109 ある暑い日曜日の午後(11)

 夜の町に立っていた。


 軒を連ねる店々にすべてのシャッターが閉まり、辻の街灯が虚ろな光を放つアーケードの商店街。昼の名残の鈍い熱がたゆたう誰もいないそこに、俺は一人立ち尽くしていた。


 じじっ、と誘蛾灯に虫が焼かれる音がした。その音で、俺はようやく自分があの町に戻ってきたこと――戻って来ることができたことを理解した。


「……」


 ……あのときと同じだった。


 模型屋で老人と出会い、裏方をやってくれる約束をしてから駆け出した町。どこかにいるはずのペーターを捜して闇雲に走り続けたあのときと同じ、あまりにもリアルな世界だった。


 宵初めの熱を孕んだ空気の匂いも、薄汚れたかさの下に弱々しく明滅を続ける飴色によどんだ電灯の光さえも。


 ……何もかもあの夜と同じだった。ただあのとき響いていた祭囃子がどこからも聞こえない、それだけがあの夜とは違っていた。


 それが理由で、自分がこの先向かうべき場所を思い出すまでに少し時間がかかった。あの路地裏の芝居小屋に向けて歩き出したのは祭囃子がないことに気づいて、自分が今どこに立っているのかを考え始め――だが考えがまとまる前に俺は踏み出していた。


 歩き出して間もなく足は小走りに変わり、やがて全力に近い駆け足になった。


「はあ、はあ、はあ……」


 すぐに息があがり、身体が悲鳴をあげ始めても俺は走るのをやめなかった。


 へ来る前、俺を衝き動かした居ても立ってもいられない衝動が沸々と蘇ってくるのを感じた。


 だが、それは違っていた。その衝動は俺があの廃墟で感じていたものとは、ほんの少しだけ違っていた。


「はあ、はあ、はあ……」


 ペーターに会いたい。ただそれだけを思った。


 そこにもう義務感はなかった。堅苦しい使命感も責務の念も、彼女を舞台に立たせようという意思さえ今の俺の中にはなかった。


 俺はただ、ペーターに会いたかった。ペーターに会って――そして、どうしても彼女に伝えたいことがあった。


「はあ、はあ、はあ……」


 縁日の出店はなかった。あの日、賑わいを見せていた神社の門前に人の影はなく、ひっそりと静まりかえった小路には何もなかった。


 あのとき俺を導いた吊りかんはなかった。それでも俺は入り組んだ路地を抜け、裏通りにあの夜の芝居小屋を目指した。


「はあ、はあ、はあ……」


 芝居小屋に明かりはなかった。


 あの夜、虚ろに道路を照らしていた野外電灯も、開け放たれた扉から漏れる光も、そこにはなかった。


 静寂に充ちた路地裏の小さな建物に、人の気配はなかった。それでも俺はドアノブを回して、真っ暗なその芝居小屋の中へ踏みった。


「はあ、はあ、はあ……」


 中には誰もいなかった。


 記憶の中にしつらえられていた客席はなく、舞台の上には幾つかの箱馬と、誰かが忘れていったのか使いさしのガムテープが転がっている以外、何もなかった。


 そこにペーターはいなかった。


 それだけ確認して俺は扉を閉め、また夜の町へ駆け出した。


「はあ、はあ、はあ……」


 嵐は来なかった。


 あの夜、俺を襲った大粒の雨も、吹き荒れる激しい風も周囲にはなかった。今何時なのだろう、寝静まる町に動く影はなく、乱れきった自分の呼気いきと靴音の他に音はなかった。そんな町を真っ直ぐに駆け抜け、やがて俺は大学の構内に入った。


