174 賽は投げられた(7)

 平然とそう返す俺に、キリコさんは少し驚いたような目でこちらを見た。だがそんな俺の態度をどう受けとったのか改めて真剣な表情をつくると、抑制のきいた低い声でその質問を口にのぼらせた。


「あたしが聞きたいのはね、あのもう一人のハイジが今、何を思ってるかってことなんだよ」


「……どういうことですか?」


「仮定の話になるけど、ハイジ――ああややこしいね、つまりがあのもう一人のハイジだったとする」


「……はい」


「ちょうど三日前ここで目を覚ましたときと同じように、右も左もわからないような状況であの廃墟にいることに気がついたとする」


「……はい」


「そこでアイネちゃんに会って、あの子が襲われてるのを無我夢中で助けて、あのDJって男の部隊に入るように言われて……そういう一連の事件がわけもわからないままハイジの身に降りかかったとする」


「……はい」


「その状況で、ハイジ自身が考えてることを何でもいいから聞かせてほしいんだよ。……漠然とした聞き方で申し訳ないんだけどね。とにかく何でもいいから、あのもう一人のハイジが思ってることを聞かせてほしいんだ」


「……」


 その質問に、俺は考えこんだ。


 ……聞かれていることの意味はわかった。つまり、俺と同じ状況であの廃墟に放り出されたもう一人の俺が、何を思って今あそこにいるかということだ。


 昨日、襤褸の内側から見た幾ばくかの表情を総合すれば、あのもう一人の俺がどんな思いをもってあそこにいるかは何となく想像がつく。それをキリコさんに説明することも、俺としてはやぶさかでない。けれども――


「それはつまり、ところが聞きたいってことですか?」


「そうなんだよ。そのところがあたしはどうしても聞きたいんだ」


 微妙な言い回しだったがキリコさんには伝わったようだ。


 ……結局、そういうことだ。キリコさんはその部分が聞きたいのだ。


 内心に躊躇する部分はあった。もうかなり表沙汰にしてしまっているとはいえ、自分の中にあるその根本的な認識を俺はここまでキリコさんに打ち明けていない。


 だが……もういいのかも知れない。この期に及んで彼女に何を隠すことがあるだろう。自分に言い聞かせるように心の中でそう呟いて、そのところを俺は思い切って口にした。


「演劇の中にいると思ってます」


「……は?」


「アイネたちと一緒に演じてる劇の中の世界にいると思ってます。たぶん」


「……」


 よほど俺の答えが意外だったのかキリコさんはあんぐりと口を開け、ほうけたような顔でしばらく固まった。


 だがやがてはっと真剣な表情に戻ると、テーブルの上に身を乗り出して噛みつくような勢いで問いかけてきた。


「そのへん、もう少し詳しく聞かせておくれ! その演劇ってのは、いったいどんな代物なんだい?」


「簡単に言えば、ヒステリカの舞台です」


「ヒステリカ?」


「俺とアイネと、隊長……じゃなくてジャック博士や、それからキリコさんも一緒になってやっていた演劇サークルです」


「……ああ、そういやそんなこと言ってたね昨日」


「そのヒステリカでってる演劇の中の世界にいると思ってます。おそらく、あのもう一人の俺は」


「……それはかなり確かなことだと考えていいんだろうね?」


「さっきの仮定で考えれば、たぶんそうなります」


「……その根拠は?」


「こっちへ来る直前がそうだったからです」


「……」


「ジャック博士に『劇の中へ入れ』って言われて、舞台にのぼって開幕のベルが鳴って。緞帳があがって気がついてみたらここにいた……というのが同じなら、きっとあのもう一人の俺もそう思ってるんじゃないかと」


 そこまで話して、自分が正にところを勢いで洗いざらい喋ってしまったことを思った。もう一人の俺についての回答ではあったが、実際のところ俺自身について語っているのと何も変わらない。……今この舞台に立つ役者としての自分を考えれば、とんでもないことを口にしてしまったような気がする。


 だがそんな俺に構わずキリコさんは自分の思考の中へ入ってしまったようで、ぶつぶつと小さな声で口ごもりながらどこを見るともない虚ろな目をこちらに向けている。


 ……言うべきでないことを言ってしまったのかも知れない。そんな思いが俺の中から消えることはなかった。けれどもその情報を得たことで思考の中に没入したキリコさんを見れば、彼女の求めていたものはその回答で間違いなかったようだ。……なら、結果それでよかったのだろう。この舞台において、俺はあくまで彼女の従者としての《兵隊》なのだ。


