114 裏路地の芝居小屋にて(1)

 ――翌日の朝練はほとんど練習にならなかった。


 舞台直前といっても朝練でやることは変わらない。いつものように発声を終えたあと、二手に分かれての擦り合わせに入った。だが内容は酷いもので、新しいねたなど考えつくべくもなかった。


 不振の理由は練習相手にあった。今朝のキリコさんはのっけからげんなりした様子で、発声のとき眠そうに目をこすっているのを何度も見た。掛け合いが始まっても生あくびばかりでまったく締まりがなく、こちらが何を言っても上の空だった。


 以前に彼女が、自分は決して二日酔いをしないと言っていたのを思い出した。頭が痛くなったり、悪寒を覚えたりはしない。その代わり、深酒した翌朝はただひたすら眠いのだ、と。……どうやらその言葉に嘘はなかったようだ。そう思い、俺は彼女を玄関前の階段に座らせて、せめて居眠りはさせないように台詞合わせで時間をもたせた。


 ただ、その情景は他の三人の目には別の見え方をしていたと思う。


 普段のキリコさんはそれだけしっかりしているのだ。どれだけ気の抜けた顔をしていても、いざ練習が始まれば一瞬でそつのない演技者になりきる。それが俺たちのよく知るキリコさんであり、だから彼女の不調を、三人は文字通りの不調として受けとめたに違いない。


 そんな状態を見越してだろうか。朝練の終わりに隊長から「今日いっぱい団員同士で集まっての練習を禁止する」との指令が下された。舞台前でまとまった個人の時間がとれるのは今日が最後だから、各人が自分の演技を見つめ直す時間にしろということだ。


 その隊長の言葉にペーターだけが反対した。どうしても詰めたい場面があると言ってかなりしつこく食い下がっていた。だがそれも例によって俺が一言かけると沈黙した。


 『ヒステリカ』において隊長の指令が絶対であるという不文律を、彼女はまだ理解していないのだ。隊長がそういう指令を出すからには確固たる理由があってのことだ。もちろん、ひとつにはキリコさんのこともあったのだろう。だが隊長はおそらく――彼女だけでなく俺のためにもその指令を下したのだと思う。


 ……実のところ今朝の練習の不出来はキリコさん一人のためではない。昨夜のことを引きずっているのは俺も同じだった。


 町中でリカたちを見かけて追跡したこと。壁向こうの奇妙な会話。ホテル前での出来事に続く酒宴と、そして何より別れ際のキリコさんの台詞……。


 深夜に帰宅してから今の今までそんな諸々……と言うより最後のあの台詞が頭の中をぐるぐるとまわり続けていた。キリコさんがいつも通りだったとしても、俺にはとてもまともな演技などできなかっただろう。だから俺にとって隊長の指令はありがたいものだった。


 隊長がくれた時間を無駄にしてはならない。この貴重な時間を、麻のごとく乱れた考えの整理にあてよう――そう思い歩き出そうとした俺の背中に、どこか苛立たしげなアイネの声が、当たって落ちた。


◇ ◇ ◇


「あたしが聞きたいのはもっと具体的な話」


「……具体的に話してるだろ、さっきから」


「たしかに具体的だと思う。信じられないってことを抜きにすれば」


「だからどこがどのように信じられないのか言ってくれないと困る」


「どこをどのように信じていいのかわからないんだけど、こっちは」


 ふぁあ――と、隣から大仰なあくびの音が聞こえた。「ごめんよ」と、あまり申し訳なさそうでもない声がそれに続く。


 アイネの右眉がわずかに吊りあがるのがわかった。それが内心の苛立ちを示すものだということを、つき合いの長い俺は知っている。


 重苦しい沈黙の中、かちかちと時計の音だけが聞こえる。


 談話室には俺たちの他に誰もいない。さきほど学祭の関係者らしい女の子が入ってきたが、用事を済ませるとすぐに出ていった。その早足のわけが、俺には何となくわかる気がした。


「カラスと手を繋いで歩いてるのを見かけた。追いかけたけど見失った。それだけだ」


「どこで見失ったの?」


「……町中まちなかだって言ってるだろ」


「町中のどこ?」


「説明しづらい」


「わかった。なら今からそこへ連れていって」


「あのなあ……」


 「連れていってあげればあ?」と、隣から間延びした声がかかった。キリコさんがどんな顔をしてそう言っているのか、見なくてもわかる。返事をする代わりに、俺は幾分の恨みをこめて深い溜息をついた。


 ――朝練後。アイネに捕まった俺とキリコさんは交流会館に軟禁され、それから小一時間もこうした詰問を受けている。もっとも問い詰められているのは専ら俺で、キリコさんは朝に見せた不調を楯にのらりくらりとかわし続けている。


