173 賽は投げられた(6)

 やがてキリコさんからのお呼びがかかり、照明のない部屋の入口でエツミ軍曹に身柄を引き渡された。それから薄暗い廊下を昨日と同じように彼女のあとについて歩いた。


 部屋を出るときに挨拶めいた軽い目配せがあっただけで、以後はお互いに言葉もなく、ただ黙々と歩き続けた。昨日の初めのうちと同じ沈黙の行程だった。だが先を行く軍服の背中を眺めながら昨日のやりとりを思い出して、そのときのような気まずさや息苦しさを感じることはなかった。


 三十分ほど歩いてたどり着いた部屋には、既に少女がいた。マリオ博士の姿は見えない。少女一人、いつものつまらなそうな顔で部屋の隅に膝を抱えて座っていた。


 俺をそこまで送り届けるとエツミ軍曹は一言もないままに去り、部屋には俺と少女が残された。少女は一度気のない視線をこちらに向けただけで、あとはふて腐れた子供のように自分の両腕と膝頭の間に顔を埋めてしまった。


 それからだいぶ時間が経ってもマリオ博士は現れなかった。


 膝に顔を埋めた少女と二人、何もない部屋に虚ろな時間を過ごした。いっそもう隣の部屋に入ってしまおうかと何度か思ったが、あの真っ白な空間でノイズが鳴り出すまでの長い時間を思って止めた。


 ……かと言って他にすることもない。塞ぎこむ子供とひとつ部屋に同じ空気を吸いながら何もできないでいるのは、退屈というよりむしろ静かな拷問に近い。


「名前――は、ないんだっけ」


「……」


 堪りかねて話しかけた俺の声に、少女は一度頭をあげ、だがすぐ元に戻った。……それきり返事はない。とりつく島がないとはこのことだ。


 ただ無聊ぶりょうも手伝ってか俺はでの恐怖を忘れ、そんな子供らしい気難しさを見せる少女と一言でも交わそうと、再び声をかけた。


「やっぱり都合が悪いな。名前がないと」


「……」


「何て呼べばいいか、それだけでも教えてくれない?」


 返事はなかった。今度は頭さえあげない。聞く耳を持たないという意思がよくわかる態度だった。


 相手が子供だとわかってはいるが、思い切って話しかけた方としてはむっと来るものがある。半ばになってもう一度声をかけようとして――そこで初めて、自分がまた同じ失敗をしでかしたことに気づいた。


 ……そうだった。俺のこの言葉は少女には通じないのだった。


 昨日のエツミ軍曹に続いて今日も……学習能力がないにもほどがある。そんな自分の失態に気づかず少女が無視しているものと決めてかかっていたのだ。恥ずかしいといって、これほど恥ずかしいことはない。


 さっきとは別の理由で激しい居心地の悪さを感じて、少女と同じように膝を抱え、真っ赤になったのが自分でもわかる顔をその間に隠した。――そこに声がかかった。


⦅何でそんなこと聞くの?⦆


「え?」


 頭をあげ、声のした方を見た。少女はいつも通りのつまらなそうな顔で、ぼんやりと手前の床に視線を落としていた。次の一言は来ない……その目がこちらを見ることもない。


 聞き違いだったのだろうか。そう思う俺の前で、おもむろに少女の唇が動いた。


⦅何にでも名前をつけたがる⦆


「……」


⦅そうやってお前たちは、何にでも名前をつけたがる。そうすれば何でも自分たちのものになると思ってる。そんなわけないのに⦆


「……」


⦅下らない遊びはあの中のことだけで沢山。もうこれ以上つき合わせないで。名前だとか何だとか、もう二度と聞いてこないで。今度また同じこと聞いてきたら、殺すよ⦆


 それだけ言うと少女はまた膝に顔をうずめ、それきり動かなくなった。


 当初の退屈もそのあとの恥ずかしさも忘れ、そんな少女の姿を俺はただ見守った。……なぜだろう、会話は成立していた。けれども俺はその短い会話に、全身の毛が逆立つような恐怖以外、何も感じなかった。


 最後の一言――使い古された子供っぽい捨て台詞を聞いたとき、反射的に俺はさっきキリコさんから聞いた話を思い出していた。


 殺されるだけの訓練が持つ意味。死の危険が迫ったとき敏感に察知する能力、それを身につけるためには何度も死に直面するしかない。その感覚――逃れようのない死を眼前に突きつけられるまさにその感覚を、「殺す」という少女の言葉を聞いたとき、確かに感じた。


 もし警告を無視してあのあと同じことを言っていたならば、その瞬間、彼女は言葉通り俺を殺した――それがはっきりとわかって、冷たい汗が背筋に流れるのを感じながら、膝を抱える腕に力をこめた。


 マリオ博士が現れたのは、それから更にもう少し経ったあとだった。無言で部屋に入ってきた博士は俺と少女を交互に見比べ、それから俺に目を据えると何も言わず隣部屋に通じる扉を指差した。