 半ば諦めるような気持ちでそう思ったところで、さっきと同じ真剣な表情に戻ってこちらを見る彼女と目が合った。俺が口を開く前に、決然とした声でキリコさんは告げた。


「なら、勝負かけるよ」


「え?」


「すぐじゃないといけない。今すぐに勝負かける。決めた」


「勝負って――」


 どんな勝負ですか、と言いかけた俺を無視してキリコさんは立ちあがり、つんのめるような足取りで部屋を出て行った。そうしてすぐ戻ってきた彼女の手には大振りな灰色の携帯電話が握られていた。


 ……携帯電話? と訝しく思う俺の前にどんと音を立ててそれを置き、無造作に椅子を引いてそこに座ったあと、ぎらぎらと燃え立つような目でこちらを見て、一息に言った。


「最初に言っとくけど、今からするこの話をここの外でしたら承知しないよ!」


「……」


「この部屋の中でなら大丈夫だけどね、一歩でも外に出たら誰が聞いてるかわかりゃしない。だから外では一言でも漏らしちゃならないよ。いいかい? うっかり漏らしたらハイジでも容赦しないよ?」


「……わかりました」


「もう隠さずに言っちまうけどね、この研究所はあと一週間かそこらで崩壊する」


「……」


「さっきも言ったように詳しいことは説明できないけど、そうなっちまうのは時間の問題だ。それだけはもうはっきりしてる。だからそれまでに荷物をまとめて逃げる準備をしなけりゃならない。わかるね?」


「……はい」


「そんなわけでここから先、あたしたちがすべきことはぜんぶその準備になる。必要なもんだけ持ってとっとと逃げ出すこと考えて行動する。まず、それだけは押さえといておくれ」


「わかりました」


「で、まずは荷物をまとめることから考えないといけない。細かいのはあとでどうでもなるからね。そうじゃないかい?」


「そう思います」


「そういうわけだから、アイネちゃんに電話かけておくれ」


「……え?」


「アイネちゃんに電話だよ。一緒のサークルにいたなら携帯の番号くらい覚えてるだろ?」


「携帯の番号……いや実は俺、携帯持ってなくて――」


「ああ、もう! 男ならうじうじ言ってんじゃないよ! 忘れちまったんなら思い出しておくれ! 今すぐ! ここでアイネちゃんに電話をかけてもらえなけりゃこの先のことが進んでかないんだよ!」


 そう言って目の前に押しつけられた携帯を思考停止のまま手に取り、どうしたものかと途方に暮れた。


 ……アイネの携帯の番号など俺が覚えているはずもない。だいたい覚えていたとしてもそれはでの番号だ。そのままこっちで使えるわけがない。


 だがキリコさんの口振りからするとその番号にかけろということのようだ。ならば俺としてはどうあれ、何としてもその番号を思い出してアイネに電話をかけなければならない。


「……」


 必死になって記憶の糸をたぐるうち、何となくそれらしい手がかりに思い当たった。


 いつだったろう……そう、確かヒステリカに入ったばかりの頃、語呂合わせでその番号を覚えさせられたような気がする。それ以後ものの数回しかかけていないのだから思い出せなくて当然だが、何となくこれではないかという番号が頭に浮かばないでもない……。


「……間違っても知りませんよ?」


「構わないよ。いずれにしたってあたしはハイジに縋るしかないんだ」


 そのキリコさんの答えで覚悟を決めた。既に電源が入っているその古めかしい携帯に指を伸ばし、ひとつまたひとつとゆっくりボタンを押していった。すべての番号を押し終えたところで息を吐いてそれを耳に当てる。


 トルルルル、トルルルル……。


 耳慣れた呼出音が響くのを聞き、少なくとも番号ではなかったのだと知って、少しだけ胸を撫で下ろした。


『……もしもし』


 ――だがその次の瞬間、受話器から聞こえた声に思わず心臓が止まるほどの衝撃を覚えた。アイネの声ではない、それは男の声だった。


 いや――聞き間違えるはずもない、それはだった。


 あまりの衝撃に返事もできず、そればかりか携帯を取り落としそうになった……いつの間にか隣に立っていたキリコさんが引ったくるようにその携帯を奪ったのはそのときだった。


「その声はハイジだね。……あれ、違ったかい?」


 携帯を奪われた空の手をそのままに呆然とする俺に構わず、キリコさんは通話を開始した。まるで俺ではなく彼女自身が電話をかけたような調子だ。


 ……もっとも俺は一言も喋っていないのだから、通話の相手であるもう一人の俺は実際そう思っているに違いない。ぼんやりそんなことを考える俺を後目にキリコさんは元の椅子を引き腰かけると、テーブルの上に肘を突いて通話を続けた。


「この携帯にハイジが出たとこみると、アイネちゃんは留守か。……図星だね。アイネちゃんがいなくて暇持て余してたとこへ電話がきた。けど、不意打ちだった上に相手が相手なんで一応警戒してかかってる。そんなところじゃないかい?」


