112 あのときの契約はまだ有効だから(2)
俺たちは入口の脇に身体を隠してガラス扉の中を窺った。壁一面に並ぶ色とりどりのパネルの前で二人は何やら話しているようだったが、しばらくしてそのパネルの一つを指で押した。そしてそこからカードのようなものを取り出してエレベーターの方へと歩いていくのが見えた。
それを確認するとキリコさんは扉を開け、足早に中へ入っていった。躊躇う気持ちはあったが、俺も仕方なく彼女のあとを追った。
「あの子たちが選んだのはこの部屋だったね」
部屋の内装を写した写真を掲げるパネルの群れ。そのうちの一つを指さしながらキリコさんは俺に質した。
「ああ、たしかにそれでした」
「右にする? それとも左?」
「は?」
「いいからどっちか言いな!」
「じゃあ……右」
俺がそう言うとキリコさんは指さしていた一つ右のパネルを指で押した。三回ほど点灯したあと、かちゃりと音を立ててそのパネルが開いた。中に入っているキャッシュカードのようなものをキリコさんが取り出すのを呆然と眺めた。どうやら部屋のカードキーのようだった。
「……ずいぶん慣れてるんですね」
「こういうとこは初めてかい?」
「俺は初めてです」
「そうかい。まあ後学のために覚えておくんだね。いざってときに勝手がわからないでおろおろするのはみっともないだろう」
「やたら手慣れてるのもどうかと思うけど」
「何か言ったかい?」
「いや、何でも」
そんな会話を交わしながらエレベーターに乗り、俺たちは問題の部屋へと向かった。
扉を開け照明をつけると部屋の中の様子が明らかになった。エントランスで写真を見たはずだが、実物の印象はかなり違っていた。白を基調とする内装と、妙に無機的な家具の数々。およそラブホテルには似つかわしくないシンプルな部屋だった。
「……」
その部屋の中央には一際シンプルな、けれども三人は充分に横たわれるほど大きなベッドが鎮座していた。それを目の当たりにして俺は思わず立ち竦んだ。……結局、ここは恋人たちが愛し合うために用意された部屋なのだ。それ以上でも、それ以下でもなく。
自分が酷く場違いな気がして助けを求めるようにキリコさんの姿を探すと、彼女はクロゼットを開いて何やら物色しているようだった。
「……何やってるんですか?」
「そっちこそ突っ立ってないで仕事に取りかかっておくれ。いったい何しに来たと思ってるんだい」
「いや……俺、何しに来たかいまいちわかってないんですが」
間の抜けた話には違いない。だが勢いでここまで来てしまったものの、何をしに来たのか俺には今もって見当がつかない。
「……呆れたねえ。それならあれかい? ひょっとしてあたしとそういうことする気でついて来たのかい? まあハイジがその気ならあたしはそれもやぶさかじゃないけどね」
「冗談言ってる場合じゃなくて、何すればいいか教えてほしいんですけど」
「聞き耳立てるんだよ」
「……は?」
「ほら、そのベッドの隣の壁に」
「……まじっすか?」
「まじに決まってるだろ。そのためにバカ高い休憩費払って部屋とったんじゃないか」
「う……」
休憩費という言葉が俺の胸に深く突き刺さった。考えてみればエントランスで俺は一銭も払っていない。あの場でキリコさんは何も言わず全額自分で払ったのだ。今さら割り勘を切り出そうにも……こんな事態を予想だにしなかった俺には雀の涙ほどの持ち合わせしかない。
釈然としない思いを抱えながら俺は仕方なくベッドにのぼり、その隣の壁にぴったりと耳をつけた。
「……」
……何も聞こえなかった。ほんのかすかな物音も聞こえない。それもそのはずで、ここはラブホテルなのだ。どんなに大きな声をあげても隣には聞こえないというのがそのあるべき姿だろうし、壁に耳をあてたくらいで隣の音がはっきり聞こえるなんてことがあっていいはずはない。
「……何も聞こえませんよ」
内心に安堵しながら俺は呟いた。キリコさんには悪いが、俺にとって隣の音など聞こえない方がありがたい。そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、「もっとよく耳を澄ましてみな」と発破をかける彼女の声がゆっくり近づいてきた。
「本当に何も聞こえないのかい?」
「……遠い潮騒の他には何も」
「ほら、これ使ってみな」
