175 賽は投げられた(8)

 語りかけるたびに彼女の表情は重く、沈痛なものになっていった。その真剣そのものの顔で訴えるように「逃げろ」という言葉をキリコさんは繰り返した。


 意外な展開に戸惑っているのだろう、もう一人の俺を気遣うようにゆっくりと何度も同じ言葉を繰り返す。こっちの俺にとってもかなり意外な展開だった……ここからどう発展してゆくのかまるで読めない。


 張りつめた表情を崩すことなく、切々とした口調でキリコさんはその話を続けた。


「そこがもうすぐ壊れるからだよ。……自然な状態に戻るんだ。砂漠の真ん中に見捨てられた廃墟の、本来あるべき姿に。……まず人が入ってこなくなる。それから水も食糧も、今までどこからか流れこんできてた大事なもんがぜんぶ途絶えちまう。それがどういうことか、ハイジにはわかるね?」


 キリコさんの言っていることは理解できた。そしてそれが電話の前に彼女が口にしていたことと密接に関連していることもわかった。


 あともう少しでこの研究所は崩壊する、とキリコさんは言った。あの廃墟がこの研究所の管理で成り立っているとして、そうなればあそこが運命を共にするのは間違いない。


 ……そもそもあんな何もない砂漠の真ん中で人間が生きていられることの方がおかしいのだ。あの廃墟が本来あるべき姿に戻ればそこに生きている彼らがどうなるか――そんなのはもう考えるまでもない。


「ハイジだけじゃない。そこにいる全員だ。……みんなしてそこから逃げろ、ってそう言ってるんだよ。……他じゃ理解してくれないからさ。……あたしのこの話を理解してくれるのは、あんたたちの中でハイジだけだからさ」


 そう――俺には理解できる。基本的なところで変わりがないとすれば、もう一人の俺にもそれが理解できるはずだ。この話を聞きながら、滅びの運命にある廃墟から早晩逃げ出さなければならないことを回線の向こう側ではっきりと認識しているに違いない。


 ……だが逃げろと言われても、あの廃墟からいったいどこへ?


「外へ、さ」


「……」


「あんたたちを取り巻いてる荒野の外へ。言ってる意味がわかるかい?」


 もちろん、それはわかる。……だがそう思ってすぐ、何だろう、俺は言いようのない奇妙な感覚に襲われた。


 あそこから逃げるとなれば、その先は彼女の言うようにしかない。あの廃墟をとり巻く広大なうみを越え、その外側にある世界へ……そんな当たり前の結論の中に、何か途轍もなく大きな矛盾が潜んでいる気がして、俺は迷路に陥りかけた。


 だがそこでキリコさんの声が俺の意識をその通話に引き戻した。


「そうさハイジにはわかる。けど、あんたたちの中でそれがわかるのはハイジだけだ。だからあたしはあんたに話してる。ハイジにしかできないんだよこの話は」


 刻々と熱を帯びてゆく声に何気なくキリコさんに目を向け――そこで俺は息を呑んだ。


 ……彼女は泣いていた。落ち着いた声で懇々と語りかけながら、その目からはいつの間にか光るものが一滴、また一滴とテーブルに落ちていた。


 何のための涙かはわからなかった。だがその真に迫る姿に俺は思わず背筋を伸ばし、この先は一言も聞き漏らすまいとその通話に耳をそばだてた。


「足はあたしが用意する」


「水も食糧も、そこの全員が逃げ延びられるだけの分はどうにかする」


「もちろん、すぐには無理だ。けど、そこが決定的に崩壊する前にはどうにかしてみせる」


「そうかい。なら――」


「……」


「その隊長が消えるとしたら?」


「予言ってことになるのかね。あんたたちの隊長はもうすぐ消える」


「おそらく明日だ。明日の戦闘の中で撃ち殺されるか、あるいは何か別の理由でいなくなる。いずれにしても、あんたたちの前から隊長は消える」


「そしてあんたが――ハイジがそこの新しい隊長になるんだ」


「それしかないんだよ」


「さっきハイジが言った通り、そこの連中は隊長にしか従わない。だからそこが壊れる前に連中を助けたいなら、あんたが隊長になって外へ連れ出すしかない」


「今のが明日にも消えちまうとなればなおさらだ。ボスがいなくなりゃ野獣の群れに早変わりだ。統率なんてとれっこない。誰かが成り代わって隊長やるしかないんだよ」


「けどね、これは予言じゃないよ」


「さっきのと違って、これは予言じゃない。そうあってほしいというあたしの希望だ。あたしは、ハイジにそこの隊長になってほしい。それがそこの連中を救い出すたったひとつの道だから」


「あたしはそこの連中のことが好きだ。一人残らず身内みたいに思ってる。だからどうにかして助けてやりたい。むざむざ干物にしてたまるもんか。そのためにはハイジ、あんたに隊長になってもらうしかないんだ。残された道はもうそれしかないんだよ」


