イル・ドットーレ編

111 あのときの契約はまだ有効だから(1)

(序幕『舞台という非日常へと向かう日常』より)


 自分もあとを追おう。そう思い立ち上がろうとして、俺はわずかにためらった。何か心にひっかかるものがあった。ふと隣に目を遣るとペーターが複雑な表情でこちらを見つめていた。


 ……そう言えば会議の始まる前、こいつに何か頼まれた気がする。


「先輩」


 躊躇いがちに呟くペーターの声と、キリコさんを吐き出した扉が閉まる音が一緒だった。縋りつくような目でペーターは俺を見ていた。その眼差しに後ろ髪を引かれる思いがした。……だがここはやはり俺もあとを追うべきだと、すぐに思い直した。


「ペーター」


 逆に俺の方から呼びかけた。これはちょっとした緊急事態だ。モデルガンはいつでも買いにいける。どちらを優先すべきかくらい少し考えればわかるはずだ。そんな説得を言外に匂わせながら。


「……わかりました」


 渋々といった感じでペーターは頷いた。それを認めて俺は立ち上がり、確認のために隊長を見た。「行ってきたまえ」という言葉が返ってきた。そのまま俺は長椅子を跨ぎ越し、駆け足に談話室の出口をくぐった。


「待ってください、私も行きます――」


 と、閉まる扉の向こうから、そんな声が聞こえた気がした。


◇ ◇ ◇


「しかし、あの男にあんな綺麗な妹さんがいたとはねえ」


「ああ、たしかに」


「あのこしらえで習い事ってなると、お花か舞踊あたりになるんだろうか。お茶にしちゃ艶やかに過ぎる気がするし、どうだろうね?」


「さあ、その辺はさっぱり」


「というか、どう見ても血が繋がってるようには思えないよ。やっぱり連れ子とか、そういうのなんだろうか」


「まあ、そうかも知れない」


 交流会館を出た俺はその足で構内を抜け、通りづたいに町を眺めてまわった。当初は先に出た二人と合流しようと彼女たちの姿を探していたが、歩き続けるうちにふと、まとまって行動するより手分けして当たった方が能率がいいことに気づき、そのまま一人でリカの探索を続けようと思った。


 キリコさんと出会ったのはその矢先だった。俺は簡単に情報を交換して別れるつもりだったが、立ち話も何だからという誘いに応じて喫茶店にしけこみ、それから小一時間もこうしてとりとめのない会話を引きずっている。何度うながしてみても目の前の人は腰をあげようとせず、そんなこんなで時刻はもう六時を過ぎてしまった。


「そうなると、さっきあの男が言葉を濁したわけが窺い知れるね」


「そうですか」


「あれだけの美貌で義理の妹だ。いくら筋金入りの朴念仁でも思うところはあるはずさ」


「そうですね」


「あの男が妙に脱俗してるのはそういうわけだったんだねえ。あんな綺麗な妹と道ならぬ恋に落ちてるんじゃ、そりゃ周りにいる女に見向きもしないのも頷けるってもんだよ」


「まあ、そういうことも」


 そこでキリコさんからの言葉が止んだ。目を遣ればテーブル越しに少しむくれたような彼女の顔がこちらを睨んでいた。


「何だい。さっきから聞いてりゃ生返事ばっかりじゃないか」


「そうですか?」


「そうだよ」


「と言うか、こんなところで駄弁ダベってていいんですか? 俺たち」


「なに言ってるんだい、怠けてるわけじゃないよ。定点観測というやつさ」


 キリコさんは胸の前に腕を組み、自分の言葉に納得するように二回ほど頷いて見せた。


「定点観測?」


「ああそうだ。どうせアイネちゃんはそこらを走りまわっているだろうからね。こっちは観測点を固定して敵さんを捕捉しようって寸法さ」


「そのためにこうして喫茶店でだらだらやってる、と」


「よくわかってるじゃないか。敵さんが動いてる場合にはこっちは止まってた方がいいんだよ、いわば確率の問題でね。その辺は理解できるかい?」


「まあ、なんとなく」


「動かざること山のごとしって言うだろ? こうやってお茶を飲んでいることも、あたしの緻密な深慮遠謀のあらわれだと考えてほしいね」


「でも、定点観測なら二人ばらばらでやるべきだと思うけど」


「どうして?」


「確率的にそっちの方が能率いいし」


 そんな俺の指摘にキリコさんは、「ああ駄目、駄目」と言いながら顔の横に手を振った。


「こういうのは能率で考えるとうまくいかないんだ。待てば甘露の日よりありってね。うろちょろしないでのんびり構えてりゃ忘れたころに向こうからやって来てくれるのさ」


「……詭弁という言葉の意味がわかった気がする」


「何か言ったかい?」


「いや、何でも」


 優雅にカップを傾けるキリコさんを眺めながら、俺は内心に溜息をついた。


 たしかに焦って動きまわってもリカが見つかる可能性は低い。それにあいつにしてみたところで、どうせ忘れしてどこぞをほっつき歩いているのが関の山だろう。アイネの様子は気になったが、目の色変えて駆けまわるほどの大事ではないのかも知れない。


