337 巡礼者のキャラバン(18)

 苦しい独白を続けるアイネをそれ以上見ていられなくて、俺はついそんな言葉をもらした。


 アイネが頭をあげ、こちらを見た。


 真意を問い質すような鋭い眼差しが真っ直ぐこちらに向けられた。その眼差しを受け流しながら、あえて軽い調子で俺は言葉を返した。


「アイネはアイネだ。俺がいま見てるのは俺がよく知ってるアイネで、それ以外の誰でもない」


「……向こうでもこうだったの?」


「ん?」


「ハイジと一緒ににいた頃も、わたしはこうだったの?」


「ああ、そうだ」


「ずっとこうだった?」


「……いや」


 そこで、俺は言い淀んだ。


 話の流れからすれば必然というべきか、アイネの質問はあの夜――俺たちが激しくぶつかり合い、そのあと答え合わせをしてわかり合ったあの嵐の夜に踏み込むものだった。言い換えればその質問は、あの夜に俺が知り得た、アイネの一番繊細な部分に関するものだ。


 ここで俺がその質問に答えることは、果たして正しいのだろうか。それを話すことで、逆に何かを損なってしまうことにはならないだろうか……そう思って、回答を躊躇う気持ちがあった。


 けれども真剣な目で俺を見つめたまま動かないアイネを眺めているうちに、俺の口はひとりでに動いていた。


「――ずっとじゃない。けど、アイネが今みたいな気持ちになったとき、ちょうどそんな感じになってた」


「……今みたいな気持ちって。わたしが今、どんな気持ちでいるのかハイジにはわかるの?」


「え? ……そうだな、わかるよ」


「わたしにもわからないのに?」


「ああ、わかる」


 はっきりと俺はそう答えた。


 アイネが何かを言おうと口を開きかけ、だが何も言わず目を伏せるのが見えた。


「……ずっとこのままだったの?」


「このまま?」


「そのとき……わたしが今みたいな気持ちになったときに、ちょうどこんな感じになって、それからわたし、ずっとこのままだったの?」


「いや、すぐに立ち直った」


「どうすればいいの?」


「……」


「……ねえ、わたしどうすればいいの? ここからどうやって立ち直ればいいの? どうすれば苦しくなくなるの? 教えてよ、ハイジ。ねえ、お願いだから……」


 そう言って、アイネはまた膝の間に顔をうずめてしまう。


 その質問に、俺は答えられなかった。


 もちろん、俺の中はその質問の答えがある。あの夜、自分を見失ったアイネがどうやって立ち直ったか思い返してみれば、俺がここでアイネに返すべき答えは、多分ひとつしかない。


 ……だがその答えを俺がアイネに教えるのは、きっと違う。何がどう違うのかはわからない。けれどもそうすることで俺たち二人の間にある何かが歪んでしまう気がして、俺はアイネが求めている答えを返すことができなかった。


「……」


 ほの暗い部屋の隅にうずくまるアイネの姿をぼんやりと眺めながら、なんだか昨日の朝と同じようなことをしていると思った。


 昨日の明け方、隊長の役を俺に押し付ける代わりに命を懸けて俺を守ると宣言するアイネに、俺はぞんざいな返事を返して別の問題――ここが本当に劇の中かどうかという答えの出ない議題の中に迷い込んだ。


 反対に今、ささいなボタンの掛け違いからアイネが感情の迷路にはまり込み、自分で自分がわからなくなって俺に助けを求めている。そんな彼女に俺は適切な返事を返せないまま、ただ黙ってその姿を見つめている。


 だから、厳密には昨日の朝と同じではない。考えていることも違えば、二人の精神的な立ち位置も違う。


 けれどもこうして互いに向かい合って壁に背もたれ、二人とも出口の見えない堂々巡りのなか俯き考え込んでいる構図は、まるで昨日の焼き直しのようだ。


「……」


 そう思って、俺は思わず左肩に手をやった。


 ……もうひとつ、昨日との大きな違いがあるとすれば、この肩だ。


 今、俺の肩はもうなんともない。キリコさんからもらったあの薬で奇跡のように治ってしまった。だが昨日の朝は銃創の痛みに苛まれ、脂汗を流しながら苦痛にあえいでいたのだ。


 ……あのときは本当に苦しかった。銃創を身に受けたのは初めてだが、あれほどの痛みは想像していなかった。……と言うより、俺がこれまで経験してきたものとは明らかに痛みだった。


 やはり体組織の奥深くまで裂傷が及ぶことでああした痛みになるのだろうか。できればもうあんな痛みは味わいたくない。けれどもここで生き続ける限り、また被弾してきずを負うことは避けては通れないのかも知れない――


