176 賽は投げられた(9)

「……と言うか、まだそのへん考えてなかったんですか?」


「もちろん考えてはいるさ。けど、ストックは多い方がいいからね。あたしが思いつかないような発想がハイジから出てくる可能性だってあるだろ?」


「なるほど」


 そう言われて、俺は少し考えてみた。あの廃墟から明日中にDJを除かなければならない理由……ただどうあれ、そのあたりについて俺の中にある情報は限られている。その限られた情報の中でそれらしい理由を組み上げるとすれば――


「ジャック博士と絡めてみるのはどうですか?」


「どうやって?」


「裏でジャック博士と通じてて、一緒にこの研究所の襲撃を計画してる、とか」


 俺がそう言うとキリコさんは鼻で笑った。そうして口元に笑みを浮かべたまま眉を八の字にしかめ、「ありえない話だね」と小馬鹿にするように言った。


「その二人が結託してるってのは、まずありえない話だ。なにしろこのところ毎晩のようにドンパチやってるわけだからね。そのへんの情報はマリオにも行ってるだろうし、第一、それがなくてもDJがあいつと組むことだけは何があってもありえない」


「……そうですか」


 嘲る微笑を浮かべたまま言う彼女に軽い反感を覚えながら、それだけ返した。……聞かれたから答えたまでだというのに、まるで無知をあざ笑うような反応は人としてどうなのだろう。


 そんな気持ちが顔に出ていたのか、キリコさんはその笑みをにわかに申し訳なさそうなものに変え、前に向き直ってからこちらを気遣うように言った。


「けど、それだけに面白いかも知れないね」


「……」


「確かにあたしには思いつかなかった。ありがたくもらっとくよ、そのアイデア」


「……はい」


 それで話は終わりだった。単調な通路の風景がそれでも見覚えのあるものになったところで、キリコさんは厳しい目で一度だけ俺を見た。


 その視線が何を意味するものかは聞くまでもなかった。……俺は口を閉ざし、心の中で何度も自分に言い聞かせる。この先、キリコさんの口から出る言葉を、俺は理解できない。彼女とマリオとの間に交わされる会話を、俺は一言たりとも理解することができない――


⦅――おや、誰かと思えば⦆


 ノックに応じて自ら扉を開いて出迎えたマリオ博士は、驚きの表情でそう言った。だがキリコさんはそんなマリオ博士に構わず、⦅急用ができてね⦆と言いながらずかずかと部屋の中へ入ってゆく。


 表情を辟易としたものに変えるマリオ博士と目が合った。そんな彼に場違いな同情を感じながらも、俺は黙ってキリコさんのあとに続いた。


⦅いったいどういう風の吹き回しだいキリコ? 君の方から訪ねてくるなんて珍しいじゃないか⦆


⦅だから急用が持ち上がったって言ってるだろ。そうでなきゃ誰がわざわざあんたのとこへなんか来るもんか⦆


⦅やれやれ、つれないのはいつも通りか。お茶でも淹れよう、待っていたまえ⦆


⦅ああ、お構いなく。そんなつもりで来たんじゃないよ。早く用件終わらせてとっとと帰りたいんだからさ、こっちは⦆


 と言いながらもキリコさんはマリオ博士の引くパイプ椅子にどっかりと腰かけ、おそらく茶を淹れるために奥へ退去するマリオ博士にそれ以上何も言わない。いつに変わらないそのぞんざいな態度が彼女なりの演技なのだと、俺はそこで気づいた。


 当然、マリオ博士もそのあたりは見抜いているのだろう……駆け引きはもう始まっているのだ。


 そう思って俺はキリコさんの座る椅子の後ろに移動し、衛兵よろしく背筋を伸ばして直立の姿勢をとった。


⦅先月のアールグレイが残ってたのかい?⦆


⦅いや、これは新しく仕入れたものだ。エリックに頼みこんでね。君が来るときに是非と思っていたんだよ。好きだということはかねて聞き及んでいたから⦆


⦅誰の情報だい? 別に好きでもないよ。嫌いじゃないってだけの話さ⦆


⦅はは、それは語るに落ちるというものだよキリコ。ことアールグレイに関して嫌いではないということは裏返しの肯定に違いない。そうだろう?⦆


 オレンジの皮を焦がしたような独特の匂いを漂わせる紅茶をカップに注ぎながら、穏やかな笑みを浮かべてマリオ博士は言った。


 その言葉にキリコさんは反論を返さない。その代わりに博士から差し出されるカップを手にとり、黙ってそれを口に運ぶ。


 表向きは社交的なやりとりを交わす二人の間に、ちりちりと青白い火花が見える気がした。こうしている中にも彼らの頭は、次に切り出す一言のことで素早く回転を続けているに違いない。


