333 巡礼者のキャラバン(14)

「――で、これがクラッチペダル。さっきも言った通りエンジンをかけるときはこのペダルと、隣のブレーキペダルを先ずしっかりと踏み込む」


 残っている方の右目で助手席から食い入るよう俺の足元を覗き込んでいたエンゾが、「へえ」と気の抜けた声をもらした。感嘆の呟きではなく、かつて彼らがDJを前にしたとき口にしていたような、どこか媚びた感じのする「へえ」だった。


「ときにハイジ――いや、隊長さんよ」


 後部座席からこちらへ身を乗り出すようにしているオズから声がかかった。オズの口調もこれまでとは明らかに違う。このがはじまってからというもの、俺に向けられるその言葉遣いは、ぎこちないながらも敬語まじりの恭しいものになっている。


「この『鉄騎』なんだが、あんたはいったいこれ、どうやって手に入れたんで?」


「盗んできた」


からですかい?」


「いや、別のとこから」


「別んとこっていうと、いったいどこから――」


「そんなこといいから集中しろよ。関係ないこと喋ってる暇なんてないぞ。今夜中にお前ら全員、こいつを運転できるようになってもらわないといけないんだからな」


「……へえ」


 エンゾがこぼしたのとそっくりの「へえ」がオズの口からもれるのを耳にして、俺は思わずふんと鼻を鳴らした。


 廃墟を、路地裏に隠してあったジープでビルの前に乗りつけたそのときを境に、彼らの俺に対する態度は文字通り一変した。


 そのときの彼らの反応は見ものだった。亡霊でも目にしたかのように叫び声をあげる者、いきなり銃口を向けてくる者、恐れおののいて逃げ惑う者、呆然として立ちすくむ者。


 そんな彼らを前にジープから降り立った俺は、教習に先立ち、車を運転する上での心得を幾分厳しめな先生口調で彼らに語って聞かせた。


 教習は遊びではない。少しでも気を抜けば命を落とす危険がある。真剣に学ぼうとする気概のない者に教えるつもりはない。たとえどんな理由があろうとも事故ってジープを壊すことだけは許さない――


 なりたての隊長としてはだいぶ感じの物言いになったのは否定できない。だが、期せずしてこの導入が彼らの胸に響いたものとみえる。事前説明を終え実習の開始を宣言する俺に対し、カラスを除くほぼ全員が首領に服従を誓う盗賊団さながら、直立不動のまま「へい」と重厚な返事を返してきたのである。


 あるいは最初からジープを見せていれば良かったのかも知れない――息詰まる広間でのミーティングを思い返して、ふとそんな考えが頭をよぎった。


 こうして最初からジープを見せていれば、彼らはもっと素直に俺の言うことを聞いてくれていたのかも知れない。あんなぎりぎりの遣り取りを繰り広げなくとも、砂漠の外に別の世界があるという俺の話が通り、スムーズにこの夜間教習へと移行できていたのかも知れない――


 ……だがそこまで考えて俺は、やはりこれで良かったのだと思い直した。


 あの緊迫した時間があったからこそ、アイネがレールを敷いたに彼らを巻き込むことができた。そのことに間違いはない。そしてにはそれだけの価値がある――だから、これで良かったのだ。


 そんなことを思いながら、俺は助手席のエンゾに向き直った。


「じゃあ次、エンゾやってみて」


「げ、オレですかい……? オズのやつが先の方がいいんじゃ……」


「どうせ二人ともやるんだからどっちが先でもいいだろ。さ、やってみ。とりあえずエンジンかけて走り出すとこまで――」


 夜空を埋め尽くす夥しい星々の下、ヘッドライトを点さないジープで白熱した夜間運転教習が続いている。


 現在の教習生はエンゾとオズ。俺の指導のもと二人が運転するのを、残りのメンバーが少し離れたところから見守っている。エンゾの組は三組目で、カラスとリカの組、ラビットとゴライアスの組が既に教習を終えている。


 おそらく今の今まで自分たちがに乗ることになるとは夢にも思わなかったであろう『鉄騎』を前に呆然とする彼らから、一組目の教習生として俺が指名したのはカラスたちだった。


 俺の指名にカラスはさすがに驚いた様子を見せたが、にわかにざわめきだした周囲の声に背中を押されるように、特に拒絶の言葉を口にするでもなくリカと連れ立ってジープに乗り込んで来た。 


 結果を言えば、カラスの教習はものの十分で済んだ。


 俺の説明ひとつでエンジンの始動を覚えてしまうと、すぐに遊びを考慮したクラッチの踏み戻しの感覚、ショックのこないブレーキングのコツといったものをマスターし、照明のない夜の廃墟をそこそこの速度で走り回れるまでになったのである。


 その間、周囲から黄色い声ならぬ野太い声で歓声があがり続けていたことは言うまでもない。


 カラスを最初に指名したのには理由がある。高校入学からの長い付き合いである俺には、気に食わないことにカラスという男がこうした習い事にめっぽう強く、短時間で一定のレベルに達してしまうということをよく知っていたのだ。


