334 巡礼者のキャラバン(15)
「え?」
そう言って怯えるような目をこちらに向けてくるエンゾを押しのけて俺は運転席に移り、レバーを引いてシートをめいっぱい後ろまで移動させた。
「座れよ」
「座れ……って、どこに?」
「ここだよ。運転席」
「
「俺の前に座れって言ってんだよ」
「……」
「俺が一緒に運転してやる。だから……あまり気は進まないけど、ここに座れ」
俺が膝の上を指差しながらそう言うと、一瞬、エンゾは訝しむような表情を見せ、だが「ああ」と呟きながらその身体を俺の前へ割り込ませてきた。
噎せ返るような汗臭さが鼻をつく。俺よりもひとまわり大きいエンゾの背中を後ろから抱きかかえるようにして俺はハンドルに手をまわし、ふたつのペダルに足を乗せた。
「エンゾも」
「……え?」
「エンゾも俺と同じようにハンドル握って、ペダルに足乗せて。力込めなくていいから、俺が運転するのを身体で感じるんだ」
「……ああ!」
思い切った声でそう言うとエンゾはそのいかつい手を俺のそれに重ね、ペダルを踏む俺の足の甲に自分の足を乗せてきた。
……どこかのアニメで見たようなシーンだと思った。ただ、そのアニメでコクピットに座る主人公の少年の前にいたのは、たしかヒロインの可憐な少女だったはずだ。噎せかえるような体臭漂う男同士が手に手を取って操縦桿を握るものとなると、さすがに記憶にない。俺はいったい何をしているのだろうと、そんな思いがふと俺の意識にのぼってきた。
……まったく、本当に俺は何をやっているのだろう。砂漠の廃墟でむくつけき男と二人、鍵穴にペティナイフを突っ込んだジープの運転席に身体を重ねて座り、見よう見真似の出鱈目な運転教習に血道をあげている。
あまりにも現実離れしたそのシチュエーションに軽い眩暈を覚えつつ俺はイグニションスイッチをまわし、右足の甲にもうひとつの足の重みを感じながらブレーキからアクセルへと踏み替えた。
「……いいか、ここまでがクラッチの遊びだ。これ以上戻すとクラッチがかかり始める。そのとき、アクセルはこう。このへんからこのくらいのスピードでじんわりと踏み込んでゆく」
「……おお」
感覚が伝わるように極力ゆっくりと、どちらかといえばクラッチングに重点を置いて発進操作を二度繰り返した。
最初に相槌をうったあとは一言もなく俺の運転に身を任せていたエンゾは、俺が背中から擦り抜けて助手席に移ると、どうすればいいかわからないと言わんばかりの縋りつくような目を俺に向けてきた。
「次、エンゾやってみて」
「……」
「俺がやったようにやればできるから」
「……ああ、わかった」
悲壮な感じのする声でそう言うと、エンゾはハンドルを握り、前に向き直った。
イグニションキーがまわされてエンジンが始動したあと、右足がブレーキからアクセルに踏み替えられる。ゆっくりとエンゾの左足があがってゆき、代わりに右足が沈み込んでゆく――その前後、ゆるゆるとジープが進み出すとともに、タイヤが瓦礫を踏みしめるくぐもった音が聞こえ始めた。
「そう、その調子」
「ハイジ……オレ、できてるか?」
「ああ、できてる」
「ちゃんとできてるか、オレ……ちゃんと」
「ちゃんとできてるって」
窓ガラスの外に歓声があがりはじめた。エンゾの努力をずっと見守っていた者たちからの歓声だ。その歓声に、俺の胸にこみ上げてくるものがあった。
たかが自動車教習の真似事の、たかが一人の教習生の発進成功……そんな簡単な言葉では言い尽くせない思いが胸の奥に湧き出してきて、何となくそれに抗うように俺はあえてぶっきら棒に言い捨てた。
「……ったく、時間かけさせやがって」
「へへっ、
「え?」
「面白えぜ。面白えったらねえ。世の中にこんな面白えことがあるなんて思わなかった!」
言いながらエンゾはアクセルを踏み込み、ジープの速度があがってゆく。また足を突っ込んでブレーキを踏むべきかも知れない……そんなつまらない思いは、圧倒的な感動の中に掻き消えた。
周囲からの歓声はさらに大きくなり、指笛のようなものさえ聞こえ始める。誰が見ているかわからないというのにこんな派手にやってしまっていいのだろうか――ふと頭にのぼった冷静な考えは、けれども俺の口から外に出ていこうとはしない。
「あんまりスピードあげると事故るぞ」
「事故る?」
「こいつがどこかにぶつかるってことだよ」
「それのどこがいけねえんだ?」
「ぶっ壊したら許さないって言ったろ。それに、俺たち二人揃って死んじまうかも知れないんだぞ?」
「ははっ! オレぁ、アンタとだったら死んでもいいや!」
そう言ってエンゾはまたジープの速度をあげてくる。
俺は溜息をついてサイドミラーを見た。俺たちが乗り逃げでもすると思ったのか、ビルの間から飛び出してくる仲間たちの姿が見えた。
その姿が急速に遠ざかってゆくのを眺めながら俺は、あとからあとから胸に湧きおこってくる、仲間たちと何か悪いことでも始めるときのような高揚をどうすることもできないでいた。
◇ ◇ ◇
東の空がぼんやりと白みはじめる頃、教習は一応の完了をみた。もちろん完璧とは言いがたい。だが全員がどうにかジープを発進させ、停車させられるまでになったのである。
