113 あのときの契約はまだ有効だから(3)
「ちょっと見ておいで」
「え?」
「表を見ておいで、と言ってるのさ」
――外は既に夜だった。ラブホテルのエントランスを出るところで、キリコさんはそう言って俺の背中を押した。
「いや……もういるはずないって。あれからだいぶ経ってるし」
「ばかだね。あたしが見てこいと言ってるのはあの二人じゃないよ」
「……? じゃあ何を見てこいと?」
「見知った顔がいないか、ってことだよ。強いて挙げれば『ヒステリカ』の関係者だね。アイネちゃんはまだ駆けまわってる可能性が高いし」
「う……言われてみれば」
このままキリコさんと連れだって表に出たところをアイネに目撃される情景が頭に浮かんだ。……
俺は無言で頷き、出口すれすれまで移動した。そして壁に身を隠したまま表に目を走らせた。
「誰かいるかい?」
「……向こうから歩いて来る男が一人」
「妙な形のゴーグルつけたハゲかい?」
「いや……見たことがない人」
「なら問題ないね。堂々と出ていこうじゃないか」
いつの間にか傍に来ていたキリコさんはそう言って悪戯っぽく笑い、俺の腕を抱えて引くようにしてエントランスを出た。
「ちょっと……キリコさん!」
「大丈夫、ちゃんと見たんだろ? だいたいこんなところで知り合いに会うなんて、そんなの隕石に当たるくらいの――」
不意に俺の腕が引かれた。いや、引かれたのではなかった。俺の腕を掴んでいたキリコさんが歩みを止めたのだ。
「……へえ」
低い声が聞こえた。声のした方に目を遣った。右斜め前方、街灯のつくるぼんやりとした輪の中に、少し軽い感じのするスーツに身を包んだ男がこちらを眺めていた。俺が先ほど視認した『見たことがない人』だった。
「久し振りじゃないか。こんなところで会うなんて奇遇だな」
キリコさんは応えない。俺の袖を掴んだまま立ち尽くしている。俺は振り返ろうとして――
「いや、奇遇でもないのかな。相変わらずと言うべきか……今度はまたずいぶんと若い相手じゃないか。趣味が変わったのか?」
依然としてキリコさんは応えない。彼女が何を思って沈黙しているのかわからなかった。だがこれが好ましくない場面であることだけはわかった。俺は黙ってキリコさんの腕を引いた。
「おいおい、挨拶もなしか? それはないだろう。三年振りの再会だってのに」
男は腰に手を当てて呆れたように言ったが、その場から動こうとはしなかった。男の横を通り過ぎるとき、それでも俺は軽く一礼した。
歩き去ろうとした俺の背中に、「……君もせいぜい気をつけるんだな」という台詞が、当たって落ちた。
今日何度もそうされたのとは逆に、俺はキリコさんの腕を引くようにしてその場を離れた。薄暗い裏通りを歩く中、彼女からは一言もなかった。俺もまた何も言わず、振り返りもせず細い道を急いだ。
やがて小路を抜け大通りに出た。夜の街にさんざめく灯と、往来する人々の姿がやけに暖かいものに感じられた。そこに至ってもキリコさんは沈黙したままだった。どんな言葉をかけていいかわからなかったが、それでも俺は意を決して口を開いた。
「……当たりましたね、隕石」
言いながら振り返った。キリコさんは俯き、地面に目を落としたまま答えなかった。
「……何て言ったらいいのかわからないけど、その……俺は気にしてないですから」
シャツを掴んでいた手が離れた。それでもキリコさんの返事はない。
「と言うか、誰にも言いませんから。あの場にいたのは俺だけだし、だから俺が黙っていれば――」
「飲みに行くよ」
俯いたまま、ぽつりとキリコさんが呟いた。
「……え?」
「飲みに行く。ハイジは帰ってもいいよ」
そう言って俺の横をすり抜け、早足に通りを歩き始めた。
俺はしばらく立ち尽くし、大きく一つ溜息をついたあと、人波に呑まれかけた彼女の背中を追い、走り出した――
◇ ◇ ◇
「ふう……」
日付が変わろうとする頃、俺は人気のない真っ暗な道を歩いていた。
噎せ返るような暑い夜だった。頬を垂れ落ちる汗が首を伝い、シャツの中にまで入ってくる。けれどもその汗の理由は、闇の町にたゆたう熱気のせいばかりではない。
「……それでも、あともう少し、か」
湿った吐息が顎のあたりにかかる。安らかな寝息にかすかな苛立ちを感じた。だがその苛立ちもすぐに立ち消え、代わりに苦笑いしたくなるような親しみと、申し訳ない気持ちとが胸に湧きあがってくる。