「はあ、はあ、はあ……」


 ただ木の影だけがあった。真夜中の『庭園』には星のない空を背に、物言わぬ木々が黒々とした影をつくり、眠っていた。


 そこにペーターはいなかった。


 辺りを見回してそれを確認する俺の耳に、まるで眠りを妨げられたような葉々のざわめきが届いた。


「はあ、はあ、はあ……」


 風が吹き始めていた。だがそれはあの夜の湿りきった風ではなく、夏の夜を渡る緩やかなただの風だった。


 その風の中に、全身を流れ落ちる滝のような汗を感じた。また走り出そうとして脚の筋肉がこわばり、転びそうになるのをどうにかこらえた。


 夜が明けていった。


 黎明の町にたゆたう生温い大気の中を、もう走り続けることはできず歩いては走り、走ってはまた歩いた。陽が昇り、黄色みを帯びた太陽が眩しく町を照らし出しても、そこに動くものの姿はなかった。


 ペーターはいなかった。


 そこにペーターはいなかった。


 真昼の公園をぎった。炎天に蝉の鳴きしきる住宅街の、猫の額ほどの空き地にブランコとシーソーだけが並ぶ小さな公園。そこに子供の姿はなく、それを見守る母親たちもいなかった。


 ペーターはいなかった。


 そこにペーターはいなかった。


 昼下がりの町を駆け抜けた。夕暮れのバス停に彼女の姿を探して、沈みゆく太陽を追いかけてまた走った。誰もいなかった。はっきりと肌で感じられる初夏の息吹に充ち満ちた町は空っぽの空洞で、通りを走る車も道を行く人も、電線にさえずる鳥の姿さえそこにはなかった。


 ただ、濛々もうもうと蝉の声だけが響いていた。それだけが疑いのない夏のあかしであるかのように。今にも崩れ落ちようとする世界に、現実の質感を必死に繋ぎ止めようとするかのように。