⦅味の方はどうだろう?⦆


⦅ま、結構なことで⦆


⦅そうか、気に入ってもらえて嬉しいよ。キリコのその一言が聞きたくてエリックに無理を言ったのだからね⦆


⦅そりゃどうも⦆


 その証拠に肝心の話はいつまでも始まらない。お互いに穏やかな笑みを浮かべながら、天気について語るような差し障りのない話を続けている。


 うわべはあくまで涼しげなその会話の裏で、どちらが先にか探り合っているのがよくわかった。しばらく膠着した状態が続いたその静かな闘争の果てに、先にのはマリオ博士だった。


⦅――それで、何だったかな?⦆


⦅ん?⦆


⦅君がここへ来た理由だよ。何か急用があって来たとか、さっきそう聞いた気がするのだが⦆


⦅ああ、そうだったね。すっかり忘れてたよ。あんたの淹れてくれたお茶があまりに美味しかったもんでさ⦆


⦅それはどうも⦆


⦅じゃあ本題に入らせてもらおうかね。まあなに、そんな大したことじゃないんだけどさ。――マリオ、あんたはこいつのことを覚えてるかい?⦆


 そう言ってキリコさんは白衣の懐に手を差し入れ、そこから折りたたまれたハンカチを取り出した。そしてそれをマリオ博士の目の前で広げてみせる。


 その内側に覗いたものは小さなプラスチックの弾――BB弾だった。その小さな弾を軽く一瞥したあと、またキリコさんに目を戻して⦅覚えているとも⦆とマリオ博士は言った。


⦅忘れるはずもないだろうキリコ。しかし、これがいったいどうしたと言うんだね?⦆


⦅BB弾っていうらしいんだ⦆


⦅……BB弾?⦆


⦅そう、BB弾っていうらしい。玩具の鉄砲の弾ってことのようだ。もっとも飛距離はかなりあって、命中精度もばかにならないものらしいんだけどね⦆


 ハンカチの上のBB弾を指に取り、眼前にそれを弄びながらキリコさんは言った。そんな彼女を前にマリオ博士がにわかに真剣な表情をつくるのが見てとれた。


 それを認めてか、キリコさんはBB弾をハンカチに戻し、元通りにたたんで懐に納めた。そうしてマリオ博士に向き直り居住まいを正したあと、言った。


⦅昨日、あたしが『試験場』に出向いたのは知ってるね?⦆


⦅……ああ⦆


⦅持ちきりだったよ、その弾の話題で。そいつさえあればいつでも黒服を殺せる、ってさ⦆


⦅ほう……⦆


⦅ただ、その弾を撃てる銃は今のとこ一丁しかないようだ。当然、隊長であるあいつが握ってるわけだけどね⦆


⦅……⦆


⦅さて、ここまで話せばもうわかるだろ? あたしが何のためにこんないけすかないとこまで足を運んだのか、その理由ってやつがさ⦆


 そう言ってキリコさんは頭の裏に手を組み、椅子の背もたれに背中をのけぞらせた。そんなキリコさんとは対照的にマリオ博士は身動きをせず、真剣な表情でじっと彼女を見つめている。


 ……何も理解できない振りを決めこみつつそんな二人を眺めながら、なるほどうまい切り出し方だ、と俺は思った。


 俺が提供した情報をうまく使ってキリコさんは話を優位に進めている。しかもその情報を餌にすることで、隠さなければならない本来の理由は、完全に話の外にある。


⦅……つまり、この小さな弾によってが発生したと、そういう理解でいいのか?⦆


⦅さあ、本当ほんとのとこどうかなんて知ったこっちゃないね。ただ連中はそう言ってた。それだけのことさ⦆


⦅しかし、元々こんな弾を撃てる銃はなかったはずだ。あの閉鎖された『試験場』の中に、いったい彼らはどこからそんなものを調達できたのだろう?⦆


⦅それもあたしの知ったこっちゃない。大方、ジャックあたりと裏で繋がってて、そこから流してもらったんじゃないかい?⦆


⦅……それがありえない話だということは、私よりも君の方がよく理解しているはずだが⦆


⦅推測を述べたまでだよ。実際なにがどうなってるかなんて、あたしにはまるでわかりゃしない⦆


 両腕を横に突き出し掌を天井に向けるジェスチャーをするキリコさんの前で、マリオ博士は幾分不機嫌そうな表情をつくった。


 それが何のために浮かんだ表情かはわからなかった。けれどもマリオ博士が煮え切らないキリコさんの話に苛立っていることは、何となくわかった。そんな俺の理解を裏打ちするように、それまでより低い声でゆっくりとマリオ博士は言った。


