない、知らなくてもいいことを知ってしまったことに対する後悔がないと言えば嘘になる。


 まったくの謎だったこの研究所におけるキリコさんたちの研究――ちらりと垣間見ることができたその片鱗はあまりに難解で俺の理解を超え、しかも想像しなかったほど壮大で比類のないものであるようだ……。


 ――だがそこでふと、俺は奇妙なことに気づいた。


 キリコさんがここまで語ってくれた仮想世界の原理。飛躍した荒唐無稽な理論に貫かれたそれは、けれども俺のよく知るによるものだった。たしかにその範疇を逸脱したところはある。だが、基本的にはあちらの論理――銃を撃てば弾が弾倉からなくなる世界の論理だ。


 だからこそ俺はその難解な説明をある程度まで理解できたわけだが、そこにはひとつ大きな疑問が残る。そもそもあちらとこちらでは根本的なところで原理が違うのではなかったか?


 ここは銃を撃っても弾倉の銃弾がなくならない世界なのだ。そんな世界における仮想現実システムをキリコさんは向こう側の論理で説明してくれた。そのことに矛盾はないのだろうか――


「ん? どうかしたかい?」


「え? ……いや、何でも」


 気遣うような声がかかり、それで疑問は立ち消えになった。反射的に頭をあげると、キリコさんはテーブルに置かれたままのグラスを両手で持ち、どこか不安そうな目で俺を見つめていた。


 霧散した疑問の代わりに、なぜ彼女がそんな顔をしているのだろうという新たな疑問が浮かび、それを尋ねようと口を開きかけた。


 だがそれより早く、俺の質問を先読みしたかのようにキリコさんの低い小さな呟きが耳に届いた。


「これで少しは……」


「え?」


「いや……何でもないよ」


 それ以上は何も言わず、キリコさんは気まずそうに俺から目を逸らした。


 だがそれだけで、俺には彼女が何を言いかけたのかわかった。その彼女らしからぬ見え透いた演技が、芝居にかこつけた俺へのメッセージだったことも。


 それがわかって、俺は大きく息をついた。……その気持ちには応えなければいけない。俺がほしいと言ったものを、キリコさんは確かに惜しみなく与えてくれたのだ。


「これからどうするんですか?」


「ん?」


「今日これからの予定です。やりますよ、何でも。俺にできることなら」


 そんな思いをこめて言った。俺の回答にキリコさんは少し驚いたような顔をし、それからどこか気恥ずかしそうな薄い笑みを浮かべた。


 気持ちが通じたのがわかった。ぎこちない形ではあるが、俺とキリコさんの気持ちはたしかに通じている。それこそが彼女の確認したがっていた信頼の絆で――だから、今はこれでいいのだと思った。


「ハイジにはそのうちお迎えが来るよ」


「え?」


「これからのことだよ。そろそろハイジにはお迎えが来る」


「お迎え、というと?」


「訓練だよ。いつもの訓練」


「ああ……」


「軍曹が迎えに来ることになってる。今日は色々あるからね、早い内に済ましておかないと」


 そのキリコさんの言葉でまた気分が一変した。信頼の確認に満ち足りた気持ちはどこかへ、重く沈んだ憂鬱が黒雲のように心を覆い始めた。


 訓練とは名ばかりの一方的な殺戮。今しがた原理を説明してもらったばかりの仮想空間で、俺はまたあの少女と絶望的な戦いを強いられることになる……。


「……ひとつ、思ったんですが」


「ん? 何だい?」


「あそこでの訓練より、もっと効率的な訓練の方法はないんですか?」


「何でまたそんなこと言うんだい?」


「いや……確かにあの『歯車の館』では実戦形式の訓練ができますけど、その……俺やられてばかりだし。最初にやった射撃とか、ああいうものの方が効果あるんじゃないかと思って」


「動かない的撃つ訓練なんざ、実戦じゃ何の役にも立たないさ」


「けど、殺されてばかりですよ? いつもほとんど無抵抗に殺されてばかりで、そんなんじゃ……」


「いいんだよ、それで」


「……」


「それでいいんだ。殺されることに意味があるんだよ」


 そう言ってキリコさんは大きく背伸びをした。それから少し真面目な表情で真向かいに俺を見て、「そのための訓練なんだよ」と言った。


「戦場で生き残るやつってのは、どんなやつかわかるかい?」


「え? ええと……銃の扱いとか状況把握とか、そういう技能に優れた人間ですか?」


「勘の鋭いやつだ」


「……ああ」


「どんなに銃の腕がよくても、戦況見切ってうまく立ち回れても、勘が悪いやつはすぐ死ぬ。むしろそういう技能に優れて、下手な自信持ってるやつほど早く死ぬ。ことが起こりそうになったとき、いち早く気づいてその場から逃げられるやつ、そういうのが戦場では一番長生きできるってことさ。まあ、受け売りだけどね」