「そうですね、のんびりいきますか」


「そう来ないとね。最近は忙しくて、ハイジとこうやって膝交えて話す機会もなかったし」


「まあ、そうかも」


 気を取り直して俺は二杯目のエスプレッソを注文した。キリコさんは水だしのダッチコーヒーを都合三杯目で、それももう底が見えかけている。


「それはそうと、ペーターとの約束はどうしたんだい?」


「約束?」


「小道具を買いに行くってあれだよ」


「ああ、振ってきましたけど」


「……大丈夫だったのかい?」


「明日でも充分に間に合うし」


「あたしが言ってるのはそういうことじゃないよ」


 キリコさんはそう言うと、やれやれといった表情で小さく頭を振って見せた。


「……? どういうこと?」


「前に言ってたじゃないか、あの子の病気の話だよ。昨夜のあれがそうなんだろ? 昨日の今日でそんな邪険にしてたらまずくないかと思ってさ」


「ああ……そのことなら心配いらないです。第一、昨日はぎりぎり未発だったし」


「あれ、そうだったのかい?」


「キリコさんたちが機転を利かせてくれたおかげで」


「ふうん……そうだったのか」


 興醒めしたような顔で呟いて、キリコさんはまたコーヒーを少し口に含んだ。折よく運ばれてきたエスプレッソのカップに、俺も同じように手を伸ばした。それから互いのコーヒーを相手にしばらくの沈黙があった。その沈黙の中で俺はキリコさんが口にしたペーターの『発作』について考えた。


 実のところあいつはヒステリカに入団して早々『発作』を起こしている。俺がアイネに好意的な態度をとっているのを見せつけたのが原因だ。その場にはペーターの他に俺とアイネしかいなかったからどうにか丸く収めることができたが、今後のことを思って俺はその事件のことを隊長とキリコさんに伝えた。だからキリコさんはペーターの『発作』について、知識として知ってはいる。


 ……だがそれはあくまで知識に過ぎない。キリコさんは本当に駄目になったときのあいつを知らない。本当に駄目になったときのあいつは、火のついたように泣き喚くまるで手に負えない子供そのものなのだ。ペーターの『発作』とはそういうものであることをキリコさんは知らない。さっきの会話がその何よりの証拠だ。


 そのことを説明しようと口を開きかけ――もう一歩のところで思いとどまった。こんな席で気安く話していい話ではないと思ったからだ。ペーターの名誉にかかわることでもある。……そして何より、キリコさんがヒステリカを退くまでの一週間に、あいつが再び発作を起こすことはもうないはずだ。


 そこまで考えて、俺の心にふと最近は思い出さないようにしていた感傷がぎった。


 ……隊長とキリコさんは日曜日の舞台でヒステリカを去るのだ。


 泣いても笑ってもあと一週間。そんなしんみりとした思いをそのままにキリコさんを見た。それをどうとったのか彼女は一瞬ばつが悪そうな表情をつくったあと、幾分にやけたからかうような目つきで俺を眺めた。


「しかしハイジも罪な男だねえ」


「え?」


「可愛い後輩のお願いを袖にして、こうやって別の女と逢い引きしてるなんてさ」


「は?」


「ペーターが知ったら嘆き悲しむだろうねえ。ああ、先輩は私との約束を無碍に破ってまで、あの人との束の間の茶屋遊びがしたかったんだ、ってな感じで」


「……そうだこんなことしてる場合じゃなかった。リカを探しに行かないと」


「あ、ちょっと!」


 半分腰を浮かしかけた俺の肩をキリコさんの両手が掴んで、なだめるようにゆっくりと椅子に押し戻した。


「もう、のんびりすると言った舌の根も乾かないうちからそれかい? たまにはあたしとゆっくり話してくれてもいいじゃないか」


「たまにも何も、いつも朝から晩まで話してるようなもんじゃないですか、俺たち」


「二人きりで話すことなんて滅多にないだろ」


「ああ……まあそれはそうだけど」


「こうして話せるのもあと少しなんだよ? ね? お願いだからさ」


「……はいはい、わかりましたよ」


 俺はわざとらしく溜息をついてそう言い、エスプレッソのカップをとった。アイネとペーターには悪いが、今日はキリコさんの我が儘につきあうことにしよう。そう心に決めて視線を起こし、キリコさんを見た。


