097 消えかけた光の中で(9)

 それからしばらくの間、俺は憑かれたようにその作業を繰り返した。


 『王の間』と『中庭』の間を何度も往復し、泉から汲みあげた水をペーターの頭に注ぎ続けた。俺自身たちまち全身汗まみれになり、腕も脚も筋肉が軋みをあげ始めたが何も気にならなかった。優しさでも何でもなく恐怖のため――このままペーターを失うかも知れないという底知れない恐怖が、俺にその作業を辞めることを許さなかった。


 暑い盛りを過ぎた頃にはペーターはもちろん、寝台全体がずぶ濡れになっていた。蒸発も早かったに違いないが、それ以上に俺の補給がまさった。


 まるで消防車の放水を浴びたような寝台の上にペーターは濡れた髪を顔に張りつかせ、最初と同じようにしっかり背を立てて座っていた。俺の努力が報われてのことか、あるいは自然の成り行きかわからないが、とにかく最悪の事態を回避できたことで安堵を覚えずにはいられなかった。


 これでどうにか今日という日はしのげる……そう思うことで張り詰めていた糸が切れ、俺は深い疲労に襲われた。自分まで倒れてはならないと栄養はとりつつやってきたが、それでも灼熱の中ひっきりなしに重いペットボトルを運ぶ作業は過酷だった。


 最後に汲んできた水を床に置き寝台に腰掛けてしまうと、もうぐったりして少しも動けなかった。


 太陽はだいぶ傾いてきたし気温は下がり始めている。……それにこれ以上寝台を水浸しにしてしまえば、冷え切った砂漠の夜に体温を奪うことにもなりかねない。


「……」


 半ば放心したまま頭を後ろに向けた。無惨に垂れ落ちた髪が幽霊のように垂れかかる酷い有様の顔があった。


 あれだけ水を飲むことを拒み必死の抵抗を見せた彼女が、頭から水をかけられることは少しも嫌がらなかった。


 あるいはなぜそんな目に遭わされるのか、その理由が彼女にはわからなかったのかも知れない。もしそうだったのだとしたら……それは俺にとって幸運だったというしかない。


「……はあ」


 大きく溜息をついて向き直り、ずぶ濡れの寝台に膝を突いた。そうして同じくずぶ濡れのペーターに近づき、しどけなく顔に張りついた髪を親指の腹で掻き分けた。


 目にかかった髪を取りのけたときわずかに眉をしかめただけで、彼女は抗わなかった。それを認めて俺はペーターの背中にまわり、乱れ放題の髪を手櫛でくしけずった。


 頭がだいぶものになったところで寝台を降り、あのあと回収してきたもうひとつの段ボール箱から新品のタオルを取り出した。彼女の顔を垂れ落ちる水だけ拭いてしまおうと思ったのだが、実際にそうしてみると真白かったタオルはたちまち赤茶けた色に染まった。


 ……ここへ来て以来、顔を洗っているところなど見たことがないのだから当たり前と言えば当たり前だった。生乾きのドレスから立ちのぼってくる臭いも、少女特有の体臭とは言い難い濃密なものに成り変わっている。


「……」


 しばらく迷った挙げ句、ペーターの両腕を抱えあげて腰を浮かせ、下から捲りあげるようにしてそのドレスを脱がせた。ペーターはそれに何も抵抗しないばかりか、濡れて脱がしにくいドレスを抜くとき腕をあげて協力さえしてくれた。


 下着は上下ともつけておらず、西に傾きかけた陽光の射しこむ部屋に白い裸があらわになった。それをよく見ないまま俺は彼女から離れ、適当な壁の突っかかりにドレスを吊したあと、ペットボトルの水でタオルを湿らせて水気がなくならない程度に絞った。


 改めて寝台に向き直った。虚ろな目でここではないどこかを眺める表情はさっきまでと同じ――ただ心持ち脚を開いて女の子座りをする一糸まとわぬ身体だけがさっきまでと違っていた。