「話はそれだけだ。状況が変わったらまた連絡するよ」


「そのときハイジが動いてくれてることを、あたしは信じてる――」


 ――それで通話は終わった。


 携帯をテーブルに置くとキリコさんは大きく息をつき、それから思い出したように頬に残る涙を拭った。そんな彼女の仕草を俺は、終わったばかりの話から抜け出すことができないまま、ただぼんやりと眺めていた。


 滅びゆく廃墟から脱出するために隊長になれという宣告。その障害となる今の隊長――DJが明日にも消えるという予言。キリコさんが涙を流しながら語ったそれはあまりにもで、はたで聞いてるだけの俺さえ引きこまれるものがあった。


 あの廃墟に住まう人間たちをどうしても逃がしたい……長い通話の中で彼女がもう一人の俺に伝えたのはただそれだけだった。罠だの何だのといった当初の邪推を思い出し、恥ずかしさのあまり俺はテーブルに目を落とした。


 そこへ、キリコさんの声がかかった。


「さて、賽は投げられた」


「え?」


「緞帳はあがっちまったんだよ。役者もまだろくに揃ってないのにさ」


 苛立つような声に顔をあげて見ると、さっきまでとはまったく違う彼女がそこにいた。


 ぎらぎらと光る目で虚空を睨みながら、テーブルにかけた右手の人差し指を忙しなくそこに打ちつける。それはちょうど俺に電話をかけさせる直前に「勝負」という言葉を口にしながら彼女が見せていた姿だった。


「緞帳があがったって、どういう――」


「ああ、もう! 覚悟決めるしかないねまったく!」


「……」


「緊急の問題はひとつだ。ハイジも一緒に考えておくれ」


「……はい」


「昨日あそこ行ったときでっかいのがいただろ。連中から隊長って呼ばれてたやつだよ。DJってんだけどね、あいつを明日までにどうにかしなけりゃならない。その方法を考えとくれ」


「……質問の意味がわからないんですが」


「は? どのあたりがわからないんだい?」


「いや、予言だと明日いなくなるって……」


「だ・か・ら! その予言をどうやって当てるか考えないとだろ!」


「……」


「予言をんだよ。そのための方法を考えるんだよ」


「予言を当てる……って、もしかして自作自演ですか!?」


「そうに決まってるだろ。ったく、わかりきったこと聞くんじゃないよ」


 そう言ってまた苛立たしげに考えこむキリコさんを唖然として眺めた。


 ……開いた口が塞がらないとは正にこのことだ。さっきの電話でもう一人の俺に迫り来る廃墟の滅亡を語りながら、キリコさんは確かに涙を流していた。だがその口で彼女はいけしゃあしゃあと自作自演の予言を謳いあげていたのだ。


 あまつさえこの期に及んでその方法に頭を悩ませている。……つまりその予言は話の流れに任せてので、出たとこ勝負の行き当たりばったりだったということだ。


「……博打ってことですか」


「……博打ってことだよ。伸るか反るかの大博打だ」


「どうして用意もなしにそんな博打――」


「時間がないからだよ」


「……」


「最初に言っただろ。ここが終わっちまう前に荷物まとめて逃げ出さないといけないって。もう時間がないんだ。今すぐに動き出さなきゃそれまでに連中を逃がせないんだよ」


「一番大きな荷物ってのは、あそこにいる人たちのことだったんですね」


「……ああ、そうさ」


「どうしてですか?」


「ん?」


「どうしてそんな面倒なことしてまで逃がさないといけないんですか?」


 何の気なく口にしたその質問に、キリコさんはすっと視線をこちらに向けた。……と、あからさまな怒りと軽蔑とがその眼差しに浮かんでいるのを見て、自分が不適切な質問をしてしまったことに気づいた。


 頭の中に訂正の言葉を探して……だがそれが見つかる前に彼女の口が動いた。


「あたしだけ逃げろってのかい?」


「……」


「あたしだけ逃げ出せるわけないだろ。何もない砂漠の真ん中にあいつら見捨てて」


「いや、俺は……」


 ……そういう意味の質問ではなかった。口先まで出かかったその言葉を呑みこんで代わりに一言、「すみませんでした」と俺は告げた。


 そんな俺の応えをどうとったのかキリコさんはわずかに表情を和らげて俺から視線を外すと、「あいつらがすべてなんだよ」と独り言のように呟いた。


「あたしがここでやってきたことのすべてなんだ、あの廃墟の連中は。平たく言やそうなるよ。ここから持って出なけりゃならない唯一の成果物があいつらなんだ」


「……」


「けど、そればっかりじゃない。あいつらを見殺しにできないってのも本当のところだ。そんだけあたしはあそこに深く関わっちまった。どうにかして逃がしてやりたい……たとえそれがあたしの利益に繋がらなくても。あたしがそういう気持ちでいることは、ハイジにもわかっておいて欲しいんだよ」