「まあ……あんなことがあったんだからな」
酔って眠りこけるキリコさんの身体が、俺の背中にある。
あれから俺たちは手近な飲み屋に入り、乾杯もないまま暗い酒宴を始めた。もっとも暗かったのは最初だけで、酔いがまわり始めるとキリコさんはいつにも増して陽気になり、三軒もはしごをして浴びるように酒を飲んだ。
その揚げ句がこのていたらくだった。最後の店を出たあと、自分で立つこともできないキリコさんのためにタクシーを呼ぼうとしたが、その挙げかけた手を彼女の方で止めた。ろれつの回らない口調でそんな金はないと言う。
俺は呆れたが、考えてみれば彼女はラブホテルの件で大枚をはたいている。それからこうして飲み屋のはしごをしているのだから財布が空になってもおかしくない。実際、飲み代もほとんどキリコさんが払ってくれた。急なことで俺に持ち合わせがなかったからだ。
泥酔した彼女をこのまま置いておくわけにはいかない。かと言ってこの時間に車で迎えに来てくれるような気の利いた友だちにあてはない。仕方なく俺はキリコさんを負ぶって家まで送ることにした。さすがにそれなりに重かったが、思ったよりはずっと軽かった。歩き出すと彼女はすぐ俺の背中で寝息を立て始めた。
脱力した身体を落とさないように目一杯前屈みになって歩いた。彼女の腕はしっかりと俺の首に回されていたから心配することもなかったのだが……もう一つの問題が俺にその姿勢を余儀なくさせた。
背中一面に広がる柔らかいもの……それが原因だった。歩を進めるたびにたゆたゆと形を変えるその感触に、俺の一部は否応なく硬直してしまった。こういうとき男がとるべき姿勢は一つしかない。そして人を背負っていることで、俺は自然にその姿勢をとることができた。
……ただ、問題ある事態はそう長く続かなかった。歩き始めてすぐ俺の身体は背中に広がる感触より、足腰の疲労をより強く感じ始めた。人一人背負って歩くことがどれほど辛いことか身に染みて理解した。道も半ばを過ぎる頃からは、俺はひたすら無心の境地で、荷を運ぶ駱駝のようにゆっくりと夜道を歩いた。
「……ん」
耳元で小さな呻きが聞こえた気がした。真横にある寝顔をちらりと見て、俺はすぐに視線を前に戻した。しどけない寝顔が妙に可愛かったからだ。せっかく治まった問題の部分に、また余計な血を送りこむのは避けたい。
「……
すると今度はたしかに声が聞こえた。少し湿ったような、けれどもはっきりとした声だった。寝て起きたことで酔いもだいぶ醒めたのだろうか。ろれつの回らなかったさっきまでの声ではない。
「……歩けますか?」
「……無理そうだね」
「……と言うか、歩いてくださいよ」
「……なんだい、それはあたしが重いってことかい?」
「そりゃ重いですよ、さすがに」
「ああ、酷い。女のあたしに酷いことを言うねえ。罰として家まで負ぶって行くように」
「……勘弁してください」
「勘弁ならないね。こうして負んぶしてもらえるなんて滅多にないから、もう少しこのままいさせてほしい……頼むからさ」
最後は懇願するような調子でキリコさんは言った。俺は聞こえるように溜息をついて、その我が儘に応じることにした。
「それにしても、キリコさんがこんなに酔ったとこ、初めて見ました」
「……なに言ってるのさ。あたしは酔ってなんていないよ」
「キリコさんでも酔うんですね」
「だから酔ってないって」
「……酔ってないなら降ろしましょうか」
「急に酔いがまわってきた。こんなに飲んだの久々だからねえ。そりゃ誰でも酔うってもんだよ」
「……ああ、そうですか」
キリコさんが立てないほど酔ったところを見るのは初めてだった。彼女の言葉通り、キリコさんは俺が止めるのも聞かずに、どうしようもないほど飲んでいた。……その理由がラブホテル前の事件にあることは明らかだった。
キリコさんは何も言わなかったから、俺からは何も聞かなかった。彼女が何を考えているかはわからなかったが、その遣る瀬なさは理解できる気がした。そして彼女一人がそんな気持ちに陥っていることが俺にはもどかしく、申し訳なかった。
「ハイジはどうして演劇やってるの?」
「え?」
唐突な質問だった。耳元の唇が、充分に落ち着いた声で囁いた。
「ハイジが演劇をやる理由。前に聞いた気もするけど」
「……前に話しましたよ。思い出せませんか?」
