108 ある暑い日曜日の午後(10)

 虚脱して反応のないペーターを『王の間』の寝台に寝かせたあと、俺はまた元の場所に引き返した。そうして俯せに横たわるDJの巨躯きょくを抱えあげ、背負うようにして『中庭』まで運んだ。


 まだ温かい血が背中に染み渡るのがわかり、錆びた鉄の臭いは噎せ返るほどだった。だが、嫌悪はなかった。背にかかるDJだったものの重み以外、俺には何も感じられなかった。


 夕闇のしじまに、椰子たちは既に影絵のような黒々とした姿に変わっていた。


 その林の中に背負ってきた身体を横たえ、枯れ落ちた椰子の葉を集めてその上にかけた。


 間近にみる血塗れの口元には、よく見慣れたとぼけたような笑みが浮かんでいた。たぶん、それとよく似た表情をしながら、俺はその顔を最後の椰子の葉の一塊で隠した。


 風が吹き始めていた。


 木々の合間を縫ってわたる風はまだ弱々しいが、すぐにこの椰子の葉を吹き飛ばすほど強くなる。


 ……けれども、それでいいのだと思った。こいつは風に還るのだ。残りわずかとなったこの舞台に幕が下ろされたとき俺が――俺たちがそうなるように。


 椰子林を出た。


 残照の消えかける『中庭』には、DJの乗ってきたジープが残されていた。ステップに足をかけて暗い車内を覗くとキーは挿したままで、マニュアルだが俺に運転できないことはない。


 ……これに乗れば、俺たちはここではないどこかへ行けるのだと思った。だが同時に、俺たちはもうどこへも行くことができないのだと、わかりきったことをもう一度心の中に思った。


 ウルスラが俺たち二人を連れては行けないと言った理由が今さらのようにわかった。


 あいつを撃てと言って銃を渡してくれた理由、それもはっきりと理解できた。


 けれども俺はあいつと進む道を選び、その銃で二人に残されたわずかな未来を守った。俺のためを思ってウルスラが示してくれた思い遣りをすべて無にした――


 だが、俺にはそうするしかなかった。俺に選ぶことのできる道は、この道以外なかった。


「――」


 不意に、これですべて終わったのだという感動に打たれた。


 ここが旅の終わりで、この先にはもう何も残されていない。


 そのことを思って俺の胸にもたらされたのは悲嘆でも絶望でもなく、紛れもない感動だった。


 全身に流れる血の一粒一粒が快く感じられる、ちょうどひとつの芝居を終えたときのような充ち足りた気持ちだった。


 そして、と思った。


 あの日曜日のホールに銃のトリガーを引くことで始まった舞台――出だしから破綻していたその舞台は最後まで要領を得ないまま、今ここに終結した。期せずしてかかったカーテンコールも終わり、照明が落ち幕が降りようとしている。


 ……そう、この舞台は終わったのだ。観客も役者も無視した、こんな締まりの悪いどうしようもない形で。


「……ああくそ」


 感動の中にやりきれない思いが混じった。


 こんなはずではなかったという思い。小さな種火のようなその思いは、俺の心に一瞬で爆発した。


 こんなことでいいはずがなかった……俺がやりたかったのはこんな舞台ではない。こんな舞台が俺の理想の舞台だったはずはない、俺が最後に立つ舞台がこんなものでいいわけがない。


 そのとき、俺が立つべき舞台がまだ残っていることを思い出した。


 ここではない場所に俺が立つべき舞台――立たなければならない舞台が待っていることを卒然と思い出した。


 そうして、それに立ちたいという衝動が瞬く間に俺の内側を埋め尽くし、頭の中を塗り替えてゆくのを感じた。全身の毛が逆立ち思わず駆け出したくなるような、それは衝動だった。


 行かなければならない。今すぐその場所へ行かなければならない。


 そう思う前に俺は暗闇の中、駆け出していた。


◇ ◇ ◇


 はやる気持ちで『王の間』に駆け戻った。


 藍色に染まりゆく部屋の寝台の上に、ペーターは身体を起こしていた。息せき切って飛びこんだ俺に反応はない。虚ろに開かれた光のない瞳は、もう何も見ようとはしない。


「はあ……はあ……」


 荒い息をそのままにリボルバーを探した。


 決闘のあとペーターをここまで運んだとき、ポケットからずり落ちて部屋のどこかに落ちたはずだった。月明かりの射さない真っ暗な床に這いつくばるようにしてその銃を求めた。乾ききった土煉瓦の上に、額から伝い落ちた汗がぽつぽつと幾つもの黒い染みをつくった。


「はあ……はあ……」


 質問に対する答えは出ていなかった。なぜそれほどまで舞台にこだわるのか――あの河原でペーターにただされた問いに対する答えは、まだ出ていない。


 けれども一刻も早くその舞台に立ちたいという衝動が抑えられなかった。純粋で混じりけのないひりつくような衝動。まるで初めて舞台に向かったときのような衝動が、俺の心を狂おしいまでにかき立て、身体を動かした。


「……あった」


 足が銃を蹴った。音のした方に手を伸ばして冷たい鉄の塊に触れ、それを拾い上げた。


 きこんで指が痺れるほどの興奮の中にその銃を右手に持ち替え、トリガーに指をかけた。銃口をこめかみにあててそのまま指を引こうとし――だが、ふと思いつくところがあってその指を止めた。


 恐ろしくなったのではなかった。DJの身体を切り裂き命を奪った見えない弾丸――それを自分の頭に向けて撃つことに今さら何の恐怖もなかった。


 けれども俺はトリガーから指を抜き、その銃を床に戻した。それから膝をついて寝台にのぼり、すり足に近づいてペーターと正面に向かい合った。


「お前がやろうって言ったんだろ」


 両肩に手をかけ、真っ直ぐに見つめて語りかけた。


 その瞳はもう俺を見ない、光の消えた双眸そうぼうはもうここではないどこかを見ている。


 だが、俺には確信があった。その確信に自分のすべてを懸け、ありったけの思いをこめて俺は語りかけた。


「一緒に舞台やろうって、お前がそう言ったんだろ。違うか?」


「……」


「自分の言葉には責任持て。ずっとそう言ってきただろうが、ったく」


「……」


「なあ、俺にもちゃんと言わせろよ」


「……」


「お前がやろうって言ったその舞台のこと、俺にもちゃんと言わせろ」


「……」


「だから、俺のこと中に入れてくれ」


「……」


「最後にもう一度、俺のことお前の中に入れてくれ」


 返事はなかった。だが、俺には揺るぎのない確信があった。


 俺たちがこの世界でする、これが最後のキスだと思った。


 虚ろに見開かれたペーターの瞳と最後まで見つめ合ったまま、俺は息を止め、ゆっくりと顔を近づけて唇に触れた――

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