177 賽は投げられた(10)
部屋に戻ってすぐ、キリコさんに勧められるままサウナに入った。そんなことをしている余裕があるのかと一瞬躊躇したが、マリオ博士からの返事が来るまで動けないのだと思い直して結局、入ることにした。
ただ、さすがにゆっくりと
サウナからあがるとテーブルには食事の準備ができていた。俺の姿を認めるとキリコさんはわざわざ椅子を引いて座るように促してくれる。……まるで俺が
食事の間、キリコさんからは一言もなかった。何かを考えこむように目を伏せたまま、ただ黙々と食事を続けた。それが理由で、俺の方からも声をかけることができなかった。
食器同士が触れる乾いた音、暗い口の中に押しこめられた咀嚼の音……そんな小さな音が代わる代わる計器の唸る音に混じるのを聞くともなしに聞きながら、彼女と同じように食事をとった。
静寂に満ちた食事のあと、キリコさんはやはり無言のままテーブルの上を片づけた。さすがに何か手伝うべきだと思い、立ちあがろうと腰を浮かしかけたところで、まるでそれを見越したかのように「いいから座っといで」という彼女の声がかかった。
……考え事に没頭していたというわけでもないようだ。俺は椅子に座り直して、ただじっと彼女が戻ってくるのを待った。
「……」
そう言えばいま何時なのだろう……流しに行ったままなかなか戻ってこないキリコさんを待ちながらふとそんなことを思った。
朝に目を覚ましてからまだ三時間くらいしか過ぎていないような気がするし、逆に二日も三日も経ってしまったようにも感じる。空調が利き、人工の薄明かりに終日ぼんやりと照らされるここでは、本当に時間の感覚がなくなってくる。
「……ん」
ただそう思えばそろそろ眠くなってきたような気もする。ここまで神経を張り通してきたのが弛み、腹にものが収まったからかも知れない。そのうえ待ちぼうけをくらって何もできないでいるのだから、それは眠くなりもする。
それでも
⦅――ちょっと、人の話聞いてるのかい!⦆
「……っ!」
奥から響いた声に俺は弾かれたように背筋を伸ばした。しばらく船を漕いでいたのだろう……だがその声で完全に目が覚めた。
居眠りの余韻を追い払うために両手で軽く顔を叩き、奥から声の主が戻ってくるのを待った。
ほどなくしてその姿は見えた。――けれども先に部屋に入ってきたのは、待っていたその人ではなかった。
⦅理由はさきほど申し上げたはずです。それで充分かと――⦆
そんな声と共に入ってきたのはエツミ軍曹だった。
部屋に入るなり俺の姿を認めた軍曹はそこで立ち止まり、小さく敬礼の姿勢をとった。……わけがわからないまま俺は椅子を鳴らして立ち、同じように敬礼で返した。
遅れて部屋に入ってきたキリコさんがきっ、ときつい目で俺を睨む……そこに至って俺はまた空気が抜けたように椅子に座りこんだ。
⦅部屋に入って早々に色目かい? 勘弁しておくれ。ただでさえ女に免疫がないんだ⦆
⦅そのようなつもりはございません。ただ
⦅誰が認めたんだい、誰が⦆
⦅承認いただけないのであれば本来の職務に復帰するまでです。しかし、
⦅……⦆
⦅任務を完遂するまで、自分はキリコ博士の直属となります。どのようなご命令であれ、ご遠慮なきよう⦆
生真面目な顔でそう告げるエツミ軍曹の隣で、キリコさんは文字通り苦虫を噛み潰したような顔をしている。その短い会話でだいたいのところは読めた。……キリコさんの要請に応えてマリオ博士が貸し出してくれたのは、衛兵隊の長たるエツミ軍曹その人だったのだ。
だが今のキリコさんの表情が物語るように、それは望んでいたものとはほど遠い増員だったようだ。
軍曹の話を聞く限り貸し出されたのは衛兵隊ではなく、あくまで彼女単体ということらしい。だとすればキリコさんが渋い顔をする理由もわかる。ここで追い返せばそれまで。承認するならば明日はこの三人で例の作戦を決行せざるをえない……。
⦅……わかったよ。明日はよろしく頼む⦆
⦅はい。一命を賭してご協力いたします⦆
⦅そういうわけだから帰っておくれ。明日は適当な時間に迎えに行くから⦆
⦅いえ、そうは参りません⦆
⦅……何が参りませんって? こっちはもうすっかり参ってるんだけどね⦆
⦅承認いただきましたのであれば、任務完遂まで職責を離れることはできません。常にキリコ博士のお
⦅……じゃあ何かい? 明日の件が片づくまで、あんたはずっとあたしらと一緒ってことかい?⦆
⦅はい。その覚悟であります、
生真面目な表情を貼りつけたまま、当たり前のことを口にするように軍曹は言った。キリコさんはまだ何かを言おうとしたが、力なく頭を振って諦めたようにエツミ軍曹を見た。
⦅わかったよ……好きにしておくれ。けどもう寝る時間だ。ここにはあたしたちの分の寝台しかないんだけどね⦆
⦅問題ありません。自分は床で眠ります⦆
⦅……そういうわけにもいかないさ。明日はちゃんと働いてもらわないと困るし。……仕方ないね、そこの寝台を使っておくれ⦆
⦅かしこまりました。ですが、
⦅この子と一緒にここで寝るよ。ひとつだけ約束してくれるかい? 電気消してカーテン閉めたら、何があってもこっちを覗かないこと⦆
⦅はい。了解いたしました⦆
⦅じゃ、また明日。お休み⦆
⦅お休みなさいませ、
いまいち流れが掴めないままぼんやりする俺を置き去りに照明が落とされ、そのまま俺はキリコさんに腕引かれて寝台にあがった。カーテンが引かれて計器の明かりが遮られると、目が慣れないこともあって周囲は完全な闇になった。