「お、聴診器」
肩越しに手渡された聴診器を反射的に耳にあてかけた。
「……って、こんなものどこから持ってきたんですか!」
「ばか! 大きな声出すんじゃないよ。あのクロゼットの中にかかってたのさ。他にもないか探してくるから、ハイジはそいつで聞いていておくれ」
目を遣れば開け放たれたクロゼットの中にはオーソドックスな白衣や妙に丈の短いピンク色のナース服などが吊されていた。……なるほど専門の施設だけあって備品も充実しているらしい。俺は小さく頭を振ったあと聴診器を耳につけ、音を拾う部分を壁に押し当てた。
かすかな声が耳に届いた。女の声だった。寄せては返す波のような湿りきった嬌声――つまりはリカの喘ぎ声だ。
俺はすぐに自己嫌悪でいっぱいになった。……聞いてはならないものを聞いてしまった思いだった。
それほど親しくないとはいえリカは俺の友だちで、しかも相手は高校時代からの腐れ縁なのだ。ある意味、近親のそれよりも避けて通りたかった性行為に、なぜ俺はこうして聞き耳を立てているのか……。
「そっちの具合はどうだい? よく聞こえるかい?」
「え? ああ……それなりには」
いつの間にかキリコさんが隣に来ていた。さすがに聴診器はもうなかったようで、代わりに透明なビニールカップの口を壁に当て、底に耳をつけている。あまりにベタな情景に微笑ましさを覚えた。もっとも、聴診器を壁に当てている俺も人のことは言えない。
そこまで考えたところで、ふとキリコさんのビニールカップに目盛がふられていることに気づいた。その目盛が意味するものを理解して――全身の力が急速に抜けていくのを感じた。専門の施設だけあってやはり備品は充実しているらしい。そしてどうやらこの広い世界には、俺の想像を絶する愛の形があるようだ、
「……よかったら交換しますよ」
「ん?」
「それとこの聴診器」
「いいよ。これでもまあまあ聞こえるしね」
「そうですか」
「しかしもうたけなわとは気の早い連中だね。さっき部屋に入ったばかりじゃないか」
キリコさんは神妙な面持ちで壁越しの声に聞き入っている様子だった。そのいつになく真剣な表情の裏で彼女が何を考えているのか、俺にはわからない。
「と言うか……もう止めませんか」
「はあ?」
「よくないですよ。こんな覗きみたいな真似」
「人聞きの悪いこと言うんじゃないよ。これは舞台のために必要な情報収集さ」
「……どこがどう舞台に必要なんすか」
「裏方の会合さぼってこんなことしてるんだ。何か深刻な理由があるに決まってるじゃないか」
「深刻な理由……深刻な理由ねえ」
「その理由が一人彼女だけじゃなく、裏方全体に及ぶものだったらどうするんだい? 悪い芽は早めに摘んでおかないと大きくなってからじゃ遅いのさ。あたしの言ってることわかるかい?」
「わかるような……わからないような」
「わかるならくどくど言うんじゃないよ。一度乗った船なんだ。時化ようが嵐になろうが最後まで漕ぎきるのが男ってもんだろう」
「目的地聞いてから乗るべきだった」
「ほら、いい加減にするよ。静かに」
「……はいはい」
滅茶苦茶な論理だった。だがその滅茶苦茶な論理の中にどこか頷ける部分もある気がして、半ば諦めるような気持ちで俺はそれを受け容れた。それに
壁向こうにリカの声は続いていた。次第に耳に馴染んでくるその声は、まるで奥歯を噛みしめているような、あるいは口を両手で覆っているような、そんなどこか抑圧の響きをもって鼓膜に届いた。……そのことで俺は少し訝しく思った。せっかくこんな場所に来ているのだから思い切り声をあげればいい。
けれどもその押し殺した声に、芯では奥ゆかしいところがあるリカの性格を見た気がした。そしてそんな彼女にもっといやらしい声をあげさせようと攻め立てる男の顔まで想像して――それで俺はいよいよ後ろ暗い気持ちになってしまった。
……本当にもう止めよう。キリコさんを裏切ることになるが、もうこれ以上は堪えられない。
あとは収まりがつくまで聞く振りをしていればいい。そう思い聴診器を耳から外しかけたところで、ふっと掻き消すようにリカの声が止んだ。
「……!?」
その直後、俺は酷く不可解な音を聞いた。
それはかすかな銃声だった。幻聴のように頼りない、消え入るほど小さな……けれどもはっきりとした銃声だった。
「もう終わりかい?
