178 共同作戦の夜(1)
――気がつけば、俺はそこに立っていた。
無数の歯車が暗闇の中に浮かぶ
とても現実のものとは思えない不可思議な領域。小難しい論理に基づく有機的なシステムにより成立するという、キリコさんが『ヤコービの庭』と呼んだ仮想現実世界――そこに、俺は立っていた。
まず最初に感じたのは静寂だった。そうしてすぐ、いつもは回っている歯車がひとつも動いていないことに気づいた。
ちょうどあのとき……何の前触れもなくクララが現れ、謎めいた
待ち続けても視界に変化はなかった。静止した
……そこで初めて、いつの間に訓練が始まったのだろう、と思った。ここへ来る前のことがはっきりしない。キリコさんに指示を受けた覚えもなければ、あの白い部屋に入って耳障りなノイズを聞いた記憶も、今回に限ってはない。
「……あ、そっか」
そこまで考えて、俺は自分の置かれた状況についてようやく思い当たった。正確にはマリオ博士との交渉を終えて部屋に戻り、エツミ軍曹とのごたごたの中でキリコさんと同じベッドに寝入ったことを思い出した。
……だとすればここは夢の中だということになる。明晰夢といっただろうか、夢の中であることがわかっている夢――その中に今、俺はいるのだと思った。
「……」
ただ、夢にしては妙にリアルだった。歯車の重厚な質感といい、それを眺める自分の意識の鮮明さといい、訓練でここに送りこまれたときとまるで同じだった。
そう……何度も訪れている仮想現実だという空間はその実、少なくとも俺の感覚において本物の世界と何も変わらず、走れば疲れるし殺されれば激しく痛い。眺め続けるほどに、ここがあの場所であるように思えてならない。だがキリコさんと共に寝入ったはずの俺がなぜここにいるのか、そのあたりがどうもよくわからない。
「……ま、いいか」
答えの出ない疑問を早々に切りあげ、俺は手近な歯車に歩み寄った。そうして動かないその鉄の塊を見つめ、そっと指を這わせてみた。
ひやりとした感覚が伝わり、思わず指を引っこめた。鉄だから冷たいのは当たり前だと思った――鉄? 金属であることは間違いないようだが、鉄であるとは限らない。本当にこの歯車は鉄でできたものなのだろうか?
考えてみればこうしてまじまじとこの歯車を眺めたことなどなかった。……と言うより、いつもはここへ来てすぐに少女との訓練が始まるのだから、そんな悠長なことをしている暇などなかった。
そう思うことで、自分がいま初めてこの不可解な空間を落ち着いて観察する機会に恵まれたことを知った。もっともここが本当にあの場所だという確証はない。そんなことを考えながらも俺は好奇心に駆られ、目の前の歯車にもう一度手を伸ばした。
「うわ……」
噛み合いに近い歯の部分に触れた指先に
汚れた手を鼻に近づけて臭いを嗅ぐ。いつか夜勤のバイトで工場にまわされたとき空気のように立ちこめていた臭いが鼻の奥に蘇って、それが機械同士の摩擦を少なくするための潤滑油であることを確認した。
汚れた手を眺めるうち、ふとここが夢の中であることを思い出して油をジーンズになすりつけた。そうしてまた歯車に向き直り、顔を近づけてじっくりとそれを見つめた。
新しいものではなかった。やはり鉄製のように思えるその表面には無数の小さな傷が刻まれ、ところどころに浮いた錆びが歯車としての年季――回り続けた期間の長さを物語っていた。
……何のために回り続けてきたのか、もちろんわからない。だがこの何もない空間で連綿と回り続けてきたことを思えば、何となく慰労の言葉をかけてやりたい気持ちさえ湧いてくる。
「……」
それにしてもリアリティは真に迫っていた。ここが夢の中であるにしろ、例の仮想現実の中であるにしろ、この歯車だけ見れば細部に至るまで実物そのものであり、目を離して見なければそれが宙に浮いていることさえ忘れてしまう。
だがそうやって目を離し、少し距離を置いて見たとき、あまりにもリアルなその歯車が軸もなしに浮遊しているという矛盾に気づく。