「……たしか、『向こう側の世界』に入りたいから、とかいう理由だったっけ?」
「ちゃんと覚えてるじゃないですか」
『ヒステリカ』に入ったばかりの頃、彼女に問われるまま俺はその回答を返した。本当の意味で芝居の世界に入りこみたい、この劇団ならばそれが叶う気がする。
……思い返してみれば青臭い回答だった。だがそのときの気持ちは、今日まで少しも変わってはいない。
「でもあたしはそれ、ちょっと違うと思うんだ」
「え?」
「ハイジが望んでいるのは、そんな難しいことじゃないと思うんだ」
「……どういうことですか?」
「どういうことだろうねえ。上手く言えないけど、そんな難しいこと考えるだけ無駄だよ。逆に気持ちを楽にして、肩肘張らずにやった方がハイジはいい演技ができると、あたしはそう思うのさ」
反論しようとして、できなかった。キリコさんの言ったことは、たしかに俺も感じていることだった。
何も考えず舞台に立ち、心に浮かんだそのままを演じる。そんな演技ができたらどれほど素晴らしいだろう。……と、もうずっと前から俺もそう思い続けている。
「……キリコさんはどうなんですか?」
「……え?」
「キリコさんは、どうして演劇やってるんですか?」
「……さあね、もう忘れたよ。昔はそんなこと考えたこともあったけどね」
そう言ってキリコさんは沈黙した。聞いてはいけないことだったのだろうか。そう思った俺の耳に、独り言のような呟きが届いた。
「いずれにしろ今度で踊り納めだしね」
「……」
小さく寂しげな言葉だった。その言葉通り、キリコさんは今度の舞台で『ヒステリカ』を去る。そのことを思い出して、もうすっかり馴染みの感傷が胸に湧きあがってくるのを感じた。
「……もう演劇はしないんですか?」
「それもわからないね。まあ、気が向いたらやるだろうけど……」
「……そうですか」
「……でも、今やってるような芝居は、もうできないだろうね」
「……そうですね」
即興劇団『ヒステリカ』での芝居は、他のどの劇団でやっているものとも違う。あらゆる意味で特殊なその芝居は、離れてしまえばもうできるものではない。
そして何より俺たちで作る芝居――今この時間の中にいる俺たちで作る芝居は、かけがえのない一期一会のものに違いない。
それを言葉にしようとして、上手く言えなかった。そんな俺の心を読んだかのように、優しく落ち着いた声でキリコさんは言った。
「ハイジと一緒にやれて、よかった」
「え?」
「この一年半、ハイジと一緒に芝居やれて、よかった」
「……」
「昨日はあんなこと言ったけど、本当は信頼してる。ハイジがいるから、あたしは安心して出ていける」
「……期待に沿えるように頑張りますよ」
「ああ、期待してる。まったく……入ったばかりの頃はあんなだったハイジが、もうこんな立派になってねえ」
――ふと思い出される記憶があった。
桜舞う春の夜の交流会館。浮ついた空気の中で振り絞った、向こう見ずの勇気。そしてキリコさんから返された、今も忘れえぬ言葉……。
「さて、もうこのへんでいいよ」
「え?」
気がつけばキリコさんの家の前だった。彼女の身体を降ろすと、生温い風が妙に涼しく背中を撫でていった。ずいぶんと汗をかいたようだ。……キリコさんの服にもだいぶ染みてしまっただろう。
「送ってくれてありがとう。負んぶまでしてくれて」
「キリコさんが起きるまでの予定だったんですけどね」
「はは。すっかり遅くなったね、コーヒーでも飲んでくかい?」
「……いや、遠慮します」
少し休んでいきたい気持ちはあったが、背中にはまだ柔らかい感触が残っていた。それにこんな遅くに一人暮らしの女の部屋にあがるのは、やはり問題がある。背中に貼りついたシャツを剥がしながらそんなことを考える俺に、キリコさんは穏やかに微笑んで見せた。
「いつだっていいからね」
「え?」
「あたしは、いつだっていいから」
「……」
「あのときの契約、あと一週間は有効だから」
微笑みを浮かべたまま、小さく手を振ってキリコさんは階段を上っていった。
自然と手を振り返しながら、彼女の残していった台詞の意味を考え――真っ白になった頭で、俺はしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。
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