⦅それで、君がここへ足を運んだ理由というのは?⦆


⦅……⦆


⦅考えてみたけれどわからないよキリコ。君がここへ足を運んだ理由は何だい?⦆


⦅……⦆


⦅情報の提供に来たというのではないだろう。君の求める対価は何だ? その情報をくれる代わりに、いったい何をこの私に求めるというのだ?⦆


 いつになく性急なマリオ博士の質問だった。その質問にキリコさんはしばらく応えず、ゆっくりとから口を開いた。


⦅あたしが前から言ってたこと、覚えてるかい?⦆


⦅……さて、何だっただろう⦆


⦅あの『試験場』に本物の軍隊ができちまったら、そこであたしらの実験は終わりってことさ⦆


⦅ああ、かねてからの君の主張だったな⦆


⦅あたしらに牙を剥きかねない本物の軍隊ができあがっちまったらもう終わりで、そうなったらもうあの『試験場』そのものを放棄するしか道がない⦆


⦅……その通りだよ⦆


⦅ただその一方で、そこまでに成長したあいつらが実験の最大の成果物であることも、また疑いないんじゃないかい?⦆


⦅……⦆


⦅すべてを無に帰しちまうのは簡単だ。けど成果物のあいつらを干涸らびさせて、それで『本部』への言い訳が立つか。あたしが言いたいのは、つまりそういうことだよ⦆


⦅『試験場』を維持しつつ、現実のものとなりつつある本物の軍隊の成立を阻止する……ということでいいのかな?⦆


⦅その通りさマリオ。で、そのためにあたしがしなけりゃならないこともあんたならわかるだろうね?⦆


⦅問題の銃の除去……ではないな。誰かが裏にいるとするなら、また同じものが流れてくる⦆


⦅まあ、そうなるだろうね⦆


⦅裏にいる人物を排除しなければならないということか⦆


⦅それができりゃ苦労しないよ。誰のものかもわからない影を相手にするには手間も暇もなさすぎる⦆


⦅では、撃ち手か⦆


⦅……⦆


⦅いや、言葉を変えよう。排除すべきは今まさに成立しようとしている軍隊のたる人物、ということでいいのかな?⦆


 言葉を選ぶように慎重にマリオ博士は言った。


 ……ついに核心に迫る発言が、マリオ博士の方から出た。そんな博士を前にキリコさんは何も応えず沈黙を続けた。


 椅子の裏に立つ俺には彼女がどんな表情で博士を見ているのかわからない。その表情のわからないあるじの口から、あきらかにそれまでとは違う張り詰めた声が響いた。


⦅明日にも、その組織者たるあの男を『試験場』から回収する⦆


⦅……⦆


⦅もう形振なりふり構ってられない。とにかく一刻も早く回収することが先決だ⦆


⦅……⦆


⦅けど、そのためにはどうしたって人間が足りない⦆


⦅……⦆


⦅だからあたしは今日ここに、マリオの力を貸してもらいに来たんだ⦆


 最後は直球だった。何の誤魔化しもなく、結論としての要望まで一気にキリコさんは言った。


 その声には紛れもない真実の響きがあった。……嘘がないのだから当然かも知れない。あの廃墟から一刻も早くDJを除きたいという彼女の言葉に嘘はない。ただここまでの話の中、そのが巧みにすり替えられているだけだ。


 キリコさんの発言に、今度はマリオ博士が応えずに沈黙した。彫りの深い顔を微動だにせず、まるで彫像にでもなったかのようにじっとキリコさんを見つめた。


 その表情はいつまでも変わらなかった。やがてその静止した表情のまま、ぎこちなく口元だけ動かしてマリオ博士は言った。


⦅即答はできかねるよ⦆


⦅……⦆


⦅軍曹の意見を聞いてみないことには。衛兵隊については私だけでは何とも言えないのでね⦆


⦅……そうかい⦆


⦅君の希望に沿った協力はしたいと考えている。だが、いま少し時間がほしい。軍曹と協議した上で可及的速やかに回答する。……とりあえずはそれでいいかな?⦆


⦅ああ、それでいいよ。邪魔したね⦆


 そう言って席を立つなり、キリコさんはそのまま部屋を出て行こうとする。もう話はついたということなのだろう、マリオ博士も止めようとしない。


 慌てて俺は彼女のあとを追い、同じように部屋を出かける。そこにふと思い出したようにマリオ博士からの声がかかった。


⦅そういえばキリコ。聞き忘れていたのだが⦆


⦅なんだい?⦆


⦅その玩具の銃とBB弾とやらに関する詳しい情報を、君はどこから?⦆


 その質問にキリコさんはいったん素の表情に戻り、それからにやりと笑った。そうしてドアノブを握っていた手で俺の腕を掴むと、半ば強引にマリオ博士の方を向かせて、言った。


⦅この子に教えてもらったのさ⦆


⦅……⦆


⦅あたしたちが知らないことを沢山知ってるんだよ、この子は⦆


⦅……ほう、それはまた⦆


⦅どうだい? なかなかの性能だろ⦆


⦅……確かにそのようだな。素晴らしい⦆


⦅それじゃ、返事は早めに頼むよ。期待して待ってるからさ⦆


⦅ああ、わかったとも――⦆


 交渉はそれで打ち切られた。俺を先に通したあと後ろ手に扉を閉め、薄暗い通路にキリコさんは大きく溜息をついた。


「戻るよ」


 そう言って早足に歩き出す。俺は黙ってそのあとを追った。


 交渉の首尾はどうだったのか……キリコさんの意図したように進めることができたのか、あるいはできなかったのか。そのあたりが気になったが、無言で前を行く彼女の背中に、部屋に帰り着くまで俺は一言もかけることができなかった。

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