 何ともキリコさんらしい軽い調子の会話だった。いきなり電話をかけられて面食らっているもう一人の俺の様子がありありと目に浮かぶ。


 アイネの携帯にかけて出たのが俺だったことについても、キリコさんに驚きはないようだ。むしろ最初から織込済おりこみずみで、俺を相手に話すことが目的だったようにさえ思える。


「ああ、いいんだよ。話があるのはハイジにだからさ」


 そんな推測は彼女自身の言葉で裏づけられた。やはりその理解で正しかったようだ。アイネの携帯にかけたのも、彼女ではなくその隣にいるもう一人の俺に電話を替わってもらうため……最初からそういうつもりだったのだと考えるべきだろう。


「……ふうん、そうくるかい。ま、気にしないでおくれ。言葉のあやみたいなもんだよ。言ってみればさ。……けど、それってそんな大変なことかい?」


 ……ただそういうことなら事前にそのあたりの説明があってもいいようなものだ。無駄に心臓が止まりそうな思いをさせられた上に、用済みとばかりに携帯を引ったくられたのではさすがに釈然としないものがある。


 第一、あそこで俺が一言でも喋っていたらどうする気だったのか……。相変わらず勝手気ままなあるじの振る舞いについてつらつらと考え始めた――そんな俺の思索は次の一言できれいに吹き飛んだ。


「自分が劇の中にいるってこと喋っちまうのが、そんなに大変なことなのかい?」


「……っ!」


 思わず俺が立ち上がりかけるのと、彼女が手を上げてそれを制するのが同時だった。


 いつになくきつい目をこちらに向け、黙って聞いていろとその視線で語る。俺との間にそんな無言のやりとりを交わしながら、聞き慣れた余裕そのものの口調でキリコさんはもう一人の俺との通話を続けた。


「どうしてハイジはそれを大変なことだなんて思うんだい? ……いいんだよ、そんなのは。……自分が劇の中にいるって、ここでそう言っちまったっていいんだよ」


 立ち上がりかけた椅子にまた力なく腰をおろしたあと、魂が抜かれたようにその通話に耳を傾けた。


 ……なぜ自分が席を立とうとしたのかわからなかった。ただ俺がついさっき提供したばかりの情報を使って彼女がもう一人の俺を追いこもうとしていることはわかった。


 具体的なことは何もわからない……だがそれだけはわかる。それが明らかな騙しであり、回線の向こう側にいるもう一人の俺にとってある種の罠なのだということも。


「いいんだよ。そんなのは言っちまったっていいんだ。……演劇なんてそんな堅っ苦しいものじゃないんだ。何をしたっていい、何を言ったっていい。それが演劇のよさってもんじゃないのかい? とりわけあたしたちがずっとってきた演劇に限って言えば、さ」


 じっと押し黙ってその通話に耳を澄ましながら、いつしか俺はもう一人の俺の立場でキリコさんの語る言葉を聞いていた。それを聞くもう一人の俺が何を思い、何を感じているかまではっきりと手に取るようにわかった。


 ……あいつはあの廃墟で演じていた。自分は劇の中の世界にいると信じ、そこに与えられた役を演じようと真摯に立ち向かっていた。そこへ突然、こんな言葉をかけられたら……同じように演じていると信じていた彼女からこんなあからさまなの話題を振られたとしたら……。


「けど、その話はここまでだ」


 にわかに俺の中に湧き起こった葛藤を打ち消すようにキリコさんは宣言した。そうして二の句が継げないでいるに違いないもう一人の俺に向けて、たしなめるような口調でさらに続けた。


はここまでってことだよ。お互い確認することは確認した。それだけでいいんじゃないかい? ハイジにはハイジの役があるように、あたしにもあたしの役ってもんがある。それをやってく上でここから先の話はためにならない。たぶんお互いにね。だから、その話はここまでにした方がいい」


 そんな彼女の物言いを聞きながら、何が「お互いのため」だと腹の中で悪態をついた。自分の望む地点まで誘導できたからが出ないようにもうその話題は切り上げたいというだけの話だ。


 事情を踏まえて傍で聞いている俺には彼女の思惑がはっきりとわかる。回線の向こう側にいるもう一人の俺は、彼女の巧みな情報操作によってまんまと罠にはめられたのだ。


「さて、本題に入っていいかい? ……何だ、もう忘れたのかい? ハイジに話があって電話したんだって言っただろ。……やれやれ、とぼけてもらってちゃ困るよ」


 ――問題はここからだった。うまうまと罠にはめたもう一人の俺にいったい何をさせようというのか。それを聞くことで彼女の言う「勝負」の内容がわかる。


 そう思う俺の前で、キリコさんはその表情をすっと深刻なものに変えた。そうして低く落ち着いた声でゆっくりと「そこから逃げるんだよ」と告げた。


「そこから逃げるんだ。できるだけ早く。……そう、そこから逃げるんだ」

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