335 巡礼者のキャラバン(16)

「……くそ」


 口の中で小さく呟いたその悪態は、ぼんやりと部屋にたゆたう薄明はくめいの中にかき消えた。


 ――あのあと、アイネに腕引かれるようにして部屋に戻った俺は、同じくアイネに促されるまま固形食糧を摂り、水を飲んだ。だがそうして必要最低限のことを終えてしまい、床に脚を投げ出して壁に背もたれた俺の意識にのぼってきたのは、やはり教習の帰り際に彼らが口にしていたあのことだった。


「くそ……」


 もうひとつ、今度は力ない呟きが唇の間から漏れた。


 あの捕虜たちのことを忘れていた――ただそれだけのことが俺の心をどこまでも苛み、先の見えない暗闇の中へと追い込んでゆく。


 プロットが立ち、ジープが手に入り、彼らを丸めこむことができ、教習も首尾良くいった……そんな理想を絵に描いたような流れのゴールに待ち受けていた落とし穴だけに、最初からわかっていたことだと自分に言い聞かせてみても絶望の二文字がいつまでも頭から消えない。


 ――実際問題、彼らを引き連れて荒野を踏破するキャラバンの編成が実現の可能性を帯びてきた今、あの捕虜たちの処遇をどうするかは喫緊の課題となった。


 何人の女があの部屋に繋がれているか正確にはわからないが、前に見たときの感じだと十人ではきかなかった。つまり、少なくとも三台のジープが追加で必要になる。


 頑張ってかき集めても部隊のメンバー分だけでぎりぎりのようなことをキリコさんが言っていたことを思えば、そもそも物理的に彼女たち全員を連れてゆくことができないという事態になることは大いに考えられる。


 ……そこで俺がしなければならない決断を思うだけで背筋が寒くなる。彼女たちのうち誰をこの廃墟に残し、誰を連れてゆくか、それを俺が決めなければならないのだ。そしてそこには当然、彼らの意見が反映されることになる。


『この女は具合が良いからぜひとも連れていってもらいてえ』


『こいつはさんざん嬲りまわしてもう使い物にならねえから、ここに残していってもいいんじゃねえですかい?』


 そんな台詞が飛び交い、性の捌け口としての評価をもって女たちをこの廃墟に置き去りにするか、新天地を目指す脱出行に参加させるかの選択――つまりはが行われるのである。


 ……聖人君子を気取るつもりはないが、さすがにそのおぞましさを思うと吐き気を覚えずにはいられない。いざそのときになって彼らの前で冷静に決断を下せる自信は、俺には無い。


 これはもう潔癖とか潔癖でないとか、そういう次元の話ではない。人間を人間たらしめる最低限の倫理を自分の中で破壊できるか否か――そんな踏み絵を、俺は今、目の前にしているのだと思う。


 もっとも、その踏み絵は捕虜たちの命の選別をもって終わるものではない。本当の問題はその先にあるのだ。


 戦闘で捕虜にした女であれば性的な奴隷としてもいいという彼らの価値観……この価値観を根本的に変えない限り、砂漠の外での生活が破綻することは目に見えている。


 けれども、充実した教習だったと笑顔で言い合いながらその足であの女たちを凌辱しに向かおうとするほどそのシステムを、いったいどうやって変えればいいというのだろう?


 何より……俺も同じく男であるわけだから、男の性衝動の何たるかはわかっているつもりだ。その煮えたぎるような衝動の捌け口を奪われることが、男にとってどれほどの苦痛を強いられるものかということも。


 捕虜の女たちを自由に犯せる――その既得権益を奪われるくらいなら死んだ方がマシだ。……そう言い出す男たちが出てくることは容易に想像がつく。


 そのとき、俺はどうすればいいのか。どんな言葉によって彼らの欲望をいなし、新しい価値観の中で生きることを受け容れさせればいいのか――


「――嫌いになった?」


「え?」


 唐突なアイネの質問に、俺は弾かれたように頭を上げた。


「わたしのこと、嫌いになった?」


 何を聞かれているのかわからず返答できないでいる俺に、アイネはなおも質問を重ねてくる。


 向かいの壁に背もたれ、膝を抱えて座るアイネの表情は、黎明のほの暗い部屋によくわからない。だが、その声がかすかに震えているのはわかった。


 何のために震えているかまではわからない。けれども薄暗い空間を隔てて真っすぐに届けられたその小さな声が、彼女が大事な話をするときいつもそうであるように明らかに震えているのが、俺にはわかった。