路地裏の奥まった場所にジープを隠すと、俺たちはめいめい帰途に就いた。教習を終えたばかりの彼らは口々にその感想を語り合い、オズやエンゾなどは盛んに俺に話しかけてくる――それが、ミーティングを終えたあと教習へ向かうときの静けさとは違っていた。
文字通り徹夜で教習を続けた俺は疲労困憊の極みにあった。気を抜けば足元から崩れ落ちてしまいそうだ……そんなことを思ってふと、同じように疲れ切っていた昨夜のことが脳裏に蘇ってくるのを覚えた。
だが、昨日とは違う。今のこれは、昨日俺が目にしていた情景とは何もかも違う。
この一日で舞台は大きく動いた。キリコさんがプロットを提示し、そのプロットに沿って俺はやるべきことをやった。俺は自分に与えられた役を十全に演じきることができたのだ。少なくともここまでの流れにおいては――その確信が、たしかに俺の中にはあった。
『あんたとだったら死んでもいいや』
エンゾの言葉を思い出して、俺は思わず苦笑いした。……それはこっちの台詞だと思ったからだ。こいつらと一緒なら俺は何でもできる。どこへでも行ける。そんな根拠のない全能感が、俺の内側をすみずみまで満たしていた。
「ああ、それにしたって疲れた! さすがに疲れやしたぜ、隊長」
そのエンゾが溜息まじりに語りかけてくるのを、俺もまた小さな溜息で迎えた。
……結局、教習に一番長く時間をとられたのはこの男だった。恨み言を言うつもりはないが、正直、本当に苦労させられたのだ。ただそれだけに、今日の夜間教習で一番印象に残った教習生でもある。そんな
「一番疲れたの、たぶん俺だけどな」
「
「俺は疲れたよ。とりあえず、今は早く眠りたい」
「眠る? そりゃねえでしょ! こんな高ぶったまんまじゃ眠れるわけがねえ!」
さも当たり前のことを言うようにエンゾが力強く言い切った。そうだそうだ、と後ろに続く男たちから賛同の声があがる。
「今から何かするのか?」
エンゾの言葉に、俺は素でそう訊ねていた。気分が高ぶっているのはわかるが、こんな疲れきった状態で何をどうするもない。いったいこいつらは今から何をしようというのだろう……。
俺の質問にエンゾはさも意外なことを聞かれたかのような顔をし、だがすぐにどこか
「アレ……? アレってなんだよ」
「アレはアレでさあ。いきり立っちまったこいつに出すもの出させてやりてえんで」
そう言ってエンゾは歩きながらかくかくと前後に腰を振って見せた。そんなエンゾの仕草に、背後からまた笑い声があがる。
最初、その仕草が何を表しているかわからなかった俺は、それについて訊ねるために再び口を開きかけ――卒然、その意味するところを理解して、言葉を失った。
「……」
――あの女たちがいた。完全に頭から消えていたそのことを思い出して、俺は冷水を浴びせかけられたようになった。
同時に、順調に進み始めたかのように見えた舞台が一瞬で振り出しに戻ったのを感じた。薄氷を踏むような思いで乗り切ったミーティングも、文化祭のようなノリで盛り上がった夜間教習のことも、もうどこにもなかった。
あの女たちをどうするか、俺はそれを考えなければならない。……いや、そんなことよりも、捕虜にした女たちであれば性の捌け口として好き勝手にしていい――そんな彼らの考えを根本から変えていかなければならない。
それがどれほど難しい仕事であるか……天気について話すようにこれから彼女たちを犯しに行くと言うエンゾの態度が何よりも雄弁に物語っている気がした。
――あの女たちがいる。彼らの隊長として、俺はあの女たちをどうにかしなければならない。
自分がこれから向き合わなければならないその無理難題を思って、俺はほとんど絶望を覚えた。
「――隊長も行きやすか?」
「え?」
「あいつらのとこですよ。ここのとこオレが気に入ってる
何を言われているのかわからないまま、俺は呆然とエンゾを見つめ返した。「バカ」と斜め後ろからオズの声がかかった。
「やめとけ。ハイジは……隊長はそういうの好きじゃねえんだよ」
「ああ、そっか。前の隊長だけじゃねえ、ハイジも――オレたちの隊長も、やっぱりそういうの好きじゃねえんですかい」
そう言ってエンゾは、片目の潰れた傷だらけの顔に、すべてを明け渡したような人懐っこい笑みを浮かべた。最後まで諦めず教習に付き合った俺への、それがエンゾからの報酬だとわかった。
この笑顔には応えなければならない。そう思って俺は必死に笑顔をつくった。
自分がどんな顔をしているかわからないまましばらく彼らと連れ立って歩いて、やがて階段をのぼりきったところでエンゾがこちらに向き直った。
「じゃ、オレらは例のとこ行きやすんで――」
それだけ言い残すと、男たちは下世話な冗談をかけあいながら通路の先へと消えていった。
彼らの靴音が聞こえなくなってしまったあとも、俺はその場から動くことができなかった。
「ハイジ」
どれほどそうしていたのだろう。後ろからアイネの声がかかった。何も考えられないまま、俺は後ろを振り返った。
「もう帰ろう、ハイジ」
もう一度かけられたその声にも、俺は返事を返せなかった。
まだ薄暗い通路に立ち尽くす俺を、もの言いたげなアイネの眼差しがじっと見つめていた。
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