180 共同作戦の夜(3)

 部屋に入ってきた俺を一瞥し、コーヒーカップを口元に添えた澄まし顔のままキリコさんはそんな言葉を呟いた。


 いきなりのことに、俺の方では理解できなかった。……いや、理解はできた。キリコさんが何を伝えようとしているのかはどうにか理解はできたが、なぜそんな喋り方なのか、それが俺には理解できなかった。


「……いきなり何ですか、それ」


に決まっとるやおまへんか」


「……て言うか、どこの方言ですか」


「どこでんよか。こん人にあたいらの話、わがんねぐすっためさ」


「いや……でも、理解できないって言ってませんでしたっけ。俺たちの言葉」


「そげん保証どこにもなかっぺな」


「……だから、どこの方言ですか」


本当ほんにわがんねがどうかわがんねえべさ。したら保険かけとくしかないっしょ。だで、訛りでしゃべくりゃいいんだに。訛りでしゃべくっとりゃこん人にゃなんつっとるかわからんで」


「ああいや……そのへんはまあ理解できるんですけど」


 突然のことで面食らったものの、異様な方言の理由はその説明で何となく理解できた。


 自分の身に置き換えてみればわかるが、ある言語を話そうとするとき、教科書的な表現から離れた微妙な言い回しは初学者には難しい。まして方言が混じってしまえばほぼ別の言語になってしまい、よほど語学レベルが高くなければまず理解できなくなる。


 それに……そうだ。確か太平洋戦争の終わり頃だったか、暗号を解読されまくって窮地に陥った日本軍が苦肉の策でそれを「早口の薩摩弁」に変えたところ見事に功を奏し、連合軍はあらゆる言語の可能性を検討したが皆目わからず、大いに混乱したという。


 だからエツミ軍曹に万一の可能性を考え、簡便に会話のを図るための手段としてキリコさんがこの方法を採ったとすれば、それはきっと間違ってはいない。だが、それにしても……。


「……と言うか、その調子だと俺にもわかんないんすけど」


「いいで。ぼやっとつっ立っとらんで座りん。冷めちまうに」


 涼しげな表情を変えることなく、相変わらずどこのものともわからない方言でキリコさんはそう言った。……特定の方言というより、様々な地方の訛りが混じり合っている気がする。どうにか理解できないこともないが、正直、そこまでする必要があるのかという反発があることは否めない。


 内心に溜息をつきながら俺は彼女の隣の椅子を引き、そこに腰かけた。キリコさんとエツミ軍曹は互い違いに座っていたから、ちょうど俺が軍曹の向いの席になる。


 着席する俺にエツミ軍曹はちらりと視線を向け、だがすぐ食卓に目を戻すとそれきりこちらを見なかった。


 それからしばらく、沈黙の中かちゃかちゃと食器の音だけが響いた。張り詰めていたものが緩んだせいかにわかに空腹を覚え、とりあえず俺も食事をとることにした。


 三人分ということなのだろう、テーブルにはいつもより多めのドライフルーツに乾パン、ビーフジャーキーのような干し肉まで並んでいた。水気のないイチジクを囓りながら……しかしまあ何とも重苦しい朝食だと思った。


 そんな心の呟きを聞きつけたかのように、隣からキリコさんの気安い声がかかった。


「ぎょうさん眠れたん?」


「……」


「ぎょうさん眠れたか聞いとるでねえの」


「……眠れましたよ、まあ」


「おみゃさんも訛りで喋くりゃいいがね」


「は?」


「おみゃさんも訛りで喋りゃあて。そうしんとわかってまうかも知れんに」


「無理です」


「無理ってこたねえでしょう。やってみりん」


「いや、本当に無理です。それだけは勘弁してください」


 やってみるも何もなく、そんなことは無理に決まっている。ただでさえややこしい演技に暗号解読の作業まで加わったというのに、このうえ方言を捻り出せというのはに等しい。


 キリコさんはまだ何か言いたげに横目で俺を見ていたが、やがて何も言わずコーヒーカップを取った。「いくじなし」と小さな声で呟くのが聞こえた。その言葉を無視して、俺も食べかけの乾パンに手を伸ばした。


 それきりキリコさんは黙り、また修道院のように静謐な食卓が回復した。かちゃかちゃいう食器の音を聞きながら黙々と食べ続けるうち思わず欠伸がこみあげ、向かいからの視線に慌ててそれを噛み殺した。


 起き抜けの感覚はまだ消えておらず、少々眠かった。さっきの質問にはああ答えたが、実際はあまり眠れなかったのかも知れない。……と言うより、よく考えれば眠れたはずがない。昨夜、突如もたらされたあの微妙すぎる状況でよく眠れるほど、俺は色気のある人生を送ってきたわけではない。


