179 共同作戦の夜(2)
――不意に立ち止まった。
なぜ立ち止まったのかわからない、けれどもそうしなければならない気がした。
何かがわかりかけている気がした。これまで欠片ほども理解できなかった大切な何かを、自分が今まさに掴みかけている気がした。……だが、何を?
そうして俺はまた走り始めていた――ほとんど同時に湧き起こってくる何とも言えない居心地の悪さを覚えながら。すぐまた消えてしまおうとするその感覚にしがみついて、それがどういう言葉で言い表せるものなのかを考えながら。
いてもたってもいられない感じ――というのとは違う。背筋がぞくりとくる――というようなわかりやすい感覚でもない。
理由はわからないがそこに居たくない感じ。そこにいると何か良くないことが起こりそうな感じ。わけもなく不吉な感じ……とりあえずそこから離れたい感じ。
そう、一番しっくりくる表現があるとすれば、何かヤバいから逃げておこうという感じ――
「――」
その瞬間――自分が頭の中で言葉にしたその感覚を強く感じて身を翻し、全力で走りながら頭だけで背後を振り返った。
ちょうど獲物を逃した猫のようにこちらを見て立ち尽くす少女の姿が、見ている間にふっと歯車の陰に消えた。
やはり少女はいた。音もなく近づき、俺の首を引き裂こうとしていた。その前に俺は逃げた。何かヤバいから逃げておこうと感じて、少女が現れるより早くその場から離脱することができた。
「――あ」
――そして、俺は自分が掴みかけていると感じていたものの正体を知った。
再び立ち止まり、荒い息のなか奇妙な感動にうたれた。訓練とは名ばかりの、ただ少女に追い回され続けたこの場所での時間が、本当にそれを自分に教えてくれたことを知った。
それはまさにキリコさんが掴めと言っていたものだった。それこそが一方的な虐殺にも似たこの訓練におけるたったひとつの、《兵隊》としての俺が修得すべき不可欠のスキルだった。
常に死と隣り合わせにある野生の動物が等しく持つ生命の危険を察知する能力――それを自分が今まさに掴みかけていることを知った。何かヤバいから逃げておこうという感じ、他ならぬそれがその感覚なのだと思った。
恐怖でも不安でもない、明確な言葉で言い表せるものではない。
「……」
棒立ちのままその感覚が訪れるのを待った。止まったままの歯車はまるで
だが、今は大丈夫だという確信があった。今はまだヤバくない――だから少女がすぐ近くに迫っているということはない。
「……」
そう思って、俺は目をつぶった。視界が閉ざされ真っ暗になっても、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、そうしていることが今の自分にとってごく自然なことのような気さえした。
いや違う……それが必要だったのだ、と思った。さっきのヤバい感覚を掴むためには、恐怖を感じないことこそが必要だったのだ。
「ああ……なるほど」
そんな独り言が口を衝いて出た。そうせずにはいられないほど明解な、それはコロンブスの卵だった。
野生の獣に怒りはない、ただ本能で威嚇するだけだ。野生の獣は恐怖しない、恐怖する前に逃げるのだ。
だからその感覚を掴むために、俺は恐怖してはならなかったのだ。……こんな簡単なことになぜ今まで気がつかなかったのだろう。恐怖という感情から解放されない限り、ここでどれだけ少女に追い回されようと何の意味もなかったのだ。
「はは……」
思わず軽い笑いさえこぼれた。どうしても解けなかった数学の問題が簡単に解けたような、何とも言えない爽快な気分だった。
これだったのだ。キリコさんが掴めと言っていたのはこの感覚だったのだ。
心の中で何度もそう繰り返しながら目を閉じて待った。息が戻り、全身を伝う汗が冷たいものに変わりかけた頃、視界の閉ざされた意識の中に今度こそはっきりとその感覚に襲われた。
「……ははっ!」
駆け出すと同時に振り返り、再び少女の姿を背後に見た。例のふて腐れたような顔で立ち尽くすその姿を見て、また笑いがこぼれるのを抑えられなかった。
コツを掴んだと思った。生き延びるために必要な野生の勘を、今日の訓練で俺は完全に身につけることができたと思った。
――同時に、この感覚を絶対に逃してはならないと思った。今日ここで捕まえたこの感覚を、これから先も忘れないようにはっきりと身に着けなければならない。そのために俺は、何度でもこの感覚を感じなければならない。
「……」
……そう、何度でもこの感覚を感じなければならない。何度でもこの感覚を感じるために、今日はここで脚の筋肉がねじ切れるまで果てしなく少女とこの鬼ごっこを続けなければならない――そう思った瞬間、世界が反転した。
「……ってえ」
腰のあたりに鈍重な痛みを覚え、ほとんど仰向けに寝転んでいる自分に気づいた。足を滑らせて転倒したのだとわかったのはその直後だった。
なぜいきなり転んだのだろう……そう思って仰ぎ見る歯車に見覚えがあった。
……ああなるほど、と思った。最初にのぼって飛び降りたあの歯車までひとまわりしてきたのだ。そうしてあのとき靴の裏で床に付着させた機械油に、俺はまんまと足をとられたのだ。
「……っ!」
悠長に考えている場合ではない。そう思い、慌てて起き上がろうとして――次の瞬間、目の前に少女の顔があった。金色の髪がかかる乳白色の顔から、青く澄んだふたつの瞳がじっと俺を見ていた。