 問題となっているのはリカのことだった。


 アイネの言い分によればリカはまだ見つかっておらず、本格的な行方不明ということらしい。心当たりはすべて見てまわり、実家を含め共通の知り合いに漏れなく電話をかけ、それでもリカは見つからなかったのだという。そういう背景でアイネは最後にリカを目撃した俺たちに情報を求めているわけだが、こんな殺伐とした水の掛け合いに陥っているのには理由がある。


 昨日の夜の段階で、俺はリカたちと遭遇したことを電話でアイネに伝えた。放っておけば彼女は夜通しでも捜しかねないし、捜索につき合った者として当然の義務だと思ったからだ。


 アイネは詳しいことを聞きたがったが、そのあたりは適当に誤魔化した。……と言うより、誤魔化さざるをえなかった。ラブホテルに潜入した事情やその中でのこと、そしてそれからの経緯はどうあれつまびらかにはできなかったからだ。


 けれども俺はここでひとつの失策を犯した。その失策とは、キリコさんと一緒にいたことまでも隠してしまったことだ。


 少し考えれば予想できたことなのだが、キリコさんの方でもアイネに連絡を入れていたのだ。彼女は俺と同じように内容を曖昧にぼやかしながらも、俺と一緒だったことをはっきりとアイネに喋ってしまった。そうして掛け違ったボタンがこの状況を招き、そのボタンは今に至るまで留め直されないでいる。


「……と言うかだな、リカのことは心配しなくていい」


「なぜそんな簡単に言えるの?」


「昨日、彼氏と仲良く手繋いで歩いてたから」


「だから、それが信じられない」


 ――この繰り返しだった。アイネの疑心を解きほぐすために、俺は隠していたことをできるだけ彼女に話した。だが返ってくるのは「信じられない」という台詞ばかりだった。


 ただ……アイネがそう言うのも無理はないのかも知れない。俺は核心であるラブホテル以後の話は隠したままでいた。煮え切らないやりとりにいっそ洗いざらいぶちまけてしまいたいという気持ちは何度もこみあげてきたが、隣に座る彼女のことを思うと、それもできなかった。


 そして何より正直なところ、俺にはアイネがこれほどになる理由がわからなかった。昨日に平和なリカたちの姿を目の当たりにしていることもあるのだろうが、まるで事件の中にいるようなアイネの真剣さを妙に暑苦しく、滑稽にすら感じている。隣であくびばかりしているキリコさんも、あるいは似たような気持ちでいるのかも知れない。


「……信じろよ」


「信じられない」


「嘘なんかついてないって言ってるだろ。信じろって」


「信じられるわけない。嘘じゃないならどうして――」


 そこでまたひとつ、隣から大きなあくびの音が聞こえた。アイネの眉の間に皺が刻まれるのが見えた。本気で怒り出す前兆だった。普段は表情に乏しい分、アイネの感情は露骨に顔に出るのだ。