「……なんの話だよ」


「……だから、ハイジがわたしのこと嫌いになったか、って話」


「はあ? なんでいきなりそんな話になるんだよ」


「ハイジの言うこと信じるか信じないかって訊かれたとき」


 そう言ってアイネは膝の間に顔をうずめた。これもよく見慣れた、アイネが言いにくいことを言うときの癖だ。


「あんなふうにも勿体もったいつけて……ゴリアスはすぐ信じるって言ったのに」


 それでようやく、俺にはアイネが何を言いたいのかわかった。あの広間でのミーティングで俺の話を信じるかどうかを問い質したとき、雨が降ったらという条件つきで信じると意思表明したことを言っているのだ。


「……何だってまたそれで俺がアイネのこと嫌いになるだなんて思うんだ?」


 そのことはわかった。けれどもそれに絡めて、俺がアイネのことを嫌いになったかと訊ねてきた彼女の質問の意図がわからない。


 俺の問いかけにアイネは応えなかった。膝の間に顔を埋めたまま、身じろぎひとつせずにいる。


 ……こうなってしまったアイネから何かを聞き出そうとするのは難しい。仕方がないので俺は、とりあえず彼女からの質問に答えることにした。


「……そんなわけないだろ」


「え?」


「あれで俺がアイネのこと嫌いになんてなるわけない。むしろ、惚れ直したよ」


「どうして……」


「アイネがあそこでああ言ったから皆が乗ってきたんだろ。『雨が降ったら信じる』って」


「……」


「あとは雨が降ればいいだけだ。そうすれば皆が俺の話を信じてくれる」


「……」


「あそこでアイネがああ言ってくれたからだ。ぶっちゃけ、あれがなかったら今頃どうなっていたかわからない。今さらだけど、本当にありがとうな」


 俺がそう言うと、アイネはいったん頭をあげて驚いたような顔でこちらを、だがすぐにまた膝の間に顔を埋めてしまう。


 そんなアイネの様子を眺めるうちに、俺の頭にまたさっきの質問についての謎が舞い戻ってきた。


 あそこでああ言ったから俺が彼女のことを嫌いになったのではないか、とアイネは言った。考えてみれば、これは彼女の発言としては何とも不自然だ。


 と言うより、アイネらしくないと言ってこれほどアイネらしくない発言もない。まるで恋人との関係に疑心暗鬼になり、その気持ちを質そうとする恋する乙女のような――


 だがそこまで考えて、俺の中でふと思いつくところがあった。


「アイネは、ああ言ったら俺がアイネのこと嫌いになると思ったのか?」


 アイネからの返事はなかった。それで俺には、逆にアイネの答えがわかった。


「もしかして……アイネは俺に嫌われたいのか?」


 俺の言葉に、アイネが小さく身体を震わせるのが見えた。


 ……どうやら図星らしい。アイネは俺に嫌われようとして、雨が降ったら俺の言うことを信じるなどとことを言ったのだ。


 どうしてそんな発想になったのかわからない。だが、言わんとすることはわかる。ゴリアスは無条件に信じると言ったのに、自分は条件をつけた。裏を返せば今の段階では信じていないと言ったわけだから、そう言ったことで俺に嫌われる……なるほど、論理としては間違っていない。


 それが意味するところは、アイネのあの発言が計算ずくで彼女の口から出たものではなく、いわばラッキーパンチに過ぎなかったということだが、この際、そのあたりはどうでもいい。


 問題はアイネがその台詞を吐いたかということだ。


 アイネの方で俺を嫌いになるということならわかる。だが、そんなよくわからない方法で俺に嫌われようとした理由がわからない。


 ……ただひとつ言えるのは、このアイネという女がいい意味でも悪い意味でも俺の期待を裏切る、一日に何度も溜息をつかずにはいられないほど面倒臭い女だということだ。


「……そう簡単に嫌いになれるなら、もうとっくに嫌いになってる」


「……」


「アイネが何しようが、何を言おうが、俺の気持ちは変わったりしない。アイネがアイネである限り、俺がアイネを嫌いになることなんてないよ」


 俺がそう言うと、アイネは一瞬、身を竦めるようにした。そうして俯いたまま、抑揚のない声で「本当に降るの?」と言った。


「え?」


「雨ってやつ。それが本当に降るなら、さっきハイジが言ったようにみんなハイジの話を信じるようになる。けど、それって本当に降るの?」


 そう言うと、アイネはようやく頭を上げ、こちらに顔を向けた。遠目に見るその顔は、どこか泣き疲れた少女のように見えた。


 なぜアイネがそんな顔をしているのかわからなかった。けれども俺にそんな顔を見せずにはいられないほど何かに打ちひしがれたアイネを励ます思いで、「ああ、降る」と力強く俺は答えた。