「――舐める?」


「え?」


 唐突に投げかけられた声に、俺は反射的に顔を向けた。


 向かいの壁際ではいつの間にか膝の間から頭をあげたアイネが、昨日の明け方と同じ気遣わしげな目でこちらを見ていた。


。またわたしが舐めた方がいいなら、舐めるけど。……ううん、舐めさせて」


 そう言ってアイネは立ち上がり、こちらへ近づいて来る。


 きずはもうとっくに治っている――俺がそう言おうとして口を開く前に、アイネは目の前にしゃがみこんでいた。そうして下から覗き込むような、何かを懇願するような目でじっと俺を見つめた。


「……どうしたの?」


 動かない俺をどう思ったのか、訝しむような声でアイネが言った。


 そこに至って俺は小さく溜息をつき、帆布袋からウイスキーの瓶を取り出した。蓋を開けてアイネに手渡す。その中身をアイネが口に含むのを見守りながら、上着のボタンを外し、左肩をはだけた。


 露わになった左肩に、ゆっくりとアイネの唇が近づいてくる。だがその唇が俺の肩に充分近づいたところで、アイネの頭の動きが止まるのがわかった。


 ……それもそのはずだ。なぜならそこには昨日の明け方、そして今日の昼下がりにも彼女が目にしていた、舐めて癒すべき銃創が跡形もなくなっているのだから。


 こういうことだから、もう舐めてくれなくていい――俺がそう言いかけたとき、その感触はきた。


「……っ!」


 左肩にアイネの唇が押し当てられ、その舌が肌の上を這いまわる艶めかしい感覚が伝わってきて、俺は思わずびくりと身体を震わせた。


 同時に、俺は混乱に襲われた。


 きずがなかったことはアイネにもわかったはずだ。それなのになぜアイネはこんな無意味で、ともすれば誤解を招きかねないことを躊躇いもなく始めたのか……。


 けれども――そう思うことですぐ、答えは出た。


 肩のあたりをついばむやわらかい唇と、潜り込むきずを求めるように肌の上を這いまわる舌の感触が、その行為を理性的な言葉で説明しようとする俺の思考を容赦なく奪い去ってゆく。


 ……誤解も何もない、ということが、肌に触れる舌と唇の動きからはっきりと伝わってくる。


「……アイネ」


 健気に俺の肩を舐め続けるアイネの身体を抱き寄せ、その髪を掻きいだいた。それでもアイネは俺の肩を舐めるのをやめなかった。


 俺は昨日の昼下がりにそうしたように左手でアイネの身体を抱きとめ、右手でやさしくゆっくりとその髪を掻き撫ではじめた。


 どれほどそうしていたのだろう。やがて唇が肩から離れ、ウイスキーと唾液の混ざり合ったものを垂らしながら少しだけ後ろに退いた。


 薄暗い部屋に視線が絡み合った。


 熱に浮かされたようにぼんやりしていたアイネの表情が、目の前で崩れてゆくのがわかった。自分が犯してしまった恐ろしい罪に今はじめて気づいたように――


 だからその間違った表情が完成する前に、俺はアイネの身体を引き寄せ、性急にその唇を奪った。


「……っ!」


 弾かれたようにアイネの頭が離れ、驚きに見開かれた目が責めるように俺を見つめた。


 そんなアイネに俺は静かな声で、「俺にも舐めさせて」と言った。


「え?」


「アイネのきず、俺に舐めさせて」


 俺を糾弾するように睨みつけていた眼差しが、諦めたようにふっと緩んだ。


 そしてアイネは瞼を下ろし、うすく唇を開いた。その唇に、俺は自分の唇を合わせた。


「ん……」


 くぐもったアイネの声を耳元に聞いた。


 この世界に来て初めてのアイネとのキスは、ほのかなウイスキーの味と、噎せ返るような女の匂いがした。


 そうして俺たちはぎこちなく抱き合ったまま、ひとしきり舌を絡め合わせた。


 はじめのうち遠慮がちだったそのキスは、やがてぴちゃぴちゃと音を立てる激しく濃厚なものに変わった。混ざり合った唾液からウイスキーの残り香が消えてしまったあとも、強い酒精に酔ったように俺たちは互いの舌と唇を貪るように舐め合った。


 そのキスに、俺は想いを込めた。


 俺が欲しいのはアイネだけで、こうして俺がキスしたいのもアイネだけ――そんな想いを、顎から首筋に伝い落ちる唾液も意に介さないほど夢中になって互いを求め合うそのキスの中に込めた。


 ――あるいは、それは軽薄な行為だったのかも知れない。他の女とのキスを目撃され、それを有耶無耶にするために情熱的なキスで上書きする。いかにもどこぞのがやりそうな軽薄で鼻持ちならない行為だ。