 との同期を行うため、俺が先にあの白い部屋へ入れということだ。そんなことを思いながら俺は立ち上がり、軽く頭を下げてからその扉のノブを回した。


「……」


 この部屋に入るのもこれで三回目になる。扉を閉め、もう見慣れた感のある部屋の中を見回して――だが変わり映えしない真っ白な部屋が、昨日までとはだいぶ違った印象をもって俺の目に映った。


 史上初めて実用化された仮想現実システムへの導入を行うための施設。……そうした目で見ればこの何の変哲もないのっぺらぼうの部屋も、何か大きな可能性を秘めた神秘的な空間に思えてくるから奇妙だ。


 光沢のある壁に指で触れ、それから部屋の真ん中に移動して仰向けに寝そべった。


 視界に入るものは白一色……鼓膜に届く音は何もない。改めてそのあたりを確認しながら時が過ぎるのを待つうちに、自分の感覚がひとつ、またひとつと周囲に溶け、融和してゆくのを感じた。


 実際のところどうなのかはわからない。だがおそらくキリコさんに聞かされたな説明のために、自分という存在が相対化され、別の時空に移行してゆく――取り留めもなくそんなことを思い、いい気分で漂っていたところへ、例の雑音ノイズが来た。


「……っ!」


 その雑音ノイズで、気ままな科学的随想は一気に消し飛んだ。


 周囲の空間に延びきり一体となった俺という存在に、その雑音から逃れるすべはない。まるで夢の中に繋ぎ止められたような無防備な精神に、圧倒的な不安と恐怖の濁流が襲い来る。


 もう何も考えられず、ただ自分の耳を塞ぐ両手を求める。けれどもその両手はない。そればかりか塞ぐべき耳も、実体としての俺自身さえも、もうここにはない。


 押し潰されるような不安に喘ぎながら……声ならぬ声で叫び、もはや自分のものではない全身で身悶えながら、光の届かない奈落の底へ急速に墜ちていった――


 そうして気がつけばいつも通り無数の歯車が回るその場所――『歯車の館』にいた。


 同じくいつも通り、目の前には少女が立っている。


 だがなぜだろう、少女は動かない。いつもなら一瞬で姿を消す彼女が今日に限ってそうせず、両手をだらりと垂らしたままぼんやり立ち尽くしている。


「……?」


 戦う気がないのだろうか? 俺がそう思った瞬間、少女は動いていた。視界から消えるのではなく、真っ直ぐにこちらへ向かって。


 慌てて俺は懐に手を差し入れ、銃を抜こうとする。


 だが少女は止まらない。その小さな身体からは思いも寄らない速さで瞬く間に距離を詰め、気がつけばもう表情がはっきりわかるほどの間近に迫っている。


「……っ!」


 銃が懐から出るや、俺はトリガーを引いた。


 大急ぎで繰り出したその銃弾は、けれどもあたらない。まるで銃撃それを見越していたかのように少女が身を屈め、ジグザグにステップを踏み始めたからだ。右へ左へ不規則に反復しながら、なおも勢いの落ちない足で距離を詰めてくる。


 二度目、三度目のトリガーを引いた。


 だが、やはり俺の銃弾は中らない。至近距離でありながら――いや、至近距離であるがゆえに狙いが定まらず、もう目の前まで迫る少女の足を止めることができない。


「――」


 四度目にトリガーを引いたところで、次の一発を撃つ前に少女が俺の懐に飛びこんでくることに気づいた。自分がトリガーを引く速さと少女の速度、その差を考えれば自然とそうなる。


 同時にぞくり――と背筋に氷水を流しこまれたような戦慄を覚えた。


(あ……)


 ――これか、と思った。


 キリコさんが言っていたのはこの感覚だ。おそらくこれが、死の危険を察知したときに生物が本能的に感じる感覚なのだ。


 だが、今さらこんなものを感じても遅い――


「……ぐっ!」


 直後、首筋のあたりに熱く焼けつくような感覚があった。そしてしゃっ、と勢いよく血の吹き出す音を耳元に聞いた。


⦅終わり⦆


 少女の声が闇に溶けるのを感じながら、新しい気持ちで臨んだ今日の訓練がいとも呆気なく幕を閉じたことを知った――


◇ ◇ ◇


 ――目を覚ますと間近にキリコさんの顔があった。いつも通り寝台の上に横たわる俺を心配そうな表情で覗きこむその顔は、目を開けた俺を認めてふっと穏やかなものに変わった。


 そんなキリコさんの表情の変化を見て、逆に俺は堪らず目を逸らした。……不甲斐ない結果に終わってしまった訓練が、彼女の顔を正視することを俺に許さなかった。


「コーヒーでも飲むかい?」


 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、キリコさんは事も無げにそう尋ねてくる。答えを返せないでいると、しばらくしてまた同じ質問がかかった。


 だがその問いに返事を急かすような響きはない。あくまで俺を気遣う優しい調子の声に、寝台に身を起こして気まずい思いで彼女の方へ顔を向けた。


「……いりません」


「なら水でいいね」


 それだけ言って俺の答えを待たずにキリコさんは部屋を出て行った。その背中をぼんやりと見送ったあと、の結末が脳裏に舞い戻り、両手を堅く握りしめてそれを目の前に打ち合わせた。