今まで意識しなかったアンバランス――明確な現実と非現実の混在するだまし絵にも似たその光景から受ける印象は、奇妙や不可思議という言葉を通り越してただ一言、矛盾というより他になかった。
「……」
しばらくそうして眺めていても据わりの悪い印象は消えなかった。歯車は止まったまま動き出さず、その一方で夢から覚める気配もまったくみえなかった。だからといってこの場所には歯車以外に何もなかった。早くも萎え始めた好奇心を無理に奮い起こし、俺はまた近くに浮かんでいる歯車に近づいた。
「……そうだ」
そこでふと思いついて歯の向い側に回った。歯に足先をかけて踏みこんでみる……動かない。思い切って体重をかけてみる、やはり動かない。
そのことを確かめて地面を蹴り、油に足をとられないようにゆっくりと俺の身長より高いその歯車の上によじ登った。
「おお……」
歯車の上に立って見るその光景はなかなかの壮観だった。見渡す限り歯車が連なっているのは下で見たものと変わりないが、それを足下に見下ろしていることでだいぶ違った景色になっていた。
そうして眺めることによって初めて、どこまでも広がる歯車の連結が上下方向へはあまり延びていないことに気づいた。
あくまで平面的に連なった無数の歯車は目の粗い絨毯か、あるいは波打つ夜の海のように見える。斜めのものはひとつもない。ぜんぶ縦と横、直角に組み合わされながら面で広がっている夥しい歯車に、どこか幾何学的な美のようなものを感じないでもない。
……そういえばいつかの訓練で、上から降ってきた少女に
キリコさんの分析によれば、その襲撃に先立って少女はこうして歯車の上に立っていたということになる。ただあのとき歯車は止まっていなかったのだから、俺がこうして立っているのとはわけが違う気がする。
回り続ける歯車の上でステップを踏みつつ、
「よ……っと」
シュールそのものの景色にも慣れてきたところで、歯車から飛び降りた。着地してから自分があのときの少女と同じように上から降ったことに気づいて、それ自体はあまり難しいことでもなかったのだと知った。
落ちる角度さえ間違えなければ油で足が滑ることもない。それになるほど、彼女の小さな身体でもこうして勢いをつければ、倍近い俺の身体を倒して地面に這いつくばらせることができるのだ。
そんなことを考えながら何気なく振り向いた――そこに、少女が立っていた。
「……」
突然のことに反応できず、頭だけ後ろに向けたぎこちない格好で固まった。歯車が動き始めるまで少女は来ない……何の根拠もなくそう思っていたから、少女がいきなり現れたことに驚きは大きかった。
その驚きのあまり動けずにいる俺に、少女もまた動かなかった。こちらを向いて棒立ちの姿勢で、いつものつまらなそうな、どこかふてくされたような表情のまま。
不思議と恐怖はなかった。度重なる訓練の中で感じ続けた感覚、狩られるのを待つことしかできない獲物の絶望に似た、肌を切り裂くようなあの切迫感がなかった。
その理由について少し考え、何のことはない、訓練ではないからだという簡単な結論が出た。
考えてみればここは夢の中だった。キリコさんの隣に眠る寝台に見るこれは夢なのだから、その中でまでこの少女を恐れ、逃げ惑う必要はない。
そう思い、向き直って彼女を眺めた。距離はだいぶ離れていたが、どこに光源があるのかわからないうすぼんやりとした空間に少女の容貌ははっきりと見てとれた。
――小さな子供だった。年齢はローティーンか、まだそれに満たないくらい。入院患者を思わせる白いシャツから覗く腕はか細く、捻り上げれば簡単に折れてしまいそうだ。
最初、男女の判別がつきかねたように胸はまだほとんどない。くしゃくしゃの金髪と青みがかった目。そこに大人になるのを拒むような子供らしさはあっても、少女から女へ向かおうとする兆候のようなものはみてとれない。だが――
「……」
よく見れば可愛いかも知れない――場違いにも俺はそんなことを思った。
雪のような白い肌に華奢な手足。端整な目鼻立ちには透明感という使い古された言葉が自然と浮かんでくる。かの有名な小説で定義された蠱惑的な魅力を持つ少女を指す造語『