「きっと降る。誰も見たことがないようなやつが」


「だったら……どうしてそんな顔してるの?」


 だから、アイネからブーメランのように返ってきたその問いかけに、俺は一瞬返答に詰まった。


「……俺、どんな顔してる?」


「苦しくて、今にも泣きだしそうな顔」


 そのアイネの回答に、今度こそ俺は絶句した。


 俺はそんなひどい顔をしているのか――そう思う一方で、俺がそんな顔をしているのは当たり前だという諦念のようなものがふと頭に浮かんできた。


 ……そうだ。俺は今、まぎれもないのただ中にいる。だからアイネの言うように苦しくて泣きだしそうな顔をしているのも当然だ。


 もう一度、アイネの顔を見た。さっきと同じ、泣き疲れた少女のような顔が、気遣わしげにこちらを見ていた。


 泣き疲れたような顔と、今にも泣きだしそうな顔――あるいは、彼女の目に映っている俺は、俺の目に映っている彼女とそっくりの顔をしているのかも知れない。


「……俺が悩んでるのは、捕虜のことだ」


「捕虜?」


「囚われて、毎晩あいつらの慰み者にされてる女たちがいるだろ」


「ああ……でも、なにを悩んでるの?」


「見殺しにできない」


 懊悩をこめたその一言は、いきおい腹の底から絞り出すような声になった。その声に、アイネは口を閉ざした。


「あの女たち全員を乗せてゆくにはおそらくクルマ――ここで『鉄騎』と呼ばれてるあれが足りない。ここを脱出するときあの女たち全員を連れてゆくのは不可能に思える。でも、俺にはあの女たちを見殺しにはできない」


「……」


「この廃墟に住む全員は救えない。敵対してる部隊のやつらを連れていくなんてできっこない。けど、あの女たちを残して俺たちだけでここを出て行くのは違う! ……それだけは、絶対に違う」


「……」


「……それに、あいつらに女を我慢しろって言うのは無理だ」


 自分でもぞっとするほど力ない声が口からこぼれた。


 ……こんな話をする俺を、アイネはどう感じているのだろう。そう考える自分を無視して、俺はなおも続けた。


「今のあいつらの生活を考えたとき、あの女たちを犯すなって命令がすんなり通るとは思えない。絶対に不平不満が出るし、場合によっては反乱も……」


「……」


「けど砂漠の外に出たら、逆にその論理は通らなくなる。あいつらには女を我慢してもらわないといけないんだ。……ただ、どうすればそれが理解してもらえるかわからない。どうやってあいつらに女を犯すことを我慢させるか、その方法がわからない」


「どうして?」


 アイネの問いかけに、俺はまた弾かれたように顔を向けた。


 それまでより幾分生気の感じられる、代わりに訝しさが前面に出た真摯な表情で、アイネはじっとこちらを見ていた。


「ハイジは隊長なんだから、女を犯すなって命令すればいい。それができないのはどうして?」


「どうして、って。……それは、女を我慢しろってのは、男にとって死ぬほどつらいことだから」


「ハイジは我慢してるのに?」


「え?」


「わたしのこと犯したくて、けどハイジはそれ、ずっと我慢してくれてるのに?」


「……」


 ……またこの話か。そう思って言下に否定しかけ――けれどもそこで、こちらを見るアイネの眼差しがいつになく切迫したものになっていることに気付いた。


 切迫した眼差し――と言うよりそれは、いい加減な回答は許さないという脅しを孕んだ、真剣なうえにも真剣なもののように感じられた。


 その眼差しに気圧けおされるように、俺はもう何度同じ答えを返しているかわからないその回答を、独り言のように呟いた。


「……だから、言ったろ。俺はアイネを無理に犯したいわけじゃない」


「でもわたしを犯したい気持ちも、ちゃんとあるんだよね?」


「……」


「ハイジも、死ぬほどつらいの? わたしを犯したくて死ぬほどつらいのを、ずっと我慢してるの?」


 暗い光を宿した瞳が、挑むように俺を見ていた。その瞳を見つめているうち、俺はなんだか馬鹿にされているような気分になってきた。


 ……アイネにそんな気がないのはわかっている。だが、自分の劣情のありどころをこうもあからさまに、しかも何度も探られていると、言われる方としては純情を弄ばれているような気持ちになってくる。


 そんな気持ちに駆られて、俺はあえてぶっきらぼうに「そうだよ」と吐き捨てた。


「俺はアイネを犯したい。けど我慢してる。それが悪いか」


「だったら、我慢なんかしないで早く犯せばいいのに」

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