「……そうかも知れない」


「例えばこういう話を知ってるかい? 人間以外の動物は、津波じゃ死なないんだ」


「……」


「昔、ある地方で大きな地震が起こって、大津波がそこを襲った。逃げ遅れた人間はみんな死んで、津波が引いたあとには沢山の人間の死体が残った。けど、その中にはひとつも人間以外の動物の死骸がなかった。つまり、動物は死なずに逃げ延びることができたんだ。何でだと思う?」


「動物が……津波を予知できたってことですか?」


「半分は正解だ。津波が来る前に動物が群れをなして逃げる姿は目撃されてたみたいだから、事実、予知できたってことだろうね。けど、大事なのはそこじゃないんだ。問題はなぜ動物にはそれが予知できて、人間にはできなかったかってことだよ」


「……」


「わかるかい?」


「わかりません」


「そいつはね、動物にとっては死がいつもすぐ隣にあるからなんだよ。あたしが思うに」


「……」


「だいたい生き物ってのは――ああ、つまり人間以外の生き物ってことだけど、自分が次の瞬間に食われるかも知れない、死ぬかもしれないってことはちゃんと知ってんだよ。虫にしろ魚にしろそれは変わらない。生けとし生けるものは死がいつも自分のすぐ隣にあるってのを知ってる。はっきりと意識してるんだ、空気みたいに」


「……」


「だから、生き物はみんなそれこそ必死なんだ。食われないように、殺されないようにいつも全力で警戒してる。それを忘れてとしてる人間がなくしちまったアンテナ立てて、何かわずかな変化でも、それが目に見えないような変化でも見逃さないようにいっつも神経を尖らせてる。あたしが言ってるのは、つまりそういうことさ」


「……それならわかる気がする」


「戦場で生き残るのは勘の鋭いやつだってさっき言ったけど、あたしはそれ、同じことだと思うんだよ。死を強く意識しているから、ほんのわずかな変化にも気づける。銃弾たまが飛んでくる前に身体が勝手によける、みたいなやつさ。もっともそういうのは何度も死線をくぐり抜けて、死ぬような目に何回も遭って、それでようやくものにできる能力だと思うんだ。動かない的を撃ってたんじゃ絶対に身につかない。だから――」


「殺されることに意味はあると」


「そういうわけだよ。あたしの言ってることわかったね?」


「はい、わかりました」


「よろしい」


 そう言ってキリコさんは満足そうに頷いて見せた。そんな彼女に、俺もしぶしぶながら頷かざるをえなかった。


 訓練に向かう憂鬱がすっかり晴れたわけではないが、キリコさんの言うことはおおむね理解できた。歴戦の兵士が身に備える動物的な勘――それを修得するためということなら、あの訓練にも意味はあるのかも知れない。


 ただそれでも、その訓練の有効性に対する一抹の疑問は拭えない。動物の危機感知能力の話が本当だとしても、繰り返しことでその能力が身につくなどということが、果たしてあるのだろうか――


 と、ノックの音がした。


「お迎えが来たようだ」


 そう言ってキリコさんは椅子を立とうとし、そこで一瞬身を竦めて苦しそうに顔をしかめた。テーブルの上に突いていた左手をゆっくりと離す。俺への説明のためにさっき針を縫い通した、その手だ。


「……痛いんですか?」


「痛いよ」


「……」


「けど、まあ心配はいらないよ。生き物として女は男よりも痛みに強くできてるのさ。血も見慣れてるしね」


 そう言いながらキリコさんは今度こそ立ち上がった。その言葉の意味に気づいてうまく反応できない俺に悪戯っぽい笑みを残し、扉に向かい部屋を出ていこうとした。だがそこでふと立ち止まると、首だけでこちらを振り返って言った。


「さっきの話だけどね」


「え?」


「あたしはいつでもいいから」


「……」


「情報は情報で別。あの契約をにしようってんじゃない。ハイジが望むなら、あたしはハイジの欲しいものをぜんぶあげるから」


「……」


「いつでもいいよ。ハイジがその気になったら、いつでもあたしのことハイジの好きなようにしてくれていいから」


 それだけ言って曖昧な微笑を浮かべると、キリコさんは部屋を出ていった。一人取り残された俺は彼女が立っていた場所を眺めたまま、しばらく呆然としていた。


 だがやがてまた動き始めた頭で、また一歩あのときの状況に近づいた、と思った。


 あの一週間、俺の心を掻き乱し続けた古い契約の更新……。けれどもその言葉は、もうあのときのように俺を惑わしはしなかった。その言葉の真意を思って俺の心が乱れることは、もうなかった。


 軍曹を迎えるキリコさんの声が聞こえる。俺が理解できないことになっている例の言葉だ。


 何もかもが違う場所……どこなのかもわからない混沌とした世界。そんな中にあってまたあの一週間をなぞり始めている俺たち二人と、どこへ向かおうとしているのかまるでわからない舞台を思って、俺はいまいち理由のはっきりしない溜息をひとついた。

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