少女の姿が視界から消えた瞬間、反射的に自分も動いていた。
いつものように恐怖に衝き動かされてのことではない、完全に条件反射だった。事実、どうやら訓練が始まったらしいということを漠然と認識しながらも、俺はまだ恐怖を感じていなかった。いつも通り歯車の間を全力で駆け抜けながら頭に浮かぶのは少女がどこへ消えたのか、次にどこから現れるのか――ただそれだけだった。
「あ……無いのか」
そこで初めて、俺は自分が武器を持っていないことに気づいた。無限に弾を撃ちまくれる便利な拳銃は今日に限って無く、走りながらポケットを探ってもそれらしいものは見つからない。
……こうなればもう開き直るしかないと思った。やはりこれは訓練ではないのだ。訓練でないのなら――そう、顔見知りの女の子と二人でする鬼ごっことでも考えればいい。
「……っと」
ひときわ大きな歯車を右手に通過しかけたところで、俺は立ち止まらず角を曲がるように左へ折れた。なぜそうしたのかわからない、無意識にそうしていた。
そのまま走り続けた。手元に武器がない以上、俺にはそうすることしかできない。こうなってもまだ動き出そうとしない無数の歯車にいつもとは違う新鮮な印象を覚えながら、その間を縫ってただひた走りに走った。
「はあ、はあ、はあ……」
息が切れるまで走り、そこで立ち止まった。と言うより苦しくて立ち止まるしかなく、身を屈め膝に手をついて呼吸が落ち着くのを待った。
少女の姿は見えなかった。少なくとも俺の目に入る範囲内にその姿はない。けれどもまいたのではないということはわかっていた。危険が去ったわけではまったくなく、むしろその逆だということ――それは、はっきりとわかっていた。
「……ふう」
だがそうして荒い息であえいでいる間、少女は姿を見せなかった。だいぶ落ち着いたところで背を立て、溜息をついてあたりを見まわした。やはり少女の姿はなかった。
……今日はこの通り手も足も出ないのだからさっさと来てもよさそうなものだが、なぜか少女は来ない。反撃しない俺は追う価値もないということなのだろうか? あるいはそのへんの歯車の陰に隠れ、俺が動き出すのを待っているのかも知れない。
「よっ……」
それでもしばらくして、俺はまた走り出した。そうすることで少女の襲撃を避けられると思ったわけではない、ただ呆然と突っ立っているよりはましな気がしたからだ。
だが今度は全力で駆けることはせず、軽くジョギングするように走った。命懸けの鬼ごっこにしては真剣みに欠けるが、肝心の鬼がいつまでも現れないのだからそうなるのも仕方ない。
軽快なジョギングを続けながら、そういえば少女はどうやって俺を殺しているのだろうと今さらのように思った。
ここで目にする彼女はいつも手ぶらで、武器になるようなものを持っていた記憶はない。殺される瞬間の、喉のあたりを潰されるか切り裂かれるかする感触こそ生々しく残っているが、実際に何をされているのかまではわからない。
小さな刃物か、そうでないとしたら指を直接食い込ませているのだろうか。しかしあの細い腕についた人形のような手で、そんなことが果たして可能なのだろうか――
「お……っと」
と――俺はまた道を折れた。というより、道を折れてから自分がそうしたことを知った。さっき大きな歯車を左に折れたときと同じ、なぜそうしたのかわからない無意識の行動だった。
ただ、今回はさっきと違う妙な感覚があった。軽いジョギングを続けながらその妙な感覚の正体に思いをめぐらせて、それが少女との遭遇に関する予感であることに気づいた。
「……」
あの先に少女がいた。なぜかそれがわかった。
あのまま真っ直ぐ進んでいたとしたら、俺はそこで少女の手にかかっていた。なぜわかるのかわからない、ただはっきりとわかった。
俺はあの先で死んでいた――そう思った矢先、ちょうど時間遅れの反射のように、何とも言えない居心地の悪さが胸の奥に生まれて、消えた。
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