 午後の眩しい光の中に見るその身体は土汚れ、薄い胸の下にはあばらが浮いて見えた。


 けれどもその裸は綺麗だった……初めて目の当たりにするペーターの身体は、まだ充分に綺麗だった。


「……」


 俺が寝台に乗りあげてもペーターは動かなかった。その肩に手をかけたとき一瞬小さく身を竦ませ、だがその先は身じろぎひとつしなかった。


 それで俺は無言のまま、右手に持つタオルをその首筋にあてた。それからゆっくりと丁寧な手つきで、彼女の全身をくまなく拭いていった。


 ペーターは何も言わなかった。俺のなすがままに腕を持ちあげ、脚を組み替えて拭きやすい姿勢をとった。何度もタオルを絞り直し、身体のすみずみに至るまで拭いた。その間、俺は自分の腕に抱く柔らかい身体に何ら性的な衝動を覚えなかった。


 そこにはただ静かな時間があった。……色褪せて乾いた、静かな絶望があった。


「……」


 静謐な絶望だけがあった。そう……それは混じりけのない絶望だった。


 もし誰かの別の目がこの部屋を覗きこんだとしたら、音もなく崩れゆく景色がその目には映るのだと思った。もはやどうすることもできない時の流れの中に俺は――俺たちはいるのだと思った。


 取り返しがつかないいくつかの失敗を思った。今まさに終わろうとしているたったひとつのものを思った。それでもただ傍に居続けることしかできない自分を堪らなく滑稽なものに思った。それは悲劇だと思った……悲劇になりきることさえできない滑稽な悲劇。


 そんなことを思いながら、俺はペーターの裸を拭き続けた。力なくしなだれかかってくるその身体をしっかりと抱きとめて。


 真向かいから腋の下を拭いているとき、一度だけその顔がこちらに向けられた。だがそのときも、彼女の目は俺ではないどこか遠くを見ていた。


◇ ◇ ◇


 ――夕方近くになってまたペーターが異常をきたした。


 全身を硬直させてがたがたと震える様子はちょうど一昨日の夜、隣の部屋の壁のくぼみに彼女を見つけ出したときのそれで、もう汗が出てこないことだけがあの時と違っていた。


 ドレスはもう着せていたし、寝台もすっかり乾いていた。あの時と同じように俺は彼女を抱きしめ、頭を掻きなでながら「俺はここにいる」と語りかけ続けた。


 けれどもその異常はあの時のようにすぐには治まらなかった。かなり時間が経ってもペーターの震えは止まらず、逆に時を追う毎にだんだんと酷くなってゆくように感じられた。


 そこで俺は初めて事態の深刻さに気づき、何とかしなければならないという思いに駆られた。だが、俺にできることはなかった……彼女のために俺がしてやれることなど、何もありはしなかった。


 それでも俺は必死に頭をはたらかせ、とにかく水を飲ませるべきだという結論に至った。この症状の原因が何であるにせよ、彼女の身体を極限まで追い詰めているものは絶対的な水分の欠乏であることに間違いなかった。


 昼間と同じようにペットボトルの蓋を開け、それをペーターの口元に近づけた。……だが血の気の失せた顔で全身を震わせつつも、彼女はなおも頑なにその中身を口にすることを拒んだ。


 怒りとも焦燥ともつかない感情に苛まれながら、俺は何とかしてペーターにそれを飲ませようとあらゆる手を尽くした。


 最初は辛抱強く彼女が口を開けるのを待ち、いつまでも開かないのを見て今度は口移しで飲ませようとした。それも拒絶されると昼間のように無理矢理口を開けさせようとし、だが結局は無駄な努力に終わった。


 必死に懇願しても駄目だった、叱りつけても駄目だった。


 最後はほとんど涙ながらに訴え――けれどもペーターは俺が飲ませようとするそれを断固として口に入れることはなかった。


 ペーターの震えが治まった頃には色づいた夕陽が部屋の中にまで押し寄せていた。


 一時間近く震え続けたペーターはやがて唐突に背筋を伸ばし、それから遂に力尽きたようにぐったりと動かなくなった。心臓に耳をあて、それが動いていることを確かめたあと、静かにその身体を寝台に横たえた。


