115 裏路地の芝居小屋にて(2)

 昼前には小屋に帰った。冷蔵庫にあったもので簡単に昼食をとったあと、片づけもそこそこに寝台に倒れ伏した。


 正午だった。窓の外に溢れる力強い陽射しが梅雨明けの近いことを物語っていた。……もう夏だ、と思った。


 だがそんな感慨もすぐに立ち消え、部屋には折からの熱気だけが残った。


 ……朝からのごたごたでの疲労が背骨のあたりにまだ燻っていた。いつになく執拗なアイネにも疲れたが、いつもの調子で茶々を入れるキリコさんにも疲れた。


 彼女についてはそれからのこともある。アイネが談話室を去ったあともキリコさんは起きず、実に一時間以上も俺の膝で仮眠を続けた。その挙げ句、がばと跳ね起きるや時計を一瞥して、一言もないままに談話室を飛び出していった。……研究室の関係で何か用事でもあったのだろう。


 キリコさんが眠っている間、俺は何度か起こそうと思った。だが遂に一度も起こさなかった。いや……正確には起こせなかった。


 昨日のことで寝不足なら責任は俺にもある、この気温でこの服なら風邪を引くこともない、急いで一人になっても今日できる練習は限られている……。


 頭の中でそんな言い訳を並べながら、俺には彼女を起こせない本当の理由がわかっていた。


 ――結局、俺は人気ひとけのない談話室でキリコさんに膝枕をしているという状況が心地よかったのだ。


「……封印したはずだったんだけどな。大昔に」


 指を組んだ両手で目を覆って呟いた。即席の狭い暗闇に、長く思い出さないでいた風景が蘇った。


 晩春の生温い夜の交流会館前の階段。


 俺はその階段に腰かけ、隣に座る人にひとつの思いをうち明け――そうしてすぐ、その告白を歯噛みするほど後悔することになる。


◇ ◇ ◇


「……嫌なわけじゃないんだ。あたしもハイジのこと嫌いじゃない。……と言うよりまあ率直に、好きだよ。だからそう言ってもらえたことは嬉しい」


「慰めならいいです。……振られるのは慣れてるし」


「そんなんじゃないよ。本当に嬉しいんだ。何年も前の舞台を覚えててくれたってだけでも嬉しいのに、そのときからずっと思っててくれたなんて言ってもらえて、嬉しくないはずがないよ」


「……いや、ずっと思ってたわけじゃないんですが」


「あれ? さっき言ったじゃないか。あの舞台で初めて会った日からどうこう、って」


「ずっと思ってたとは言ってませんて。その日の舞台でキリコさんを見て、すごく印象に残ったとは言ったけど」


「何だ、そういうことか。感動して損したね」


「と言うか、情報を歪曲しないでくださいよ」


 そう言って俺は笑い、キリコさんも笑った。


 頭の中は真っ白で、振られたという事実さえまだうまく受け容れられないでいたが、言葉は自然と口をついて出てきてくれた。


「まあハイジなんて名つけられた時点で脈がないこと理解するべきでしたね。必死に固辞したのも冗談で片づけられたし」


「え? あれ本気で嫌がってたのかい?」


「本気で嫌がってましたよ」


「何だ。それならそうとはっきり言ってくれないとわからないじゃないか」


「いや……だから何度もはっきり言ったんすけど」


 ……せいぜいおどけた流れにしようと思った。気まずい雰囲気にはしたくなかったし、胸の奥に渦巻く黒い気持ちを隠したかった。


 キリコさんが口にした「好きだけどつき合えない」という言葉が心にのしかかっていた。その言葉の裏に冷たいものを感じた。


 それはつまり彼女にとって、俺には男としての魅力がないという意味だと思った。


 けれどもキリコさんはそんな俺の考えを読んだかのように、笑顔を真摯な表情に改めて言った。


「……本音を言えば受け容れたいよ。正直、最初に会ったときからハイジのこと結構いいな、と思ってたしね。たしかにまだ少し頼りないけど、これからどんどん成長していい男になる。あたしにはそれがわかるし、一番近くでその成長を見てたいって気持ちもある」


 一言一言、噛んで含めるようにキリコさんは続けた。嘘でも慰めでもない、そんな言外の声さえ聞こえた。それならば拒絶の理由はひとつしかないと思った。ふと頭に浮かんだ人の名前を俺は口にした。


「……隊長ですか?」


「は?」


「隊長がいるからですか?」


「そこでどうして唐突にあの男の名前が出てくるんだい?」


「キリコさん、隊長とつき合ってるんじゃないんですか?」


 俺がそう言うとキリコさんは驚いたように目を見開き、次いで呆れた顔をしてひらひらと手を振った。


「ないない。あたしが今さらあの男とどうにかなるなんてありえないよ。それに、いずれにしたって同じ理由で無理だ」


「同じ理由?」


「ハイジにうんと言ってあげられないのと同じ理由だよ。『ヒステリカ』の団員がすべからく守るべき規則さ」


「……規則?」


「団員同士でそういう関係になるのは禁止って規則があるんだよ、うちの劇団には」


 ――最初は彼女が何を言っているのかわからなかった。呆然とする俺に「もっと早くに言っておくべきだったね」と前置きしたあと、キリコさんはその規則のことをゆっくりと丁寧に教えてくれた。


 細かい内容はほとんど頭に入ってこなかった。けれども話の要点だけは不思議と心に響いた。それは、ものの数人のサークル内部でそういう関係が成立するのは適切ではない、ということだった。