 それだけ言うとキリコさんはまた黙りこみ、思案の中に没入してしまったようだ。「わかりました」という俺の声がちゃんと耳に届いたかも定かではない。


 それでも口にした言葉通り、俺はわかった。


 権謀術数をめぐらせ、嘘やはったりを平気で並べながらも、目の前にいるひとのベクトルがすべてひとつの方向に向けられていること――あの廃墟に住まう人々を逃がすというただひとつの目的を志向するものであることがはっきりとわかった。


 その一点において、キリコさんの気持ちが純粋であることを思った。そしてその理解をもって、俺は彼女の《兵隊》としてどんなことでも厭わないと、心の中でそう誓った。


「……役者が足りないね」


 長い沈黙のあと、テーブルに突いた左手を口に当てたまま、キリコさんはそう呟いた。


 俺は何も返さなかった。その手に開けられたばかりの鋭い傷はもう彼女に痛みを与えないようだ。ぎらぎらと輝く目で虚空を見つめ、右手の人差し指を忙しなくテーブルに打ちつけながら、「役者が足りない」ともう一度低い声でキリコさんは繰り返した。


◇ ◇ ◇


「あいつは乗ってくるはずだ。水の向け方さえ間違わなければ」


 薄暗い通路に二人分の靴音が反響する。埋込み型シーリングライトの明かりは相変わらず弱々しく、間隔の長さも相俟ってようやく足下が視認できる程度だ。


 例によって通路には人影がない。規則正しい靴音とキリコさんの声以外、耳に届く音はない。


「あのDJって男は、マリオにとって最大の癌だった。あの男の指揮する部隊があの廃墟に居座ってもう久しいし、そこへあたしが食いこんでたもんだからマリオはあそこで何もできなかったんだ。その上、お約束をひっくり返す魔弾の射手まで現れた。もう撤退する以外あいつに道はない。だから叶ったりとばかりにこの話には必ず乗ってくる」


 あのあとしばらくしてキリコさんはおもむろに椅子から立ちあがると、「マリオの所に行く」と告げ、そのまま部屋を出ていった。置き去りにされた俺はついていくべきか迷ったが、結局そのあとを追った。


 通路に出てからこうして彼女が話すところを聞いていると、目的はマリオ博士に協力を持ちかけるということのようだ。


 くだんの予言を現実のものとするために今のままでは手駒が足りない。衛兵隊ガーディアンを掌握するマリオ博士を口説いてその手駒を引き出したい――というのがキリコさんの狙いなのだろう。


「逆に問題があるとすれば、まず間違いなく裏を探られるってことだ。あいつにとってうますぎる話だけに、罠だと勘ぐられるのが一番怖い。そうして本当の理由は絶対に悟られちゃいけない。そのへんの駆け引きがここからの交渉の鍵になると言っていいね」


 それにしても部屋を出てこの方、キリコさんはいつになく饒舌だった。明らかに聞かれたらまずい話を連々と喋り続けている。外では一言も喋るなと厳しく俺に言い聞かせたことなどもう覚えてもいないのだろう。


 ……そういえばいつか似たようなことがあった気がする。言いつけ通りこちらが沈黙を守っていれば、黙ってないで何か喋れという声がかかるところまであのときと一緒だ。


「借りるのは衛兵隊ガーディアンですか?」


「そのあたりが妥当な線だ。腕の立つのを何人か。ただ、あのDJって男は百戦錬磨の古強者ベテランだからね。それだと確率はあがるが、確実ってわけにはいかない」


「……となると、ひょっとしてあの少女ですか?」


「その線も考えてる。とんでもない爆弾背負いこむことになりかねないけどね。逆にそっちだと」


「痛し痒し、ですね」


「痛し痒し、だよまったく。せめてもう少し時間に余裕があればね」


 いずれにしても危険な綱渡りに違いなかった。しかも首尾よくめぼしい人員を借り受けることができたところで、敵側の人間である彼らには事情を説明できない。そんな彼らとしてどうやってDJを失脚させようというのか、俺にはまるで見当もつかない。


 だがそのためにこうしてマリオ博士のもとに向かっているということは、キリコさんの中ではそのための構図がある程度かたちになっているということなのだろう。


「とにかく理由だね。このあたしがあいつに頭下げてまで兵隊借りなけりゃならない理由」


「……」


「あたしの方でそうせざるをえなかったやむにやまれぬ理由が必要なんだよ。本当のところとは別にね」


「……はい」


「はい、じゃなくて何か言ったらどうだい? あたしはハイジの意見を聞いてるんだよ」


「……はい?」


「あたしがマリオに兵隊借りなけりゃならない理由だよ。本当のところじゃなくて、嘘で信じこませる替玉ダミーの。なんか思いつかないかい? こう、さすがはハイジだっていうような斬新なやつをさ」

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