「……?」


 どういうわけかキリコさんは呆然として窓の外を眺めていた。だがすぐに慌ただしい手つきでハンドバッグを探り、中から何かを取り出したと見るや、ほとんど席を蹴立てるようにして立ち上がった。


「? いったいどうし……」


 その台詞を最後まで言いきることはできなかった。俺はキリコさんに腕引かれて無理矢理に立たされ、そのまま引きずられるようにして店の外に連れ出された。


◇ ◇ ◇


「ちょ……キリコさん。どうしたんですか」


 表に出てすぐ、キリコさんは恋人がそうするように俺の腕を胸に抱きこんだ。そしていかにも自然な装いで暮れかかる通りを歩き始めた。


 背中にカウベルの音を聞いた。振り返ればさっきの店からウェイターが顔を出したところだった。困惑の顔つきでしきりに辺りを見まわしている。俺は慌てて前に向き直った。


「……これ食い逃げじゃないですか」


「ちゃんと置いてきたよ」


「え?」


「テーブルの上にちゃんと置いてきた。色つけてね」


「ああ、そうですか。でも、なんでそんな……」


「静かに! ……前を見な、前を」


「? ……!」


 言われるままに前を見た俺は、危うく声をあげそうになるのをどうにか堪えた。


 通りの少し先、ちょうど見えるか見えないかあたりのところを、俺たちと同じように腕を組んで歩くカップルの姿があった。まだよく見ないうちにそれが誰かわかった。


 ――女の方は、正に俺たちが探索の対象としている問題の人物。そして片割れは、その女の恋人ということになっているいけ好かない男だった。


「あれがリカって子で間違いないね?」


「……間違いないです」


「相方は誰なんだろ。あたしには見覚えがないけど」


「一応、リカの恋人」


「一応?」


「もとい……リカの恋人」


「へえ……そういうこと」


 声をひそめて会話しながら俺たちは二人のあとを追った。キリコさんの手は俺の腕にまわされたままで、二の腕に押し当てられる柔らかい感触が気になったが、成りゆき上その芝居に俺もつき合うことにした。


 もっともな理由があるにせよ、今ここでリカたちに声をかけるのは野暮に過ぎるというのはわかる。そして気づかれないように追跡するなら、こうして前を行く二人のように寄り添って歩くのがベストなのだ。


「……それにしても、よく気がつきましたね」


「何のことだい?」


「あいつらのこと」


「定点観測の成果ってことさ。あたしの言葉に嘘はなかっただろ」


「……方便じゃなかったんすか、あれ」


「こら、失礼なこと言うんじゃないよ」


 それからしばらく、俺たちは古典的なラブコメディの脇役よろしく偽りの恋人としてつかず離れず二人を追った。幸い通りには商店が軒を連ねていたから、信号が赤の間はショーウィンドウを覗くことでさりげなく距離を保つことができた。そういうときキリコさんはいかにも年下の恋人に甘えるお姉さんといった風情で、俺はその演技に感心して素直に調子を合わせた。


 ――追跡を続けるうちに俺は意外なことに気づいた。


 前を行く二人は手を繋ぎ、ときどき顔を見合わせて話す様子が背後からも垣間見えたが、その二人の表情はどちらも今まで目にしたことがないほど優しく幸せに満ちたものだった。リカとカラスがつき合っていることは知っていたが、それがどういうつき合いなのか予がね疑問に思っていたから、その二人の表情は俺にとって新鮮な驚きだった。


 以前、アイネとの会話で俺がリカたちのことを問題にしたとき、『そんなことを喋っていると犬に噛まれて死ぬ』と言って取り合わなかったが、ともすればアイネは二人のこうした関係を知っていたのかも知れない。……ふとそんなことを思った。


 そうこうするうちに二人は道を折れ間道に入り、俺たちもそのあとを追った。細い裏通りに人足は少なかったが、ようやく辺りを覆いはじめた黄昏の帳が俺たちの顔を隠してくれた。


 やがて二人は一軒の建物の前に立ち、おもむろにその入口をくぐった。


「う……」


 俺は思わず足を止めた。玩具の城を思わせる安っぽい外装と、車庫の入口にびらびらと垂らされた黒い帯の群。リカたちの入っていったそこはどこからどう見てもある特殊な目的で用いられる宿泊施設――俗に『ラブホテル』と呼ばれる場所だった。


「入るよ」


「……は?」


「あたしたちも入るんだ」


「まじっすか!?」


「まじに決まってるだろ。ほら、早く」

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