131 麻酔(3)

 ――結局、朝練を終えて別れたあとも、俺はずっとキリコさんのことばかり考えている。


 今朝は本当に際どかった。俺たちはごく自然に互いを求め合い、あともう少しで一線を越えてしまうところだった。そうしないように拒んだのは俺で……だが恐らく逆にそれで俺の方にはスイッチが入ってしまった。


 ……今となれば、いっそあそこで流れに逆らわず、彼女の求めに応じておけばよかったとさえ思う。そうすれば少なくともこんなやり場のないもやもやに苛まれることはなかったはずだ。


 事実、そうなっても問題はなかったのだ。なぜならそれはヒステリカの規則に触れる行為ではない。『恋愛でなければいいよ』と彼女は言った。そして俺たちの間にあるものは、たしかに恋愛とは別の何かなのだ。


 そう……俺たちの間にあるものは恋愛ではない。少なくとも俺の認識ではそういうことになる。


 あの春の日、初めてキリコさんに思いを伝えたときのような気持ちは、もう俺の中にはない。今、俺が彼女に対して抱いている感情は憧れでも尊敬でもなく、もっと単純で直接的な――おそらく欲情という名前で呼ばれるものだ。


 今朝、俺はキリコさんとひとつになりたかった。だがそれは彼女に恋をしているからではなく、ただ単に女としてのキリコさんが欲しかったというだけだ。俺の定義によればそれは恋愛ではない。だから俺たちが一線を越えることは、ヒステリカの規則に触れる行為ではない。


 ……もちろん違和感はある。今朝、俺は半ば無意識にキリコさんを拒んだが、そうせずにはいられなかった理由の一つにその違和感があると今は思っている。そしてそれは、思えば俺が彼女に告白したあの日からずっと続いている違和感だった。


『恋愛でなければ抱いてもいいよ』


 そんな言葉をかけられれば喜んで飛びつく男は掃いて捨てるほどいるのだろう。けれどもそこにどうしようもない違和感を覚えてしまう俺のような男も、きっとそう少なくはない。


 あのとき俺は、それを彼女の思いやりだと信じた。言わせてしまったことを後悔してヒステリカの活動に打ちこんできた。……だが今にして思えば、その言葉から始まった違和感を振り払うために俺はそうしてきたのかも知れない。


 あと一歩で完成しようとしていたその試みはここ数日で挫折した。……ただ、そもそもの前提が間違っていたのだとキリコさん自身にそう教えられたのだから、そうなるのも仕方のないことだろう。


 彼女は俺の誤解をわかりやすいかたちで解いた。あの言葉が方便でも何でもなかったことを行動で示し、一本のレールを敷いた。俺はただそのレールに乗ればいい。そうすれば契約は果たされ、恋愛とは別の地平で俺は彼女と結ばれることになる。


 契約――明後日の舞台本番を限りに解除される契約。その契約に基づいて俺がキリコさんを抱けるのは今日か明日しかない。


 それを思えば身体の中心に黒い炎が巻き起こるのがわかる。聖人でも君子でもない俺にとって、心から好みだと思える女を自分のものにできる機会をやり過ごすのはほとんど拷問に近い。


 ……けれども俺にはわからない。キリコさんがなぜ今になってそんな道を提示したのか、俺にはそれがどうしてもわからない。


 今朝、俺がキリコさんを拒んだもうひとつの、そして最大の理由――俺が彼女を抱けば、そこで今回の舞台は終わる。間違いなく終わる。


 理屈でも直感でもなく絶対にそうなる。そんなことは火を見るより明らかで、それはキリコさんもわかっているはずだ。昨日のアイネにしても恐らくはそれが理由で――


 ふとアイネのことを考える。明らかに普通ではなかったアイネの振舞いを思い浮かべ、あれはいったい何だったのかと考えようとする。だがアイネの姿はすぐに立ち消え、黎明の薄明かりのなか目にしたキリコさんの姿――ぼうっと光をおびたような艶めかしい裸の身体がまた頭に舞い戻ってくる。


