336 巡礼者のキャラバン(17)
静かな声で、何でもないことを言うようにそう返してくるアイネに、俺は言葉を失った。
「もうハイジが隊長になったんたから『掟』も変えられるし、わたしのことだってどうにでもできる」
「……」
「死ぬほどつらいんだったら、犯せば? わたしは抵抗しないし、逃げない。ハイジのこと恨んだりもしない」
いつもの触れれば切れるような眼差しとはどこか違う、薄暗く燃え立つような瞳で俺を睨んだままアイネはそう言い放った。
その視線を、俺は避けなかった。奇妙な緊張感の中、俺たちはしばらく睨み合っていたが、やがて俺の方で溜息をついてその対峙から離脱した。
「……言ったろ。そっちが泣きながら頭下げて頼んでこない限り、俺はアイネを犯さないって」
つい口を衝いて出た一言は、こっちで初めて出会ったとき、銃口を突きつけてくるアイネに俺が半ばなげやりな気持ちで宣言したものだった。
自分が口にしたその言葉に、俺は思わず鼻で笑った。あのときからここまで、俺とアイネの関係はそう変わっていないのかも知れない――そんなふうに思ったからだ。
「……ただ正直、あの女たちのことは真剣に悩んでる。どうすればいいか本気でわからない」
「……」
「どれだけ頭使っても解決できる気がしない。ぜんぜん考えがまとまらない。八方塞がりだ。本当に、いっそあの葉っぱでも吸って何もかも――」
――言いかけて、俺は自分の口から飛び出してきた言葉に愕然とした。
あの
困難な状況に直面して駄目な方向に流されそうになっている。……情けない自分への苛立ちから、俺は乱暴に頭の裏を掻きむしった。
「――見つけたんだ」
出し抜けに、そんなアイネの声が耳に届いた。
頭に手をあてたままアイネを見た。さっきよりも幾分やわらかな、けれどもどこか寂しげな瞳が、向かいからじっとこちらを見つめていた。
「見つけた?」
「うん、ハイジが前に言ってたやつ」
「……なんだよ、それ」
「この演劇で、ハイジが演じるべき役ってやつ。それをハイジは見つけたんだって、そう思って」
「……」
何の気なしに告げられたそのアイネの言葉に、俺は目の前が真っ白になるような衝撃を覚えた。
心臓を撃ち抜かれた、と言い換えてもいい。
アイネの言う通り、俺はこの舞台で自分が演じるべき役を見つけ出した。そして今の今まで――アイネにそのことを指摘されるまで、俺は自分がその役を演じていることを完全に忘れていた。
演技に没入し、その中で自分が演じていることを忘れる。それこそは俺がヒステリカで即興劇を演じる上で――いや、もっと広く一人の役者として役を演じる上で、究極の理想と位置付けていたものだ。
それを、ほとんど無意識のうちに俺は実現していた……その事実がうまく飲み込めないまま、けれどもその事実を認識することによって、自分の気持ちが少しだけ上向くのを感じた。
――そうだ。状況はそう悲観したものでもない。
十分な台数が得られるかは未知数であるにせよジープは調達できそうだし、雨の予言に絡めて部隊を掌握する筋道が立った。即席の運転教習も無事に終えることができ、部隊のメンバーとの関係も決して悪くない。
だったら、あとは最後に残された問題を解決すればいいだけの話だ。
そう思って、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。少なくとも今はまだ絶望に打ちひしがれるようなタイミングじゃない。深刻に悩んだり諦めたりするのは、もっとずっと先でいい。
頭を上げ、アイネを見た。そして立ち直りのきっかけをくれたことへの感謝を込めて、「ありがとな」と声をかけた。
「え?」
「なんか、わかった気がする。……ああ、別にさっき言ってたことの解決法が見つかったわけじゃないけど」
「……」
「ほんと、いいとこで言葉かけてくれるよな。俺にとって最高の相棒だよ、アイネは」