 けれどもをする俺の中に、そんな自分の行為を後ろめたく思う気持ちは少しも湧いてはこなかった。


 俺はただ、アイネのきずを癒やしたかった。誤解のためにアイネの心につけてしまった創を消してやりたかった。その創のために自分で自分を追い込み、出口のない迷路に迷い込んでしまったアイネを救い出したかった。


 そんなありったけの想いを込めて、俺はそのキスを続けた。


 永遠に続くように思われたその時間は、やがてアイネの方でおもむろに唇を離したことで途切れた。


 俺の胸に額をつけ、囁くような声でアイネは、


「もう、苦しくなくなった」


 と言った。


 アイネは俺の胸から額を離し、下から覗き込むように俺を見上げた。


 直前まで続いていた行為のためだろう。熱に浮かされたような、けれどもどこか暗い感じのするふたつの瞳が、じっと俺を見つめた。


「すごいね、ハイジ。わたしもわからないわたしの気持ち、ハイジにはちゃんとわかるんだね」


 そう言って、アイネは暗い情念を宿した瞳のまま恥ずかしそうに微笑んだ。


 俺はもう堪らず、衝きあげてくる想いに駆られるまま、再びアイネと唇を合わせた。アイネは抵抗せず、舌の動きで俺の想いに応えた。


 そうして俺たちはまた互いの口の中を貪り合う行為に没入した。


 キスしながら、俺はアイネの胸に手を伸ばした。指先が乳房に触れた瞬間、その手首をアイネの手がしっかりと掴み、けれどもその手を自分の胸から引き離そうとはしなかった。


 そのまま俺は、手首を掴まれた右手の指を広げてアイネの胸を包み込んだ。ただ、そうやって指をいっぱいに広げてみても、アイネの大きな胸は俺の手の中に収まらなかった。


 少し力をこめると、俺の指はやわらかな胸に沈み込んだ。人差し指が乳房の先の固いしこりに触れると、合わされたままの唇から甘やかな声がもれた。


 中指と人差し指の間にそのしこりを挟み、二本の指を摺り合わせるようにして動かすと、熱い息とともに耳元に届く喘ぎ声はいっそう大きくなった。


 そんな俺の行為に、アイネは抵抗の意思を示さなかった。咎めるように手首を掴んでいた手も、いつの間にか俺の腕の中ほどに添えられ、愛おしむようにそこを撫でていた。


 ――アイネが欲しかった。アイネとひとつになりたかった。


 そんな想いに衝き動かされるまま、俺はアイネの胸に触れていた手を離した。そうしてコンクリートの床にしどけなく投げ出された脚の間の、もう充分に濡れそぼっているだろう翳りに向けてゆっくりと手を伸ばした――



『わたしが駄目になりかけたら、ちゃんと厳しく突き放して』



「……っ!」


 ――その声が耳の奥に響いた刹那、俺はアイネの両肩を掴み、真っ直ぐに腕を伸ばしてその身体を突き放していた。


 心臓が早鐘のように鼓動を打っているのがわかった。もう少しで俺は取り返しのつかないことをするところだった……そんな実感があった。


 俺の両腕の先で、アイネは驚いた顔で俺を見たあと、どこか寂しそうな表情をつくって言った。


「……どうして」


 その質問に、俺は答えられなかった。


 あの夜にアイネと結んだ約束――それがなぜここで頭に浮かんできたのかわからない。けれども、その約束を無視してはならないと俺の中にある何かが告げていた。


 きっと駄目になるから――そう言って俺にその約束を結ばせたアイネの顔が、脳裏に蘇った。その顔が、目の前で悄然と俺を見守っているひとの顔と重なって見え、俺は何も口にすることができないままその身体を抱き寄せた。


「……」


 そうして、俺はまたアイネの髪を撫ではじめた。キスしていたときと同じように精一杯の想いを込めて、愛しい人の髪を掻き撫でた。


 アイネが愛しかった。でも――だからこそ俺はアイネを突き放さなければならないと思った。


 風の音さえない空虚な部屋に二人、俺たちはずっとそうしていた。


 やがて部屋の中がようやく明るくなりだした頃、アイネが思い出したように口を開いた。


「――わたし、ハイジのためならなんだってする」


 昨日、俺に忠誠を誓うと言ったときと同じ声で、アイネはそう言った。


 窓から差す黎明の光がその横顔をさやかに照らしていた。俺の腕の中で頭が上がった。アイネらしい真摯な眼差しが、真っ直ぐに俺を見つめた。


「演劇」


「え?」


「ハイジの言ってた、演劇」


「……」


「わたしもする」


「……」


「ハイジがしてるその演劇っていうの、わたしも一緒にやらせて――」

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