 そして、俺はまた彼女のことを考え始める。振り出しに戻ったことを確認したあと、出口のない迷路をまたぐるぐると回り始める。


「……」


 ――穏やかな風が吹き抜けていった。


 木の葉々がかすかにざわめき、木漏れ日が地面に描く光彩が揺らいで見えた。陽射しはもう充分に強く、大気はじっとしていても汗ばむほとの熱をはらんでいる。


 もう夏だった。疑いのない夏が、そこにはあった。


 ……けれども、俺は何も感じなかった。ようやく訪れた夏の景色を、ただとしてしか眺めることができない自分がいた。


 そう……俺はそれを実感できない。身体の中から現実感というものが抜け落ちてしまったようで、舞台の本番が明後日ということすらまともに実感することができない。


 明後日に迫る舞台を実感できない――それが恐ろしいことだとは理解できる。客観的に考えて恐ろしいことだと理屈では理解できるが、思考も感情も、そこから先へは一歩も進もうとしない。


 ……まるで夢を見ているようだと思う。その夢が悪夢だということは、何となくわかる。そしてその悪夢が、覚めて初めて深い絶望を与える類のものであることも――


「……?」


 不意に影が差した。頭をあげると木陰の外、庭園の日溜まりに着物の少女が立っていた。――クララだった。


「――こんにちは」


 ほとんど無意識に俺は挨拶した。クララはそれには応えず、しばらくその姿勢でじっと俺を見つめていた。


 憔悴してベンチに項垂れる男を、あでやかな着物の少女が黙って見つめている――傍目に見れば奇妙な光景に違いなかった。だが現実感を失った俺の心にその光景はむしろ自然なもののように感じられた。


 しばらく俺たちは無言のまま見つめ合っていた。だが、やがて彼女の方で口を開いた。


「お隣よろしいですか?」


「え? ……ああ、もちろん」


 俺がそう返すとクララは静かに歩み寄って俺の隣に腰かけ、そうしてまた黙ってしまった。


 事態がよく掴めないまま、俺も彼女に倣い沈黙を守った。彼女はどうしてここへ来て、なぜ黙っているのだろう――少しだけそう考えたが、それも長くは続かなかった。


「苦しそうですね」


「え?」


 出し抜けに告げられた意外な台詞に、俺は思わずクララを見た。彼女は怒りとも悲しみともつかない複雑な表情で、陽光に溢れる庭園の景色を眺めていた。


「とても苦しそう」


「……そう見えるかな」


 俺がそう言うとクララは小さく頷いた。さらさらと流れる髪がいっそう優雅に人形じみて見え、俺の中で現実感がまた少し薄まった気がした。


「……それが、あまり苦しくもないんだ」


「そんなはずはありません」


「いや、本当に苦しくない。……でもまあ、そうだな。あえて言えば――苦しくないことが苦しい」


 そこでクララはこちらに顔を向け、さっきと同じ怒りとも悲しみともつかない目で俺を見た。どうして彼女がそんな表情をするのかわからなかった。


 だがなぜだろう、そんな顔をするクララに俺は親しみのようなものを感じた。こうして抱えている悩みをわずかでも彼女に聞いてもらいたいと、ふとそんなことを考えている自分に気づいた。


「クララが言うように、俺は本当は苦しいんだと思う。でもどういうわけか、今の俺にはその苦しみが感じられないんだ」


「……」


「苦しみだけじゃない。変なこと言うようだけど、こうしてクララと喋っていても実感がない。現実に喋っているという感覚がなくて、まるでこれが夢の中の出来事のような、そんな気がする」