 反省を促すべく肘で軽くキリコさんの腕をつついた。だがそれをどうとったのか、彼女は目をこすりながら「膝借りるよ」と呟いた。


「え?」


「いい加減眠くてね。ちょっと膝貸しておくれ」


 そう言って長椅子に横たわり、俺の腿に頭を載せてきた。


「ちょ……キリコさん」


 除けることもできず困惑する俺の顔を下から悪戯っぽく見つめたあと、キリコさんは静かに瞼を閉じた。


「ちょっとくらい構わないだろ? 減るもんじゃないし」


「……そういう問題じゃなくて」


「お返しに今度はあたしがしてあげるからさ。もっと落ち着いたとこで好きなだけ」


「まだ話の途中じゃないですか」


「そっちはハイジに任せた。あたしに気兼ねなく喋っていいよ。その子がちゃんと信じられる、どこにも嘘のない話をね……」


 言い終わってすぐキリコさんは寝息を立て始めた。……本当に眠っているのか疑わしいと思いはしたが、彼女の言いたいことは何となくわかった。


 頭をあげると、眉の間に皺を刻んだままのアイネの顔が俺を睨んでいた。内心に深い溜息をついて、俺は彼女にすべてを話す覚悟を決めた――


「――会議が終わって、アイネが飛び出していくのを見て、俺とキリコさんであとを追った。リカを捜すのを手伝うつもりで。そこまでは話した通り」


「……最初から一緒だったの?」


「いや、ばらばらだった。けど捜しまわっているうちにばったり出会ったんだ。それで情報交換をしようってことで喫茶店に入って、そのまま定点観測に移行した」


「定点観測?」


「リカたちが移動してるなら、こっちは位置を固定して観測するのが能率いい、ってキリコさんが言い出して」


「二人一緒に同じ位置で観測してたら能率悪くない?」


「それは俺も言ったんだが……」


「……まあいいや。それで?」


「それでだな。狙い通りというか偶然というか、店の外にリカたちが歩いているを見つけたんだ。それで跡をつけた」


「……どうしてその場で声かけなかったの?」


「声かけられるような雰囲気じゃなかったんだよ」


「喧嘩でもしてたってこと?」


「いや、その正反対」


「ああ……なるほど」


「しばらく追跡するうちに裏通りに入って、そこであいつら、ラブホテルの中に消えたんだ」


「……」


「仕方ないから、俺たちも入った」


「! ……本気?」


「本気というか……まあ、入ったのはたしかだ。あいつらが部屋とるのを見ていて、その隣の部屋をとって、中に入って壁に聞き耳立てた」


「……ほとんど犯罪だと思うんだけど、それ」


「毒食らわば皿まで、って感じだったんだよ。リカたちには悪いと思ったけど、場の乗りでそうせざるをえなかったんだ。……俺が話したくなかった理由もわかるだろう」


「……それで? 何か聞こえたの?」


「……まあ、何か聞こえたといえば聞こえた」


「……」


「勘違いするな。そういう意味で言い澱んだわけじゃない」


「……じゃあどういう意味よ?」


「喋ってる内容が変なんだ」


「……変?」


「なあ、『夜笛』ってさ、俺たちのとこみたいな規則あったか?」


「わたしたちのとこみたいな規則……?」


「即興劇団『ヒステリカ』規則、第一条」


「まさか。うち以外でそんな規則あるとこなんて聞いたことない」


「だよな。……そのはずなんだけど、何かあいつらそれっぽいこと喋っていたんだ」


「それっぽいこと?」


「規則違反だからもうこんなことは止めようとか、そんな感じのことを」


「……何それ」


「聞かれても困る。こっちが聞きたいくらいだ。あいつら最近うまくいってないのか?」


「わたしは聞いてない。それにリカとはこの頃、あまりそういう話しないし」


「そうか。……話を戻すとだな、内容が内容だったからつい壁越しの会話に聞き入ったんだよ。そうしたらそこで、どうやらカラスのやつが気づいたらしくて」


「どういうこと?」


「俺たちが聞き耳立ててるのに気づいた、ってこと」


「大きな音でも出したの?」


「いや、そんなことはない。どうして気づかれたのか俺にもわからない。けどあいつ、はっきり言ったんだ。『この壁の向こうで聞いてるやつがいる』って」


「……何だかよくわからない話」


「そうだな。よくわからない話だ。だからアイネには隠しておくつもりだったんだ。さっきまでの剣幕じゃ、どうせ信じてもらえないと思ったしな」


 そこで俺は自嘲気味に小さく鼻を鳴らして話に区切りをつけた。これで話すべきことは話した。


 けれどもアイネはまだ何か言いたげな、じっとりとした目つきで俺を見ていた。


「……それで、その後は?」


「その後?」


「相手に気づかれた後」


「ああ。さすがに驚いて、しばらく固まってた」


「それから?」


「ほとぼりが冷めたところで、外に出て終わり」


 俺がそう答えてもアイネの目つきは変わらなかった。まだ何かあるのではと疑っているのだろう。


 ……だがこの先のことは明らかに蛇足だ。膝で寝息を立てている人の名誉のためにも断じて話すことはできない。追及をかわすために予め考えておいた一言を、俺は口にした。


「……仕方ないだろ」


「え?」


「その場にいなかったアイネにはわからないだろうが、もの凄く驚いたんだからな。すぐにまたあいつらを追うことなんて、できなかった」


 わずかに反省を滲ませた声でそう告げた。アイネの追及の矛先が別の方向を向いているのはわかってのことだ。だが俺の計略はうまく運んだようで、アイネの表情はそこで幾分和らかいものに変わった。


「わかった。大体は」


 アイネはそう言って立ち上がり、荷物を手に取った。


「こんな話で良かったのか?」


「うん。ありがとう」


「さっきも言ったけど、あまり深刻に考えなくてもいいと思うぞ。あいつらのこと」


「……そうだね」


 一言そう呟き、歩き出そうとして、アイネは思い出したようにこちらを振り返った。


「さっきはきついこと言ってごめん。わたしも少し寝不足で。……キリコさんにもハイジから謝っておいて」


「はいよ」


 そのまま小さく手を振ってアイネは談話室を出ていった。後ろ手に扉を閉める背中が、少し疲れているように見えた。


「……ん」


 顎の下から甘やかな呻きが聞こえた。視線を落とせば幸せを絵に描いたようなキリコさんの寝顔があった。


 その寝顔を見つめながら、俺は腹の底から大きくひとつ溜息をついた。

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