そう言って俺が笑うと、アイネはまたあの表情を浮かべた。反応に困ってどうしたらいいかわからないと言うような、アイネが嬉しくてしょうがないときの表情だ。
……そういえば、アイネは今朝もこの顔をしていた。こんな状況だというのに、このところアイネが
俺との会話の中で、彼女が何かしらの嬉しさを感じてくれているのだとしたら、それは俺にとってもありがたいことだ。
だが、そんな俺の声が届いたかのようにアイネはふっとその表情を消し、また元のように膝の間に顔を埋めながら独り言のように、「そうかな」と言った。
「わたしはそうは思わない」
しばらくの沈黙があって、アイネは消え入るような声でそう言った。
「ひとつ、聞いていい?」
「ん?」
「ハイジは、わたしじゃなくて、キリコ先生と『結婚』することにしたの?」
「……は?」
抱えた膝の間に顔を埋めたまま、震える声でアイネは言った。遠目にはっきりとはわからないが、よく見ればその身体も小さく震えている気がする。
……明らかに様子がおかしかった。俺はアイネに近づこうと腰を上げかけ――けれどもやはりそうするのをやめて溜息まじりに質問を投げ返した。
「……何の話だよ、いったい」
「わたし、命令に背いた」
「え?」
「ハイジがキリコ先生と話してたとき。ハイジは着いてくるなって言ったけど、わたしハイジのあとつけて外に出て、すぐ近くで見てた」
今度こそ遠目にもはっきりと震えながら、アイネはその罪咎を俺に告白した。
その性格を熟知している俺には、アイネが震えている理由がわかった。……こうなってしまった彼女には、しばらく何を言っても無駄だということも。
「ハイジのことが気になって……ハイジがいなくなっちゃうかと思ったら、いてもたってもいられなくて」
……だが、いつもとは少し様子が違うようだ。独白を続けながら徐々に震えが大きくなってゆくアイネを見て、俺はそう思った。
何が原因かはよくわからないが、アイネは明らかにテンパっている。けれどもこの部屋には俺たち二人しかいないのだから、アイネがそんな風になる必要はどこにもない。
「……いいって、そのことはもう」
「良くない! だってわたし、隊長の命令に背いて――」
「だから! いいって、そんなの。俺のこと心配して着いてきてくれたんだろ? だったら、俺はむしろ感謝すべきであって……」
だが、俺がそう言い終える前に、アイネはそれを否定するように大きく
「違う。そんなんじゃない……」
「違う? 何が違うんだよ」
「ハイジが出てくとき、窓の外にキリコ先生の姿が見えたから。それで、気になって……」
そう言ってアイネは悔やむような厳しい表情をつくり、俯いてしまう。
キリコさんの姿が見えたから着いてきた……なるほど、それだとさっきの話とは微妙に意味合いが違ってくる。アイネは単純に俺の身を案じて着いてきたわけではなく、キリコさんがらみで何か別の理由があって命令を無視し、俺のあとを追って外に飛び出した、ということになる。
「あ――」
そして俺は、キリコさんが去り際に残していった置き土産のことを、今さらのように思い出した。
何の脈絡もなくいきなり唇を奪われた、キリコさんと俺の初めてのキス――十分過ぎるほど衝撃的だったはずのそれは、けれどもそれに続く濁流のような展開の中で俺の頭から失われ、忘却の彼方へ追いやられていた。
……だが、あれをアイネが見ていたとしたら。そしてアイネの中では片時も忘れられることなく、ずっと意識に留まり続けていたのだとしたら――
「……わたし、おかしくなった」
「……」
「ハイジがキリコ先生と……してるの見て。そしたら、苦しくなって……吐きそうなくらい苦しくなって」
「……」
「あれからずっと……まだ続いてる。自分が自分じゃないみたい……なにこれ」
――ハイジは、わたしじゃなくて、キリコ先生と『結婚』することにしたの?