「麻酔みたいなものですか」


「え? ああ……そうかも」


 適当にそんな相槌を返しながらも、その麻酔という表現に妙に納得させられるものがあった。


 苦しみを苦しみと感じられず、あらゆる現実感が希薄な今の俺は、ちょうど麻酔にかかっているような状態なのかも知れない――まじめにそう思った。


「……どうやらそうみたいだ。俺は麻酔にかかっている。知らないうちにどこかで麻酔をかけられて……だから苦しいはずなのに、その苦しみが感じられない」


「麻酔がきれたあと、大変ですね」


「……それまでにどうにかして治すしかないだろうな」


「その見込みはあるんですか?」


 不躾とも思えるクララの問いに心の中で苦笑した。そんな見込みなどあるわけがない。そう返事を返そうとして――俺はその返事を返すことができなかった。


 気がつけば俺はさっきまでさまよい続けていた迷路の一角に引き戻されていた。


 事態はもうどうしようもないところまで来ているのに、自分はそれに対して無為に手をこまねいている――そんな現実を突きつけられた思いだった。


 結局はそういうことだ……彼女に聞いてもらったところで何も変わりはしない。そんな諦めを胸に刻んで、俺はまたその迷路に一歩を踏み出しかけた。


「聞かないんですね」


「え?」


「兄のことです。真っ先に聞かれると思ってました」


「……」


 彼女が口にした言葉の意味を考え、しばらくかかったが俺はそれを理解した。


 そして、時間遅れで深い絶望を覚えた。


 ……正確には自分の心が絶望的といえるほどに参っていることを思い知らされた。妹であるクララに隊長のことを聞きもせず、こんな不毛な会話に興じている俺は本当に終わっている。そしてそれほどの現実を突きつけられてなお……俺の心は不安も焦燥も感じようとはしない。


「どうも大切なものが、俺の中で死にかけてるみたいだ」


「演劇のことですか?」


「それもあるけど……きっとそれだけじゃないと思う」


 そう言って俺は庭園の景色を眺めた。初夏の陽光の下に揺れる深い緑が俺の目を射た。


 ――怒りを覚えるべき場面だということはわかった。大切なものをどこかに置き忘れた自分自身に対して、俺は怒りを覚えなければならない。


 両手で両膝を力いっぱい掴んだ。奥歯を噛みしめ、ぎりぎりと音を立てて歯ぎしりした。……そして俺は自分がまったく滑稽な演技をしていることに気づいた。怒りを感じられない自分に当てつけるような、まるで実感のこもらない最低の演技――


「苦しそうですね」


 その一言に引き戻されてクララに視線を戻した。彼女はもうさっきの複雑な表情ではなく、はっきりと哀れみを宿した眼差しで俺を見ていた。


「……そんなに苦しそうに見える?」


「ええ」


「さっき言った通りだよ。俺は苦しくなんてない」


「麻酔はもうすぐきれますよ」


「……だから、きれる前に」


「見込みはあるんですか?」


「……」


「その見込みはあるんですか?」


 容赦のないクララの言葉が俺の胸をえぐった。麻酔はまだ効いている。それでもなお、その麻酔に感覚を失った感情の奥底にかすかな痛みが走るのを感じた。


 鈍麻した感覚から顔を覗かせるその痛みは錐のように細く鋭く、その裏にある、感じることができない痛みの大きさを思って、俺はいよいよ自分が追いつめられていることを理解した。


「……どうして、そんなにいじめるんだ?」


「質問しているのは私です。答えてください、見込みはないのでしょう?」


「そうかもしれない。でも――」


 そんな見込みなどあるわけがない。けれども俺はその先を口にできなかった。なぜ口にできないか理由を探そうとし……だが理由は探すまでもなかった。


「はっきりそう言ったら、自分でそれを認めることになる。だからその質問には答えられない」


 クララにそう返事をしてしまってから、自分がどうしようもなく愚かな回答を口にしたことに気づいた。……これでは見込みはないとはっきり言っているのと同じだ。自嘲の笑いと溜息が同時に漏れた。そんな俺の横で、クララはおもむろにベンチから立ちあがった。


「……?」


 ぼんやりと見つめる俺の前でクララは着物の袂に手を差し入れた。再び出てきた彼女の手には異様なものが握られていた。


 ――紛れもない、それは拳銃だった。


 俺の見ている前で彼女はその撃鉄を起こし、銃口を生い茂る緑の天井に向け、真っ直ぐに腕を伸ばした。


 ぱぁん――


 乾いた音とともに、小鳥たちが一斉に飛び立った。一呼吸遅れて、葉のついたままの細い枝が小さな音を立てて地面に落ちた。


 銃口から白い煙が立ち上るのが見え、濃い硝煙の臭いが鼻をうがった。あまりに突然の展開に俺は息を呑み、瞬きを忘れて見入った。


 どれだけ経ったのだろう。あるいはほんの短い時間だったのかも知れない。クララは俺に向きなおると、拳銃を持つ手をこちらに差し出した。ほとんど何も考えられないまま手を伸ばし、俺は銃を受けとった。


「その銃をよく見てください」


 ……言われるままに俺は銃を観察した。S&Wの刻印が入ったリボルバーだった。少し小振りだがピースメイカーのように見える。黒い銃身はまだ熱を持ち、さっきのあれがまやかしでなかったことを証明していた。ずっしりと重い鉄の塊。今まで目にしてきたモデルガンとは何もかも違う。