 日が落ち、夜のとばりが降りても蝉たちは鳴きやまなかった。熱気の残る宵闇にあえぐように。飛び交う蝙蝠に食われる前に最後の声を振り絞るように。


 一昼夜走り続けた身体は既に感覚がなく、なぜまだ動いているのか自分でもわからなかった。


 もう動かないその身体を動かしているのは、もはやペーターへの思いではなかった。


 舞台への衝動でもない、何かもっと大きなもののために自分は走っているのだと思った。


 どこから沸き起こったかわからないそんな思いにどこに矛先を向けていいかわからない高揚を覚え、叫び声をあげたくなるような気持ちで、俺はように夜の町をひた走った。


 高揚はほどなくして消えた。


 その後に来たのは全身が鉛になったかのような重く深い疲労感だった。


 雨が降り始めた。


 しとしとと小降りだったその雨は、やがて篠突く雨に変わった。夜の底にけぶる激しい雨に俺は何も感じず、ただその水を吸って服が重くなることだけが苦しかった。


 やがて雨はあがった。


 靴の中までずぶ濡れになった俺は、ぴしゃぴしゃと水が垂れ落ちる音を周囲に響かせながら、誰もいない夜の町を這いずるように走った。


 もう何も考えられないまま、ふらふらと幽鬼のように走り続けた。


 東の空が白み始めるのを見て何の感動もないままに走った。夜が明け太陽が昇りきっても、もう自分が何を求め、何のために走っているかわからずに走り続けた。


「はあ……はあ……はあ……」


 そうして俺は見知らぬ町にいた。


 午前だろうか午後だろうか、もうそれもわからない。


 まばゆい太陽の光のもと、鮮やかに描き出された閑静な家並み。手入れの行き届いた生け垣の間に続く雨上がりの舗道に、俺はぼんやりと立っていた。


「はあ……はあ……はあ……」


 足を前に動かそうとして……もう動かないことに気づいた。


 乱れたままの呼吸がここまで走ってきたからなのか、それとも別の理由によるものなのか、それさえもわからなかった。


 それでも俺はほとんど惰性で足を動かし、そのまま前のめりに倒れた。膝をついて立ち上がり、ふらつく足をまた前に出そうと頭をあげ――そこに彼女はいた。


 そこにペーターが立っていた。


「はあ……はあ……」


 声が出なかった。


 呼びかければ返事が返ってくるほどの場所に立つ彼女に、俺はどんな言葉をかけることもできなかった。ただ動かない足を前に動かし、一歩、また一歩と近づいた。


 ペーターは動かなかった。


 ここで逃げられたらもう追いかける気力はない。だがペーターは動かなかった。俺が目の前に立つまで、ペーターはその場から一歩も動かなかった。


「はあ……はあ……」


 目の前に立っても、俺は彼女に言葉をかけることができなかった。


 不機嫌そうな顔がじっと俺を見つめていた。何かを咎めるような目に拗ねた少女のような口元。


 俺が初めて見る彼女の顔だった。けれどもその顔を、俺は決して嫌いではないと思った。


「……何で来ちゃったんですか?」


 俺の息が落ち着くのを待ってペーターは言った。


 その質問に俺は答えず、代わりに小さく息をいた。答えるまでもない質問だということがわかっていたから。


 俺が答えなければならない質問は他にある――そんな心の声が届いたかのように、ペーターは静かな声でその質問を口にした。


「答え、出ましたか?」


「……」


「先輩はどうしてそんなに舞台がしたいんですか?」


「お前と一緒の舞台に立ちたいから」


「……」


「お前と一緒に、演劇がしたいから」


 渇ききった喉に何度もつばを送りこんで、それでもかすれる声で俺は絞り出した。


 そんな俺の答えにペーターは絶句し、そのあとあからさまな不満を表情に出してつまらなそうに言った。


「……何ですか、それ。ぜんぜん答えになってないじゃないですか」


「そうか?」


「私が演劇してたのは先輩の気を引くためです。その気持ちは今も変わってません」


「そんなのはわかってる」


「今だって本当はめんどくさいと思ってます。そんなことしなくても、先輩と二人でいられればそれでいいって」


「そうか。でも、俺はお前と演劇がしたい」


「どうして?」


「……ん」


「どうして先輩は、私と一緒に演劇がしたいんですか?」


「わからない。けど、それが俺のたったひとつの望みだ」


 膝についていた手を離した。背筋を伸ばし、真っ直ぐにペーターを見た。


 小さくひとつ咳払いをして、それから大きく息を吸った。


 その息を吐きだして、もう一度正面に立つ人の目を見据えて、言った。


「俺、ずっとお前のこと見てた」


 ――その言葉に、彼女ははっと驚いたような顔をした。


「お前の演技に憧れてた。お前の演技が、ずっと俺の役者としての理想だった」


 ――その言葉に、彼女は真剣な表情で俺を見つめた。


「お前みたいに演技したかった。お前みたいな演技ができたらどんなに素晴らしいだろうって、ずっと思ってた」


 ――その言葉に、彼女は物言いたげな顔で俺を睨んだ。


「けど、俺にはできなかった。お前みたいな演技が俺にはどうしてもできなかった。それが、今日はできる気がする。お前と一緒なら。ずっと夢見てきた演技が、今日お前とならできる気がする」


 ――彼女は何かを言おうと口を開きかけ、だが何も言わず目を逸らした。


「お前と一緒なら、俺は最高の演技ができる。世界中のどこにもなかった舞台を、今日お前と一緒ならきっとつくれる。お前と一緒ならどんな奇跡だって起こせる。それをやり終えたら死んでもいいって舞台を、今日お前と一緒なら絶対につくり出すことができる!」


 ――彼女は再びこちらに向き直った。悔しそうな目で俺を見つめた。何かをこらえるようにじっと見つめた。


「だから、俺と一緒に舞台に立ってくれ!」


 ――彼女の目から涙がこぼれ落ちた。


「あの日できなかった舞台を一緒にやってくれ! 今日まで俺がやりたくてやれなかった舞台を一緒につくってくれ! お願いだ、頼む! それが俺の願いだ! お前と一緒に舞台をやることが、俺の中にあるたったひとつの願いだ!」