その闇の中、かさかさと小さな衣擦れの音が響いた。やがてばふっ、とキリコさんの身体が寝台に倒れこむ音がして、重く深い溜息がそれに続いた。
「……ハイジはそのままでいいのかい?」
「え?」
「服、脱がなくてもいいのかい、ってことだよ。寝るとき」
「いや……いつもこのままですけど」
「ならとっとと寝るんだね。ほら、いつまでもそんな半端な格好してないで」
またキリコさんに腕引かれて、俺は彼女と同じように寝台に倒れこんだ。ただそうして寝転がってみても、俺は自分の置かれた状況がよく理解できなかった。
……何がどうしてこうなってしまったのかまるでわからない。エツミ軍曹が部屋に居座ると言い出したことも。その流れでこうしてキリコさんと――情報を総合するに裸かそれに近い格好の彼女と二人、同じ寝台に横たわっていることも……。
「……厄介なことになっちまった」
「え?」
耳元での囁きに、思わず上擦った声が出た。そんな俺に続けて「静かに」と囁き、蚊の鳴くような声で彼女は話を続けた。
「抜かったね……体よくスパイを送りこまれたようなもんだ」
「……そうですね」
「けど、今さら引き返せない。協力を頼んだのはこっちなんだし、あんな女でも貴重な戦力には違いない」
「……はい」
「働きはあまり期待できないけどね。あれ一人ってのは想定外だったよ。ああ、まったく……こんなことなら難しい作戦だって、もっとマリオに念を押しときゃよかった」
悔しそうな声でそう言うと、キリコさんはまたひとつ溜息をついた。その吐息がまともに耳に入って、俺は思わず身を竦ませた。
闇の中、間近に迫る彼女の顔が驚いたように目を見開き、それからにんまりといやらしい感じのする笑みを浮かべた。
「ちょっと臭うかい?」
「……え?」
「臭うだろ、あたしの身体」
「……」
「サウナ入ったんだけどね、ハイジが訓練行ってる間に。それでもまあサウナってのは、体臭消すためのもんじゃないし」
そう言って彼女はじっとこちらを見た。薄笑みの残る顔に大きく開かれた二つの目が、濡れたような光をもって俺の中心を貫いた。
……そこで初めて、彼女の言葉通り周囲にこもる体臭を嗅いだ。胸元から立ち上る自分の体臭に混じって、それとははっきり違う女の体臭――キリコさんの身体から漂い来るそれが、甘やかに鼻孔の内側をくすぐるのを感じた。
「ハイジの身体も臭うね。さすがにこうやって一緒に寝てると」
「……」
「けど、あたしはこの臭い嫌いじゃないよ。むしろ好きかも知れない」
「……」
「そういえばちゃんと嗅いだことなかったね、ハイジの臭い。この際だから、もっと近くでよく嗅がせておくれ」
そう言ってキリコさんは寝返りをうち、俺の胸のあたりに鼻面を押しつけた。そうしてくんくんと音を立て、その臭いを嗅いでいるようだった。
……未だに何が起きているのかわからないまま俺は、彼女がそうするのに任せた。ただ身体の奥には決壊寸前の何かがあって、あと小さなきっかけがひとつでもあればなす術もなく押し流されてしまいそうだ。
「……したくなってきたかい?」
「……」
「……いいよ、しても。ハイジの好きにしておくれ」
「……」
「その代わり声我慢したりはしないからね、あたしは。めいっぱい喘いで、外で寝た振りしてる女に聞かせてやる」
「……わけない」
「ん?」
「……できるわけない、そんなこと」
「おや、本気にしたのかい?」
「……」
「冗談に決まってるだろ、この状況で。まったくしょうがないねえ、ハイジときたら」
「……っ!」
衝動に駆られて向き直った俺を、キリコさんは穏やかな笑顔で迎えた。最初からすべてわかっていたというような……逆にこの先なにをしても許すというような、そんな笑みだった。
それでもう俺は何も言えなくなってしまった。そんな俺の髪に手を伸ばし、優しくゆっくりと掻き撫でながら彼女は言った。
「いつでもいいってのは
「……」
「けど、今は我慢しておくれ。明日は大事な日だからさ」
「……」
「明日の仕事にあたしの――あたしたちのこれからが懸かってる。
「……はい、
話はそれで終わりだった。俺の髪から手を離すとキリコさんはまた寝返りをうち、「お休み」と言ってそれきり黙った。
「お休みなさい」と返して、俺も天井に視線を戻した。だがそうして喋るのをやめ、やがてキリコさんの寝息が耳に届き始めても、当然のように俺はなかなか眠りにつくことができなかった。
「……何でこんなことになってるんだろう」
一向に眠気を覚えるきざしのない頭に浮かんだままの言葉を、ぽつりと呟いた。
……昨日の事件を受けて深刻な展開で幕を開けた今日という日が、仕舞いにはなぜかこんなことになっている。カーテンの向こう側に眠る女と、内側に眠るもう一人の女。その二人の女の間にあって俺はまんじりともできないばかりか、今もって自分の置かれた状況がよくわからないでいる……。
「……何でこんなことになってるんだろう」
もう一度そう呟いたあと、無理に目を閉じた。今の俺にとって眠りに就くことがすべてで、それ以外なにも考える必要はないのだと思った。……だがそう思えばそう思うほど眠りは遠のき、ますます目が冴えてゆくようだ。
非現実的なこの劇中の世界においてとりわけ非現実的な、二人の女と寝室を共にする一夜。その暗闇にぼんやりと天井を見つめる俺にとって、眠れないということだけが唯一の確かな現実だった。
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