「……本物の銃か」


 そう呟いて俺はクララに視線を向けた。だが彼女は小さく頭を振り、「もっとよく見てください」と言った。言葉に従って俺は拳銃に視線を戻した。


 ……使いこまれた銃だと思った。銃身には無数の傷が浮き、木製のグリップはほどよく摩滅している。硝煙の臭いもしっかりと馴染んでいるようだ。実銃を手にするのは初めてだったが、その銃が長く使われてきたものだということは何となくわかった。


 そう思い、俺は改めて戦慄を覚えた。これは本物の銃なのだ。どうしてそんな代物がここにあるのかわからないし、まだ半分信じられない気持ちでいる。だが実際にクララは俺の目の前で発砲して見せた。


 ……不用意に扱うのは危険すぎる。たとえその気はなくても何かの拍子に火を噴いて人の命を奪いかねない。弾さえ入っていれば撃鉄をあげ引金を絞るだけで誰にでも使える、簡単で便利な殺人のための道具なのだ。


「……?」


 そこで、俺は奇妙なことに気づいた。シリンダーには一発の弾も入っていなかった。それは別に不思議でもない。けれどもそこにはあるはずのものがなかった。銃身から一つずれた穴はどちらも空っぽだった。


「気がつきましたか」


「これは……どういうことだ?」


 空の薬莢がなかった。クララが撃ってから一部始終を俺は見ていた。その間に取り出した様子はなかったから、当然まだシリンダーの穴に収まっているはずだった。だが空の薬莢はどこにもなかった。


 混乱する俺の手からクララは拳銃を取りあげた。そしてさっきのように木の茂みに向けて構え、滑らかな手つきで撃鉄を起こした。


 ぱぁん――


 響くはずのない銃声が響き、銃口から閃光が走った。


 そこで俺は我に返った。慌てて周囲を見まわし、庭園に誰もいないことを確認した。校舎の窓もすべて閉じられたままだった。「心配しなくても大丈夫です」というクララの声が聞こえた。


「……え?」


「見ての通り、この銃に弾はいりません」


 そう言って差し出してくる銃を、俺はまた無意識のうちに受けとった。銃身ははっきりと熱かった。まだわずかに銃口から煙が漏れているような気さえした。


「麻酔をきらさずに済む方法が一つだけあります」


「え?」


「麻酔がきれる前に、その銃で自分を撃ってください」


「……」


「そうすれば、麻酔をきらさずに済みます」


 俺は呆然とクララを見つめた。彼女が何を言ったのか、俺に何を伝えようとしたのかわからなかった。


 それきり彼女は何も言わなかった。またさっきの怒りとも悲しみともつかない目でしばらく俺を見つめたあと、おもむろに振り返り、もう役目を終えたとばかりに俺の目の前から歩き去ろうとした。


「……待てよ」


 彼女は待たない。炎天に灼かれる庭園をその出口に向け歩いていってしまう。


「待てって! ……自殺でもしろってのか?」


 そこでクララは立ち止まり、頭だけこちらに振り返った。整った顔に曖昧な笑みを浮かべ、どこか蔑むような調子で独り言のように言った。


「弾の入ってない銃で、どうして自殺なんてできるんですか?」


「……」


「頭か、でなければ心臓を撃ってください。この茶番に幕が引きたければ。……あなたにはその権利があります。今回ばかりは、あたしはあの人のやり方に賛成できない」


 そう言ってクララは再び歩き出そうとし、けれども何かに気づいたようにもう一度こちらを見た。


「それと……忘れていましたが、兄からの言伝があります」


「――隊長は、何て?」


「『やり残しがないように』とのことです。『心にかかるものは舞台までにすべて片づけておくように』と」


「何をそんな……当然のことを今さら」


「言伝はそれだけです。それでは、失礼します」


 クララは軽く一礼してこちらに背を向けた。もう俺に引き留める言葉はなかった。それでも最後に、一つだけ聞いておきたいことがあった。


「……舞台には来るって言ってたよな」


 問いかけに彼女は立ち止まらなかった。こちらに振り返ることさえせず、それでもよく透る声ではっきり回答した。


「はい、それは請け合います」


 クララが行ってしまったあと、俺の手には硝煙の臭いのするリボルバーが残った。その冷たい鉄の塊を眺めながら、彼女は結局ここに何をしに来たのだろうと、まだ混乱の抜けない頭で取り留めもなく考えた。

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