彼女がそんな質問をしてきた理由が――身体を震わせるほどテンパりながら俺にそのことを質さずにはいられなかったわけが、今はっきりとわかった。
胸がずきりと痛んだ。
それはあの夜の……カラスの部屋に消えるアイネの背中を見送った俺が、工場の前のどぶ川で嘔吐せずにはいられなかったあの茹だるような夜の裏返しだった。
アイネの気持ちがカラスに傾いている。あのとき俺がそう思って堪らなくなってしまったように、俺の気持ちがキリコさんに傾いているという妄執に囚われ、アイネは自分を見失うほど取り乱している。
それはとりもなおさず、アイネの中にある俺への想いがそれだけ大きなものになっていたということを意味する。
そんな俺の考えを裏打ちするように、膝の間に顔を埋めたまま、くぐもった声でアイネは言った。
「わたし、ハイジに犯されるつもりだった」
「え?」
「隊長にはなれない。身代わりになって死ぬこともできない。だったら……怖いけど、もうハイジに犯されるしかないって……そう思って」
「……だから言っただろ。俺は嫌だっていう女相手にそういうことするのは――」
「嫌じゃない!」
黎明の薄闇を
「ハイジに犯されるのは、嫌じゃない。……ただ、怖いだけ」
見えない何かに怯える少女のような声だった。その言葉を聞いて、俺は全身の力が抜けるような感覚に襲われた。
抱かれるのは嫌じゃない。けれども怖い。そう言って震えている
ただ、アイネの心情は理解できると思った。男である俺はその気持ちに共感はできないが、理解することはできる。……いや、少なくとも理解しようとしなければならない。
女にとっての初めては、男にとってのそれとは全く異なる意味を持つ。何より、女は傷つくことなしにそれを乗り越えられないのだ。その恐怖はきっと男には計り知れない。
膝を抱え俯いたまま小さく震えてているアイネの姿を眺めながら俺は居たたまれない気持ちで、また頭の裏を掻いた。
「……それはまあ、初めては誰だって怖いだろ。身体も傷つくわけだしさ」
言ってしまってから、自分が口にした言葉の軽薄さに愕然とした。
アイネを抱くことでその身体に傷をつけようとしているのは俺なのだ。その俺が、しかも自分にも経験などないというのに、何様のつもりでこんなわかったような口を聞けるというのか……。
「――違う」
けれども俺が話の接ぎ穂を探しあぐねているうちに、アイネはそう言ってまた強く頭を振った。
「身体が傷つくことなんて、なんにも怖くない」
「だったら、アイネは何が怖いんだ?」
「わたしが、わたしじゃなくなるのが怖い」
「……」
「ハイジに犯されることで、わたしがわたしじゃなくなっちゃうんじゃないかって……そう思って」
「……」
「わたしはそれが怖い……それが、本当に怖い」
――ああ、アイネだ。
自分の身体を抱くようにしてそう言うアイネを見つめながら、俺はそう思った。
この廃墟に来る前、あの町で向き合っていたアイネと、今ここで自分が目にしている彼女とが、完全にひとつになるのを感じた。
こんな砂漠の廃墟で殺伐とした日々を送っていても、あの町でのことを何ひとつ覚えていなくとも、今、俺の目の前で膝を抱えうずくまっているこの
はじまらなければ終わることもない……だから好きだと言えなかったのだとあの夜にそう告げてきた彼女と同じ、俺が好きな――俺のよく知るアイネだった。
「……さっきも言ったけどわたし、今日、ハイジに犯されるつもりだった。……すごく怖いけど、わたしを犯して欲しいってはっきりそう言うつもりだった」
「……」
「でも、言えなかった。ハイジとキリコ先生が……するの見てから、すごく嫌な気持ちになって。言えなくなった……言いたくなくなった。すごく苦しくなって、いっそハイジに嫌われたいって……そんなことまで」
「……」
「こんなんじゃ……こんなんじゃ、ハイジに犯されなくても、わたしがわたしじゃなくなっちゃう!」
膝の間に顔を埋めたまま、押し殺した声でアイネは叫んだ。十分に抑制されたその小さな声が、俺の耳にはどんな絶叫よりも大きく、悲痛なものに感じられた。
「……こんなんじゃわたし、戦場に出たらすぐに殺される。ハイジを守れないだけじゃなくて、自分も守れない。本当にどうすればいいのかわからない。わたしは怖い……わたしがわたしじゃなくなるのが怖い」
「アイネはアイネだよ」
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