 そうして俺はその場に座りこんだまま、ぼんやりと窓の外の景色を眺めた。


「……」


 すべてを焼き尽くすような赤い夕陽だった。そんな夕陽を眺めながら、俺はしばらく何も考えることができなかった。


 結局、徒労以外の何ものでもなかった努力のために肉体も精神も疲れ切っていた。たぶん、精神の方がより激しく疲れている……何の意味もなくそんなことを思い、それからまた少しだけペーターのことを考えて、すぐに考えるのを止めた。


 ――俺はこれからどうするべきなのだろう、と思った。


 こんな何もない場所でこいつを相手に、いったい俺に何ができるのだろう。訳のわからない理由で水を飲むことを拒み、頑迷さで破滅に向かおうとする。そんなペーターのため俺に何ができるのだろう……何をどうすれば明日が見えるのだろう――


 何度もそう自問するうちに、ふと耳の奥に蘇る声があった。それはウルスラの声だった。


『――この場所に未来はありません。段ボール二箱分のわずかな未来。あたしが今日お持ちしたのは、そんなつまらないものです』


『先ほど申し上げましたように、あたしがここに来るのはこれが最後です。そうなれば、もうここには誰も来ないでしょう。物資はあれが最後です。あの箱の中身がなくなれば、それでもうおしまいです。ただその時が来るのを待つだけです――』


 迷路に入りかけた俺を引き戻すように、ウルスラの言葉は俺の疑問に単純なひとつの答えを与えた。


 その答えに新たな疑問を投げかけようとして……だがもうそれですべての答えは出ているのだということに気づいた。


 ……彼女の言うとおり、この場所に未来などなかった。俺に――俺たちにできる唯一のことといえば、ただ大人しくが来るのを待つことだけだ。


「……」


 自分たちはもうどこへもたどり着くことができないのだとわかった。ここが俺たちの終着点……先へ進むことも戻ることもできない世界の果てなのだと理解した。


 ウルスラが言う「その時」のことを思い、彼女がもたらしてくれた最後の物資を部屋の隅に眺めた。


 段ボール二箱分のわずかな未来……だがそのわずかな未来さえ使い切れないまま、俺たちは今日明日にも「その時」を迎えようとしている……少なくともこいつだけは。


 色づいた西日が真横から射しこみ、通路側の壁に窓をかたどった鮮明な光と陰を並べていた。


 そんな模様をぼんやりと眺めているうち、かすかな衣擦れの音が背中から耳に届いた。


 振り返ると寝台の上にペーターが身体を起こしていた。窓からの陽光がつくるサイドスポットの中に、異常を来す前と同じ虚ろな目で見るともなくこちらを見ていた。


「……」


 昼間ずっとそうしていたように寝台に背を立てたペーターと、しばらく無言のまま見つめ合った。


 赤々とした夕陽に照らされる双眸そうぼうは真っ直ぐこちらに向けられている。だがその目に何が映っているのか、俺にはもう知るよしもない。


 輝きの消えた目……今にも魂のともしびが消えようとする目。かつて心の中まで覗きこもうとするように、力強い眼差しを俺に向け続けていた目。


 そんな彼女の目を眺めるうち、自分にはまだやるべきことが残されていたのを思い出した。


 ここではない、に俺のやるべきこと――やらなければならないことが残されていた。模型屋の老人とした約束と、あの高架下でオハラさんに渡した皺だらけのチケット。それを嘘にしないために、俺にはやらなければならないことがある。


 ここで俺にできることは、もう何もない。そしてどうしても俺がやらなければならないことが、あの町で今も待ち受けている。


 そう思い、引き寄せられるように俺は寝台にのぼった。


 横あいからペーターに射す光の帯の中に入り、その肩に手をかけた。真向かいから瞳を覗きこんでも、空虚なその表情は微動だにしなかった。


 もう何度となく繰り返した向こう側へ帰るための儀式――それをするために顔を少しだけ傾け、薄く開いたままの唇に自分のそれを近づけた。


「……?」


 瞼をあげたとき、目の前にはペーターの顔があった。


 ……信じられないものを見る思いで、俺はその顔を見つめた。


 唇は確かに触れた、柔らかな感触をはっきりと感じた。それなのに俺はまだにいる……あの町のどこかに忽然と存在しているはずの自分は、なぜかこの廃墟の一室に留まったままでいる……。


