110 ある暑い日曜日の午後(12)

「――おや、ようやくのお出ましか」


 ホールに着き会場に足を踏み入れたとき、舞台には既に照明が点っていた。老人は舞台中央のサス明かりに立ち、竿を取ってライトの位置を調整しているところだった。


「随分とまた遅かったじゃないか」


「すみません。ご迷惑をおかけしました」


「はは、迷惑はよかったな。だが迷惑をかけられるのはこの先だ。ほら、早く上がってきたらどうだ。ただでさえ時間が押してるんだ」


「あ、はい」


 老人の言葉に慌てて舞台に駆け上がった。二人揃ってよろしくお願いしますと言い頭を下げると、老人は軽く手を振って応え、それからまた頭上のライトを小突き回す作業に戻った。


 その声にも表情にも、遅れてきた俺たちを咎め立てるような様子はなかった。代わりにすべての事情を理解し赦してくれるような、素っ気ない穏やかな声と渋い微笑があった。


 照明の調整が終わったあと、舞台の流れについて老人と打ち合わせをした。といっても、例によって詳しいことまで決定できるわけではない。簡単な話の筋をその場で決め、ペーターに確認をとりながらそれを老人に説明した。


 古い城に住み着いた《愚者》とその城をたまたま訪れた《兵隊》。噛み合わないやりとりの中で徐々に物語が浮き彫りになってゆく、不条理で滑稽な意味のない即興劇。


 照明の切り替えはすべて老人のセンスに任せることになった。音響はなし。幕をおろすタイミングは俺が老人に目で合図する。


 それだけ決めてしまうと、もうそれ以上話すことはなかった。開場の時間ぎりぎりだったが、それで無事に準備は調った。


「まあ、何とかなるだろ」


「よろしくお願いします」


「どんなもんかと気を揉んでいたんだが、何のことはない、どこにでもある普通の舞台だな」


 打ち合わせを終えようとするとき、老人がふとそんな言葉を口にした。


 それは俺にとって決して受け容れられない言葉だった。……ほんの一週間前ならば。だが今この瞬間、老人とともに打ち合わせを終えたばかりの舞台に臨もうとする俺にとって、その言葉は何にも代え難い賛辞に思えた。その思いのままに返事をした。


「その通りです。俺たちの舞台は、どこにでもある普通の舞台です」


 その俺の返事に老人は黄色い歯を見せて笑った。それからおもむろに表情を引き締め、挑むような眼差しをこちらに向けて言った。


「では、お前さんたちの芝居を拝ませてもらうとしようか」


「はい、よろしくお願いします!」


「期待しとるよ。その辺で見てる四ツ角のに笑われんようにな」


「え?」


「いや、こっちの話だ。一回こっきりの舞台、素晴らしいものにしようじゃないか」


「はい! よろしくお願いします――」


 打ち合わせは終わった。老人は調光室にのぼり、俺たちは舞台袖で控えに入った。


 緞帳が降ろされ、舞台に照明が落ちた。


 ほとんど何も決まっていない劇の流れで、開幕後のだけは決まっている。


 俺が舞台の真ん中に立ち、そこにサスが落とされる。暗闇の中、自分がどこに立っているかわからない演技を俺はする。その暗闇の中に《愚者》を見つける。破れた天井から射す月明かりの下に――すべてはそこから始まる。


 袖幕の向こうに小さな靴音が聞こえた。


 椅子を引き、腰かける音がそれに続く。覗いてみなくとも、会場に入ってきたのが誰であるかわかる。


 たった一人の観客は現れた。同じようにたった一人の裏方と、二人だけの役者。


 だが、これですべてが揃った。これで俺たちの舞台に必要なすべての要素が揃った。


「……何だ?」


「しないんですか?」


「何を」


「いつものこれですよ」


 舞台に進み出ようとする俺に、ペーターはそう言って右手を突き出した。その先には人差し指が親指につがえられている。即興劇団ヒステリカにおける儀式。忘れていたことを恥じながらそれに応えようとして――


 だが俺は差し出されたペーターの手首を掴み、ゆっくりと下に降ろした。


「いいんですか?」


「ああ。いいんだ」


 そう言う俺にペーターは訝しそうな表情を見せ、だがすぐわかりましたというように微笑んだ。小さく頷いて返して、俺は照明の落ちた真っ暗な舞台に進んだ。


 俺には――俺たちにはもうそんな儀式は必要ない。


 なぜなら俺たちがこれから二人で演じようとしている舞台は――


 1ベルのブザが鳴った。


 緞帳の向こう側に、会場の照明が落ちてゆくのがわかった。


 ……そう、そんな儀式はもう俺には必要ない。


 次のブザが鳴って緞帳があがれば、俺は焦がれるほど待ち望んだ舞台に立つ。たった一人の観客を相手にたった一人の裏方の助けを借りて、たった一人の共演者とずっと夢見てきたどこにもない舞台に――


 2ベルのブザが鳴った。


 緞帳があがり始める前、俺は一瞬、袖に目をやった。


 ペーターは暗がりからじっとこちらを見ていた。闇の中に輝く目をこちらに向け、穏やかに微笑んでいた。


 前に向き直った。分厚い緞帳の向こう側にまだ見ぬ世界の風景を思い描いた。


 光が落ちた。


 そして目の前に、待ち望んだ俺たちの舞台の幕が開いた。



(第一幕 終劇)

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