 ただでさえ内輪で完結しがちな集団内に幾つもカップルがあったら閉鎖的を通り越して気味が悪い。それは新しい参入者を拒む壁になる。そして何より、醒めた客観が求められる劇団においては、そうした構造が役者の目を曇らせる致命的な毒にもなりうる……。


 俺は何も言わずその話を聞いていた。ただ黙って聞きながら、その話に素直な共感を覚えた。たしかにその通りだと思った。キリコさんの説明はどれも納得がいくものだった。だから最初は口も利けないほど驚いた規則も、話を聞き終わる頃にはごく自然なもののようにさえ感じるようになった。


 ……もちろん遣り場のない思いはあった。なまじ彼女が俺を好きだと言ってくれたのが余計に辛かった。つき合えるけれどつき合わないという言葉は残酷で、俺はこのもやもやとした思いをずっと引きずるのだと思った。これから彼女と同じ劇団で仲間としてやっていく限り。


 春の空気に浮かれて、うかつに思いを告げたりした俺の罪に対する、それが罰なのだと思った。


 長い説明が終わり、キリコさんは唇を閉ざした。ぼんやりとした灯火の下にしばらくの沈黙があって、俺は潮どきを思い、帰るために立ち上がった。


 そのときキリコさんがぽつりと呟いた。


「……ああでも、いいよ」


「え?」


「恋愛でなければいいよ」


「……?」


「規則で禁止されてるのは恋愛だけだから。そこから離れた関係ならいいよ」


「……え?」


「もしハイジがあたしをなら、それには応えてあげられるよ」


「……」


「恋愛でなければね。あたしはいつでもいいよ。ハイジが抱きたいと思ったときに声かけてくれればいいよ――」


◇ ◇ ◇


 ――あのとき自分がどう答えたのか、今はもうわからない。逃げるようにその場を去ったことだけ覚えている。


 恋愛でなければいつでも抱いていい。


 今ならば彼女がそう言ってくれた理由がわかる。――それはキリコさんの優しさだった。彼女はその言葉で、俺の男としての誇りを守ってくれたのだ。


 けれどもそのときの俺は違うことを思った。もっと単純に、彼女は俺に『ヒステリカ』を辞めてほしくないのだと考えた。せっかくの新入団員を、どんな方法を使っても手放したくないのだ、と。


 ……そんなキリコさんの心を思って堪らなく申し訳ない気持ちになった。軽はずみに思いを伝え、彼女にそこまで言わせてしまった自分が情けなかった。純粋に即興劇に惹かれて『ヒステリカ』に入った自分の志さえ裏切ったと感じた。


 そんな葛藤を振り切るために俺は『ヒステリカ』にのめりこんだ。キリコさんの気持ちに応えるため――そして自分の演劇にかける思いを証明するためにはそうするしかなかった。


 そんな日々の中で、俺は初めて『ヒステリカ』の一員になった。思えばあの夜のことは、キリコさん立ち会いの下に行われた俺の『ヒステリカ』への参入儀礼だった。


 もっとも、感情そのものは思ったより楽に片がついた。さすがに最初のうちは苦しかったが、そのうちに何でもなくなった。


 要するにだったのだ。春ははしかの季節だが、入学式直後の大学では特に猛威をふるう。受験の冬が明けたばかりの解放感の中で誰もがはしかにかかる。俺もご多分に漏れずその熱病にあてられていただけだ。半年も経たないうちにそう思えるようになった。


 あれからキリコさんは一度もその話題に触れないでくれた。まるでそんなことなどなかったかのように俺に接し、あけすけで親しみの持てる先輩であり続けた。だから俺も彼女への思いを完全に封印した。


 もちろん俺はキリコさんを抱かなかった。……抱けるはずがなかった。そもそも滅多に思い出すこともなくなったこの頃では、キリコさんのあの最後の台詞は幻聴か何かだったのだろうと、真面目にそう信じるようになっていたのだ。


『あのときの契約、あと一週間は有効だから』


 ――そう信じていた。


 彼女への思いは完全に封印できていた。ともに立つ最後の舞台までに残された短い時間、俺たちはこのまま気の置けない関係であり続けるはずだった。それなのになぜ今になって……。


「……忘れよう」


 溜息と共にそう独りちて、俺はそれが一番の方法だと思った。


 昨日のことは今日中に忘れてしまわなければならない。ここで気持ちを整理し、迷いのない心で臨まなければ舞台当日までとてもたない。


 明日は最後の練習、明後日は通し稽古、それから舞台の仕込み、リハーサルと、今日を逃せば本番まで一日も休める日はない。これが最後の休日なのだ。そう、隊長の言うように今日は最後の休日なのだ。


 ……少し眠ろうと思った。目覚めたとき頭の中がわずかでも片づいていることを願いながら、俺は瞼を降ろして薄い毛布を引きあげた――


「――先輩」


 ……寝入りばなを階下からの声に揺り起こされた。ペーターの声だった。


 居留守を決めこもうかと目を閉じかけたところで、もう一度「先輩」という呼びかけがあって、階段をのぼってくる足音がそれに続いた。


「先輩? いないんですか?」


「……いない」


「いるじゃないですか」


「……いないって言ってるだろ」


「買い物に行くって約束ですよ」


「……何を?」


「昨日買うはずだったものです」


「ああ、そう言えばそうだったか……」


 ……ごたごたがあって忘れていたが、たしか朝練でそんな約束をした気もする。


 俺は仕方なく起きあがり、大きく伸びをして背骨を鳴らした。

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