 ――涙で顔をぐしゃぐしゃにして、彼女は泣き崩れた。


「ああ……ああ……あああ……」


 俺がすべての思いを口にし終えたとき、ペーターは泣いていた。


 両手で顔を覆い、小さく肩を震わせ、少女のように声をあげて激しく泣いていた。


 そんな彼女を、俺はただ黙って見守った。その身体を抱くことはできなかった。奥歯を噛みしめ、指の爪を掌に食いこませてそうしようとする自分を抑えた。


「……ばか」


「……」


「ばか……先輩の、ばか」


「……」


 きれぎれの息の中にペーターはそう言いながら、こぼれ落ちる涙を何度も拭った。俺は何も言わず、彼女の返事をただ待ち続けた。


 しゃくりあげる回数が少なくなり、肩の震えが治まったところで、ペーターは泣きはらした真っ赤な目をこちらに向けた。


 その目でじっと俺を見つめたあと、消え入るように小さな声で「わかりました」と言った。


「聞こえない」


「……え?」


「そんなんじゃ聞こえない。いま何て言った?」


「わかりました、って言ったんです」


「全然聞こえない。お前がのとき、俺なんて言った? 声でかくしろって言ったの覚えてないか?」


「わかりました」


「まだ小さい!」


「わかりました! 舞台やります!」


「よし! やろう!」


「舞台やります! 先輩と一緒に舞台に立って、今まで誰もできなかった最高の演技をしてみせます!」


「その返事が聞きたかった。俺はずっと、お前のその返事が聞きたかった!」


 むきになって叫ぶペーターに、俺も負けじと叫び返した。


 そんな俺にペーターは一瞬、ひるんだような顔をし、だがすぐに大きく息を吸って、もう一度大声で叫んだ。


本当ほんとにもう! 知りませんでした!」


「何をだよ!」


「先輩が私の演技に憧れてたなんて! 私、ちっとも知りませんでした!」


 そう叫んで、涙の残る顔にペーターは初めて笑みを浮かべた。


 負け惜しむ気持ちを隠すような、逆に俺のことをからかうような、思わず吸いこまれそうな眩しい満面の笑顔だった。


 どちらが追うのでも追いかけられるのでもなく、同じ場所に立って向かい合っているからこそ返ってくる笑顔だった。


 この笑顔が見たかった。俺はずっと、ペーターのこの笑顔が見たかった――


「よし、なら行くぞ!」


「はい!」


「急ごう! 爺さんが待ってる」


「はい!」


 歯切れのいい即答で応えるペーターは、もうあの頃のペーターだった。俺がその演技に憧れた、熱心でひたむきな演劇者としての彼女だった。


 あとはホールに向かうだけ――そう思って辺りを見回して、俺は自分がどこに立っているかわからないことに改めて気づいた。


 ……そう、ここは俺の知らない町だった。一度も来たことがない町の、見知らぬ場所に俺は迷いこんでいた。


「……と言うか、間抜けな話なんだけど」


「何ですか?」


「ここがどこかわからない。道に迷った」


「迷ってなんかいませんよ」


「え?」


「道に迷ってなんかいません、私たち。この道で合ってます。さあ行きましょう、先輩」


 そう言ってペーターは右手を差し出した。


 一瞬、躊躇ったあと、俺は左手でその小さな手を取った。


 真昼のまばゆい陽射しの中に、彼女がにっこりと微笑んで目を細めるのを見た。


 道は真っ直ぐに続いていた。炎天にゆらめく夏の大気の下を、どこまでも真っ直ぐに。


 俺が一歩を踏み出すと、隣でペーターも一歩を踏み出した。二人で同じ方向を見つめて一歩、また一歩と。


 逃げ水の立つアスファルトの道はどこまでも続いていた。


 俺たちは手を繋いで、真っ直ぐに続くその道を歩き出した。

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