――やはりこの子は可愛かったのだ、とまた場違いな感想が心に浮かんだ。
うすく開かれた唇も小さな鼻も……顔のパーツひとつひとつが未成熟で不安定な、だが、だからこそ目を離すことのできない透き通るような魅力をたたえている。
「……」
抵抗する気はなかった。ちょうど捕らえられた獲物がそうであるように、あとはただ命を絶たれるのを待つだけだ。
あのヤバい感覚はもうなかった。多分こうなってしまえば、もはや危険を感じる必要はないということなのだろう。いつもながらあっけない幕切れだった。ただ初めて訓練らしきものをできているという気持ちがあっただけに、今回に限って、そのあっけない幕切れとなったことが残念だった。
少女は動かなかった。不思議なものを見るようにじっと俺を見つめたまま、いつまでも動かない。
間近に迫るその顔を見つめ返すうち、これから殺されることも忘れ、少女に何か親愛の情のようなものが湧いてくるのを覚えた。……今日は楽しかった、とそんなことさえ思った。
……そう、今日の訓練は楽しかった。そして今日、俺はこの少女との訓練の中で、《兵隊》として生き残るためにとても大切なことを教えてもらった。
「ありがとな」
そう言って笑いかけた。少女は笑わなかった。その代わりにいつもと同じように一言、⦅終わり⦆と小さく呟いた。
細い手が首に添えられ、その指が喉に食い込んでくるのを感じた。いつもよりゆっくりと、死にゆくものの存在を愛おしむように。
「ぐえ……え……」
潰された蛙のような自分の声を聞いた。頸動脈が引き裂かれる感触が脊髄から全身に駆け巡った。早くも消え入ろうとする意識の中で、ひどく裏切られた気持ちになった。
何だよまったく。夢の中だというのに、やっぱりこれは死ぬほど痛いじゃないか――
◇ ◇ ◇
「――」
どくん、という心臓の音で、いっぱいに目を見開いている自分に気づいた。
その直後、ちょうど悪夢から目覚めたあとのように早鐘を打ち始める動悸を感じながら、仰向けの視界に映る天井をただぼんやりと眺めた。
手足が痺れていた……あんな目に遭ったのだから当然だと思った。いつもよりじっくりと肉を割り入ってくる指の感触はまだ首にあって、全身を伝う汗がひき動悸が治まったあとも、そのおぞましい感触だけはいつまでも尾を引いて消えなかった。
「――起きたかい?」
どれほどの間そうしていたのだろう、やがてカーテン越しにキリコさんの声がかかった。まだ起きたばかりの感覚が抜けない意識にそっと触れるような、穏やかでよく通るいつもの声だった。
その声に俺は大きく息を
「おはよう」
⦅おはようございます⦆
ほぼ同時に挨拶の言葉をかけてくる二人に、俺はすぐ返事を返すことができずに固まった。
キリコさんはいつもの白衣、エツミ軍曹は昨日のままの服装で向かい合わせにテーブルにつき、湯気のたつコーヒーカップと乾物の木椀を前にしていた。
それを見て思わず固まってしまったのは、普段と違う顔がそこに加わっていたからではない。いずれ劣らない二人の美しい女性がひとつ席につき当たり前のように朝食をとっている――その非日常的な光景に目を奪われたのだ。
「まだ寝惚けてんのかい?」
「え……ああ、はい」
「なら顔洗っといで。今日は忙しいんだからしゃんとしてもらわなきゃ困るよ」
「はい、
そう言われてようやく我に返り、二人の座るテーブルの横を抜け洗面所に向かった。
キリコさんの言葉通り、今日は何かと忙しい一日になる。そればかりか必ずしも利害が一致しない臨時雇用の仲間を迎え、俺としては
そう……エツミ軍曹の目と耳がある以上、ここからは一挙一動に万全の注意を払わなければならない。
まず大前提である俺があの言葉を理解できないということ――これは役者としてのプライドに賭けて演じ切らなければならない。それから昨日までにキリコさんから聞かされたこの研究所とその他諸々についての秘密――言葉が通じないのだから問題ない気もするが、危険を冒してまで打ち明けてくれたキリコさんのためにも絶対に隠し通す必要がある。
軍曹とマリオ博士の関係についても知らない振りを決めこむしかないだろう。あとは『試験場』で見たあいつらのこと。そして何より、
そうやって挙げていけばきりがなかった。……要はキリコさんが不利益を被らないよう臨機応変にやっていくしかない。
いつもの倍以上の時間をかけて顔を洗い終えたところでそう思い、それを心に繰り返しながらタオルで何度も顔を拭った。
……こうした劇中劇にも慣れっこになってきたが、今日のそれは待ったなしの本番に近い。今日の作戦が成功しなければ、我が
そう結論づけてみれば、これからエツミ軍曹と共にする朝食での自分の振る舞いは重要だった。彼女から変に疑いの目を向けられないためにも、ここが今日の作戦を完遂する上で最初の関門と考えていい。
まず自分からは喋らず、俺には理解できない言葉で喋る二人の会話を黙って聞くことから始めよう。そんな決意を固めて洗面所をあとにした――だが部屋に戻ってキリコさんの第一声が、その決意もろとも俺の頭の中にあったものを霧散させた。
「とろいでっせ、あんさん」
「え?」
「忙し言うとりますに、
「……は?」
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