キリコさんの呟きを無視して俺は耳を澄ませた。
さっきまでの後ろ暗さは嘘のように消え、何か別の気持ちが心を埋め尽くしていくのがわかった。それは不安のようでもあり、期待のようでもあった。
「――!」
また銃声があった。
俺はちらりとキリコさんを見た。彼女の表情に変化はない。
あのビニールカップでは聞きとれないのかも知れない。……それとも俺の聞き違いだろうか。何よりこんな場所で銃声など聞こえるわけが――
そこでまたリカの声が届いた。さっきのような喘ぎ声ではない、普通に喋る声だった。今度はそこへ低い男の声が混じる。特徴のない軽薄なバリトン。カラスの声だ。
『……え……ああ……』
『……あい……お……』
よく聞こえなかった。よほど小さな声で話しているのか、アクセントの母音がわかる程度で、会話の内容までは聞き取れなかった。
だが俺は聞き入らずにはいられなかった。ほとんど息さえ止めて耳に意識を集中した。
「……ん? 喋り始めたかい?」
「……」
「うまく聞こえないね。そっちはどうだい?」
「……静かに」
「え?」
「だから、静かに」
「……はいよ」
初めはよく聞き取れなかった。それでも集中して聞き続けるうち、おぼろげながら意味を成す単語が耳に入ってくるようになった。
『もう、止めよう……こんなの……』
『……のか? ……を言って……は……』
『……じゃない……でも、私は……』
『……はいつでも……止めていいと……』
切れ切れに聞こえる会話は、どうも情事のあとには不相応なものだった。打ち消しの言葉ばかりだし、聞きようによっては別れ話にさえ聞こえる。
二人の間に何か深刻なものがあるとしか思えなかった。キリコさんが口にしていた「深刻な理由」という言葉を思い出した。……適当なことを言っているようにしか思えなかったが、キリコさんの予言がまた的中したということなのだろうか。
……そういえば朝に教室で話したときリカはどこか思わせぶりなことを言っていた気がする。なるほどそれならば裏方の会議を休んだのもわかる。
恋人と関係が切れかけているとき、それしか考えられなくなるのはむしろ自然なことだ。昼間からこんな場所でセックスしているのも、そういう事情なら一概に非難できない。
『……までこうして……なくちゃ……ないの?』
『隠れ……のが……んですか?』
『……じゃない……れてするのは……別に……』
『なら……は何も……でしょう』
……けれども俺はすぐ矛盾に行き当った。それならばここへ来る道すがら二人が見せていたあの顔はいったい何だったのか。
リカはまだしも能面冠者で通っているカラスさえあんな柔らかい表情をしていた。見ている人の心まで幸せにするような笑顔――その笑顔とこの会話が俺の中でどうしても結びつかなかった。
俺はますます集中して聞き入った。そして二人の会話が明るい方向にその向きを変えるのを待った。だがそんな俺の思いとは裏腹に、壁向こうの遣り取りは時を追うごとに雲行きを怪しくしていくようだった。
『私が言ってるのは……うことじゃない』
『じゃあ……いうこと……か?』
『……だってわかってるはずでしょ……』
『はっきり……ってくれなくちゃわから……い』
『なら……きり言う……私たちのしていることは、規則に背いてるじゃない!』
振り絞るようなリカの一言は、これまでになくはっきりと聞き取れた。
思わずキリコさんを見ると、彼女もまた同じように俺に目を向けたところだった。
あの子たちの劇団にも同じ規則があるのかい? と、その目は言っていた。俺は小さく頭を振ってそれに応えた。
『……が怖いんですか?』
『怖くなんて……少しも』
『なら……じゃないですか……も問題は……』
『でもいつかは……れて……そうしたら……』
――そんなはずはない。たしかにリカとカラスは同じ劇団に所属する仲間同士だ。けれどもあいつらの劇団にうちのような規則があるなんて話は聞いたことがない。
その証拠にリカは今朝も俺をからかって見せたのだし、何よりあいつらはこれまでも交際を隠すような素振りは……。
『私が怖いのは……』
『しっ! ……れてる』
『え……』
『……いてるやつがいる』