「――」


 そこでふと、ここへ来る前に終えてきた訓練のことを思い出した。動きを止めた無数の歯車の間でいつもの少女とした、だがいつになく学ぶところの多かった今朝方の訓練。


 あれはやはり訓練だったのか、それとも浅い眠りの中に見た夢の中の出来事だったのか……そのあたりがどうもはっきりしなかった。そのことをキリコさんに聞いてみたい気もした。けれども、あえてそれを口に出すことはしなかった。


「……」


 正確には、とてもそれを口に出せる空気ではなかった。奇妙な方言がんでしまえば、そこはやはり緊張感に充ちたに違いなかった。


 軍服に白衣と、ステレオタイプの舞台衣装に身を包んだ役者は揃っている。その二人の間に立つ俺はまだ自分の役の立ち位置を掴みきれておらず、ましてこの沈黙を破って自分から仕掛ける余裕などどこにもない。


⦅マリオへの連絡はいいのかい?⦆


⦅――何の連絡でしょう⦆


 そんな気持ちでいたところへ不意に始まった会話に、思わず乾パンをつまもうとしていた手を止めた。直後、その言葉に動きを止めた自分の演技が正しかったか考え、まず問題なかったと判断したところで動きを再開した。


 自分には理解できないことになっているこの研究所専用の言語。その言葉を口にするキリコさんは当然、得体の知れない妙な方言では喋らない。


⦅マリオへの連絡だよ。色々としなけりゃならないんじゃないのかい?⦆


⦅いいえ、何も⦆


⦅何もないってこたないだろ。あんたの上司なんだしさ⦆


⦅ご存知の通り、自分はこの施設の衛兵であって個人の麾下きかではありません。ですが今日一日に限り、施設の安全保障上の要請からキリコ博士の麾下となるものであります⦆


⦅……へえ、そうかい⦆


⦅従いまして、キリコ博士ではない者への連絡は必要ありません。また、今日の任務が終わるまで――夜が明けるまでに自分が見聞きしたことは決して口外致しません。それが衛兵としての職責であります⦆


⦅そうかい。それが本当ならありがたいもんだね⦆


⦅任務の重要性は理解しております。その遂行のためにも、どうか自分を信用下さいますように⦆


 それでまた二人は口を閉ざし、部屋に静寂が戻った。いや……会話が始まる前よりも一層重苦しい沈黙をもって静まり返ったと言った方がいい。


 一分にも満たない短いやりとりだったが、文字通り息詰まる会話だった。何が話されたか俺にも肌で感じられるほどに――そう思った矢先だった。


「くちくなっただか?」


「は?」


「くちくなっただか、と聞いちょう」


「……なに言ってるかわかりませんて、マジで」


膨らんだか、ちゅうこっちゃ」


「ああ……それならまあ」


「はきはきしてもらわにゃならんに。ゆるくねえとこでなったらどげんすっと」


 エツミ軍曹と張り詰めた会話をしていたときとまったく同じ表情で、いつも通り話すように平然とキリコさんは言った。……機密事項ならまだしもそんなことまで暗号化する必要があるのか――そう抗議しかけて、だがやはり溜息しか出なかった。


 今日はでいくというのなら、いちいち切り替えるよりで通した方が楽なのかも知れない。第一、そうすることの必然性を思えば問題は流れに合わせられない俺の側にあり、その流れを作った彼女の側にはない……そのあたりもよくわかっている。


 それにしても俺とエツミ軍曹それぞれを相手にするキリコさんの会話にはギャップがあり過ぎた。極端な緊張のなか交わされる鍔迫り合いにも似た軍曹との会話と、滑稽というよりほとんど悪ふざけに近い俺との会話。


 そのふたつが立ち替わり現れるこれはまさに見応えのある即興劇であり、同時に掛け値なしの喜劇だった。会話ひとつでその喜劇を創り出したのは間違いなくキリコさんで、しかもそれは必要に迫られて開演を余儀なくされた偶然の喜劇なのだ。


 ――そう、キリコさんがこの演技を初めから準備していたはずはない。昨日のエツミ軍曹とのいきさつを考えればこの事態はキリコさんにとっても想定外で、咄嗟に方言というギミックを持ち出したまでのことだ。


 つまりは俺にはできない即興の演技を、彼女は思いつきでやってのけているということになる。しかも一方では硬質シリアスの演技を使い分けながら。そしておそらく、こうしている間も頭ではめまぐるしく次なる展開を考えながら。


「……」


 敵わないと思った。やはり即興劇の役者として、俺はこの人には敵わない。


 ならばせめてこの筋書きに乗ろうと思った。キリコさんの描く筋書きに乗って、そこで彼女の《兵隊》としてできる限りのことをしよう――すっかり小さくなった食器の音を聞きながら内心に溜息をつき、俺はそう思った。

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