 ……最低の内容だった。気構えができていないところを突かれ、ほとんど何もできないまま無様に喉を掻き切られた……今日ばかりは文字通り何の訓練にもならなかった。


 事前に受けたキリコさんの説明を無にして、貴重な訓練をみすみす無駄なものにしてしまった……。


「……くそ」


 前回、前々回と比べても今日の出来は酷すぎた。もう三回目ということで気の弛みがあったのかも知れない。考えるほどに後悔は募り、こぶしを握る手にも力が入った。


 だから水を汲んだグラスを手にキリコさんが部屋に戻ってきたとき、矢も楯もたまらず俺はその思いを吐き出そうとした。


博士ドクター、今日の訓練は――」


「ああ、いいよもうそれは」


 言いかける俺の言葉を遮り、グラスを持たない方の手を顔の横にひらひらと振りながら何でもないことのようにキリコさんは言った。……気勢をそがれた俺は、ただ黙って彼女が椅子に腰かけるのを見守った。


 目の前に差し出されたグラスを受け取る。そんな俺を前にキリコさんは穏やかな笑みを浮かべ、小さくひとつ溜息をついたあと、言った。


「聞かなくてもどうだったかくらいわかるよ。今のハイジの顔見りゃね」


「……」


「言いたくないようなこと言わなくていいさ。ただでさえへこんでるんだろうし」


「……すみません」


「謝らなくていいよ。ハイジが謝ることなんていっこもない。今日も無事に戻ってきてくれただけあたしは嬉しいんだからさ」


 穏やかな笑みを浮かべたままそれだけ言うと、軽い目の動きでグラスの中身を飲むように促した。促されるままに口をつけたグラスの水は充分に冷たかった。


 その冷たい水を流しこんで初めて、自分の喉がからからに渇いていたことに気づいた。貪るようにグラスを空にしてしまうと――あるいはそれが原因でもあったのか、心に渦巻いていた負の感情はだいぶ軽いものになっていた。


「落ち着いたかい?」


「……はい、落ち着きました」


「訓練がどうだったかは別にしてもね。そいつを引きずってもらうと、ちょっと困るんだよ」


「……」


「気持ちを切り替えてくれないと。今日はまだやることがいっぱいあるんだ」


「……そうですね」


「気持ちは切り替えられたかい?」


「はい、もう大丈夫です」


「いい返事だね。ハイジはそうでなくちゃ」


 そう言って満足そうな表情を浮かべたあと、キリコさんはふっと息を吐いて居住まいを正した。それからさっきまでとは違う妙に真面目な顔をこちらに向け、「さて」と区切りをつけるように呟いた。


「そういうことなら、だ。ここでどうしてもハイジに聞いておきたいことがあるんだよ」


「……? 何ですか?」


 問い返してもキリコさんは応えない。ただ何か物言いたげな目でじっと俺の顔を見つめている。……何か聞きにくいことなのだろうか? そう思って俺はもう一度同じ言葉で問い返した。


「何ですか? 俺に聞きたいことって……」


「実はね……その、何て言うか。はっきり言ってろくに喋りもしないでこんなこと聞くのは調子が良すぎるって自分でも思うんだけど……」


 そう言ってキリコさんは指の先で鼻の頭を掻いた。その言葉通り、自分の身勝手さを恥じるような複雑な表情を浮かべる彼女に、俺の方では逆に気が軽くなった。


 ここまでさんざん身勝手を押しつけてきたくせに何を躊躇っているのだろう。なかなか言い出さないキリコさんに軽い可笑しみを感じながら、三度みたび同じ言葉でそれを聞き返した。


「で、何ですか? 俺に聞きたいことって」


「うん……ハイジに聞きたいことって言うのはね」


 そこでいったん止め、なおもしばらく渋ったあと、思い切ったように一息にキリコさんはその答えを口にした。


「あの廃墟で会った、もう一人のハイジについてなんだよ」


 その回答に、俺はさすがに絶句した。彼女がさんざん言い渋った理由が今さらのように理解できた。


 ……確かに聞きにくかったはずだ。俺の方には一切の情報を遮断して何も聞くなと言っておきながら、自分の方ではそのタブーについて俺から何かを聞き出そうというのだから。


「……いや、本当ほんとに。都合のいいこと言ってるのは自分でもわかってるよ」


「……」


「ハイジの言いたいこともわかる。けど、これについてはどうしても聞いておきたい……いや、聞かなけりゃならないんだ。ハイジが向こう行ってる間に随分考えたんだけど今後のことをこっちのペースで進めるためには……そのためにあたしとしてはもうハイジに縋るしか手がないんだよ……」


 そう言ってキリコさんは台詞そのままに、縋りつくような眼差しをこちらに向けてきた。向こうにいる頃からもう何度も見慣れたの目だ。


 ……この目を出してくるということは、その情報が必要だというのは本当なのだろう。色々と思うことはあるが、そうなれば俺の返事はひとつしかない。


「……で、何が聞きたいんですか? もう一人の俺について」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る