『そんな……どこに』
『すぐ近く……この壁の向こう!』
「――!」
弾かれるように壁を離れた。
心臓がばくばくと早鐘を打っていた。反射的にドアを見た。今にも廊下に慌ただしい靴音が響き、そしてそのドアが激しく叩き鳴らされる――そんな予想図がありありと脳裏に浮かび、俺は戦慄を覚えた。
ふとキリコさんに目を遣った。彼女は両手を後ろにつき呆然とした表情であらぬ方を見ていた。その目がこちらに向けられた。色のない瞳が、一瞬で不安に彩られていくのを俺は見た。
「……どうしよう?」
妙にたおやかでしおらしい、いつもの彼女からは考えられない声でそう呟いて、キリコさんは倒れこむように俺の身体に縋りついてきた。
「ちょ……キリコさん!?」
呼びかけに返事はなかった。キリコさんは少女のようにぎゅっと目を閉じ、全身を竦ませて俺のシャツを握りしめていた。そのまま言葉もなく、微動だにせず俺の胸の中で固まっている。
そんなキリコさんを見て、俺の方は逆に気持ちが落ち着いた。彼女の背に軽く腕をまわし、ほの暗い入口のドアに目を向けて覚悟を決めた。そしてノックを待ちながら、この場を切り抜ける最良の方法について思いを巡らした――
「……来ないみたいですね」
――十五分後。俺は溜息とともに安堵の台詞を吐き出した。
結局、あれから何もなかった。廊下に靴音が響くこともなければ、ドアがノックされることもなかった。嵐は素通りしていったのだ。
どこか釈然としないものを感じながらも、あの二人と面倒な諍いを起こさずに済んだことを、俺は喪心にも似た思いで受け容れた。
「もう大丈夫でしょう……さすがに」
キリコさんからの返事はなかった。彼女は最初と同じ、俺の胸にしがみついたままの姿勢で固まっていた。もっとも、さっきまで硬く強張っていた身体からはだいぶ力が抜けていた。その瞳はもう閉じられておらず、伏し目がちにぼんやりと乱れたシーツを眺めていた。
「ん……」
キリコさんが小さく咽を鳴らした。まるで起き抜けのようなしどけない呻きに妙な感覚を覚えた。腕の中にいるのがいつものキリコさんではないように感じられた。そこで初めて、俺は自分の置かれた状況を理解した。
ドアに鍵がかけられたラブホテルの一室。中央に置かれた充分に広いベッド。その上にあって抱き締めあう一組の男女。
……条件は何から何まで整っていた。蓋を開けてみればこれはまるで、『何かをしろ』と言わんばかりの状況だった。さっきとはまったく違う理由で胸が高鳴るのを感じ、俺は慌ててキリコさんから離れようと身じろぎをした。
そのときキリコさんの目が俺に向けられた。
その双眸がはっきりと俺を捕らえた。艶やかに潤んだ、吸いこまれるような瞳だった。……素直に綺麗だと思った。本当に久し振りに、キリコさんのことを『そういう目』で見ている自分に気づいた。
ルージュに光る唇が薄く開いていた。その唇から、聞こえるか聞こえないかの囁きが漏れた。
「していく?」
声が出なかった。咽がからからになり声が出なかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように身動きもできず、俺は何も考えられないまま、息がかかるほど近い女の顔を見つめた。
そんな俺を前にして、キリコさんの顔はにんまりと崩れた。
「……すけべ」
「……え?」
「止めて! 犯さないで!」
「ええ!?」
豹変したキリコさんは強い力で俺を押しのけた。思わず掴まえようと伸ばした俺の腕をかいくぐり、転がるようにベッドから降りた。
「いやあ! 犯さないで!」
「ちょ……」
そのまま悲鳴をあげて部屋を逃げ回るキリコさんを、わけもわからず俺は追いかけた。だがしばらくもしないうちに彼女の悲鳴に笑い声が混じっているのに気づき、その意味を考えて、自分が遊ばれていることを知った。
俺が立ち止まると、ほとんど同時に彼女も足を止め、こちらを振り返った。
「さ、出るよ」
幾分興が醒めたような、だが見慣れたいつも通りの表情でキリコさんは言った。
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