 そんなはずはないと思った。はやる気持ちでもう一度ペーターの唇にキスした。


 ……だが、何も変わらなかった。目を開けたまま唇を離した俺は緋色の寝台に少女の肩を抱いて、けれどもこの廃墟からどこへも旅立つことができない。


 心臓が早鐘を打ち始めるのがわかった。


 俺はもうあの町に戻ることができない、そう直感して即座にそんなはずはないと心の中に叫んだ。


 そんなはずはなかった……そんなことがあっていいはずはない。迷いのようなものがあったからそれが邪魔をして儀式がうまくいかなかっただけだ。


 そう自分に言い聞かせて精神を落ち着け、息さえも止めてもう一度ペーターに口づけた。


「……」


 だが、やはり同じだった。


 三度みたび彼女と唇を合わせても俺は依然としてこの場所にいた……あの町に自分の姿を見いだすことができなかった。


 そして今さらのように、ということに気づいた。ペーターにキスをすることであの町に戻れるなどということが現実にあるはずもない。そんな当たり前のことにようやく気づいて――俺は我に返った。


 もう終わったと思っていた舞台。その舞台で、自分がひとつの役に立っていたことを知った。


 そして今初めて、自分がその役から落ちたことに気づいた。


 呆然として声もでなかった。自分が演じていた役を忘れ、舞台の上で立ち尽くしているような気分だった。


 いや……自分はそれそのものだった。演じていた役を最後まで演じきれないまま現実に立ち返り、何をどうすればいいかわからぬまま舞台に立っている間抜けで哀れな役者。それが俺だと思った。


 もはや舞台も何もなかった。何も考えられないまま、俺は魂が抜けたように動けなかった。


 そのとき、目の前に燃え立つような眼差しを見た。


 窓から真っ直ぐに射す赤い光に照らされた少女の顔に、煌々と俺を見つめるふたつの瞳があった。


 それはもうさっきまでの虚ろな目ではなかった。それとはまったく別の何かだった。あの町で俺を見つめていた心の中まで覗きこもうとする力強い眼差し……けれども今、自分が目の当たりにしているそれは、明らかに俺がこれまで見たことのない輝きに充ちて――


 そう思うのと、ペーターの唇が押し当てられるのが同時だった。


 俺の首に腕をまわして髪を掴み、頭を掻き寄せて貪るように唇を合わせてきた。


 咄嗟に頭を引いて唇を離した。その直後、また獰猛な輝きを宿した眼差しが俺を貫いた。


 そして俺たちはまたキスをしていた。激しく舌を絡め合い、お互いの存在を蹂躙し合うような、耳障りな音さえする剥き出しのキスを交わした。


 言葉もないままに俺たちは求め合った。やがてペーターが乱暴にドレスを脱ぎ捨て、俺の着衣を奪いにかかったとき、彼女のどこにこんな力が残されていたのだろうと思った。


 そう思っても俺は自分たちがしようとしていることを冷静に眺めることなどできなかった。自分の目の前にはただ彼女だけがあって、他には何もなかった。


 この世界に、二人以外何もなかった。


 唇を合わせながら彼女とひとつになったとき、窓から射す夕暮れの光は消えかけていた。


 東の壁に形づくられていた紅い模様は消え、土塊つちくれの部屋は早くも藍色の薄闇に充たされようとしていた。


 風はなかった。砂漠の廃城に静寂を乱すものは俺たちの声と、二人の身体が奏でる音以外になかった。


 闇の中にお互いの顔が見えなくなっても、俺たちは貪り合うのを止めなかった。真っ暗な部屋の中に黒いひとつの影となって、いつまでも獣のような性交を続けた。


 その間、俺たちは一言も言葉を交わさなかった。


 長い長い回り道の果てに初めてひとつになったその行為の中、俺たちは互いの性のほかに、何も交わさなかった。

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