 あともうひとつには、カラスの気が変わらないうちにさっさと教習を終えてしまいたかったというのもあった。他のメンバーの相手をしているうち、昨日のようにふらりといなくなられてしまっては教習にができてしまう。


 ただ、これに関しては俺の杞憂だったようだ。現に教習を終えた今もカラスは立ち去ることなく、あとに続く者たちの教習を眺めている。……もっともそのあたりはあいつらしく、自分が教習に要した時間と他の者たちのそれとを比べて優越感に浸っているだけなのかも知れないが。


 ともあれ、見切り発車で始めた夜間教習だが、ここまでは概ね順調に進めてくることができた。


 カラスの次はリカだった。これも最初からわかっていたことだが、カラスほどではないにせよリカも呑み込みが早く、きゃあきゃあ言いながらもすぐにそれなりの運転ができるようになった。


 ラビットとゴライアスも似たようなものだった。ゴライアスはとにかく真剣にこちらの言うことを聞いてくれるので、ミスはするけれどもその修正が容易だった。ラビットについて言えば意外なことにカラス以上に器用で、ゴライアスの運転を後ろから見ているだけで覚えてしまい、俺が教えることなどほとんどなかったくらいである。


 だがここへきて、俺教官による運転教習はエンゾという大きな壁に突き当たった。


「……っと、ダメだ。また止まっちまう」


「クラッチを抜くのが早すぎるんだよ。アクセルの踏み込みも弱いし」


「……どうすりゃいいんで?」


「もう少しアクセルを強く踏み込んで……って、そんな思いっきり踏んだらダメだって!」


「うぇ……!? ハイジが強く踏めって言ったんじゃねえか」


「だから、そのへんの加減が重要だってさっきから言ってるだろ――」


 はじめてマニュアル車を運転する者にとってエンストは宿命だが、それにしても十五回連続は多すぎる。エンゾはとにかくペダル類の踏み込み操作がうまくいかず、いわゆる『カックン』を繰り返してばかりでジープも教習も少しも前へ進んでいかない。


 ……しかし、こうしてわずかな人数を教えただけでも、人には器用、不器用があるということがよくわかる。隻眼でスカーフェイスのワイルド系、煙草なんかをふかしながら颯爽とアメ車を運転するのが似合いそうなエンゾが脂汗をたらしながら発進に手間取っているのを見ると、そうした世の中の理をつくづくと思い知らされる。


 実際、現時点で既にカラスたち四人の教習に要した時間よりもエンゾ相手に手間取っている時間の方が長い。このままだと残るメンバーを放置したまま朝までエンゾの発進練習を続けるなどということにもなりかねない。


 もっとも、覚えなければならないことは決して多くないのだ。


 時間の関係上、坂道発進はカリキュラムから除外したし、車庫入れなども当然教えるつもりはない。交通法規に従う必要はない。信号もなければ車線変更もない。その前提で教官としての俺が彼らに伝えるべきことはただひとつ、事故らずにどうにか走って止まれる最低限の運転技術だけだ。


 それだけならどうにかなる。今夜一晩でメンバー全員に一通りの教習を施すことができる――つい先ほどまではそう思い、首尾よくやりおおせると高を括っていたのだが……。


「うぉ! やったぜ進んだ! 進んだぜハイジ……って、うわぁっ!」


「ちょ……アクセル踏みすぎだって、この!」


 ロケットのように発進したまま止まらないジープに、俺はたまらず横からブレーキを踏み込んだ。もちろん助手席に補助ブレーキなどついていないわけだから、運転席の下に無理やり足を突っ込んでのことだが――


「うわぇ!」


 と、間の抜けた声をあげてエンゾが豪快に『カックン』する。同時に、似たような声をあげてオズの頭が後部座席から飛び出してくる。


「だからシートベルトしろってオズ!」


「あ……ああ、すまねえ」


「ったく、もう少しスピードあったらフロントガラスに頭から突っ込んでたぞ! 少しはシートベルトのありがたみがわかっただろ!」


「……へい、わかりやした」


「エンゾもだ! 最初からアクセルをいっぱいに踏み込むなって言っただろ! 発進するときはもっとやさしく踏めって!」


「やろうとしてんだ! 今のだってハイジの言うようにやろうとした! けど、うまくいかねえんだって……」


 切羽詰まったような声でエンゾは必死にうったえてくる。ハンドルを握るその手が震えているのを目にして、俺はそろそろ限界だと思った。


 このまま教習を続けていても埒が明かない。とりあえずエンゾはあとまわしにしてオズの教習に移るべきタイミングかも知れない……そう思って、俺はもう一度エンゾを見た。


「……」


 けれどもエンゾの横顔を見たとき、そんな俺の考えは霧散した。


 滝のような汗を流し、歯を食いしばってもう一度発進操作に挑もうとするその姿に、俺は不覚にも感動をおぼえた。


 何度失敗しても諦めることなく、ひたむきに練習に取り組むこの男を、俺は絶対に見捨ててはならないと思った。


「――エンゾ、ちょっとそこどいて」

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