130 麻酔(2)
――かちゃかちゃという食器の音がひとしきり響いた。もうどの皿も空きかけているが、俺たちは二人ともフォークを置こうとしない。
満ち足りた朝食は平和のうちに終わろうとしている。だがその平和が仮初めのものであることを、たぶん二人とも知っている。
「効いたみたいですね、あの薬」
唐突な俺の言葉に、キリコさんからは何の反応もなかった。彼女の方でもあえてその話題を避けていたことがそれでわかった。キリコさんの返事を待たずに、俺は続けた。
「と言うか、効きすぎじゃないですか? あんなに血が出たのに傷痕も残ってないし」
「……なんだい、やっぱり見たんじゃないか」
責めるようにそう言うキリコさんの視線は、けれどもテーブルの上の空いた皿から離れない。それが理由で俺の心に、朝食前の罪悪感は蘇ってはこなかった。
「見ましたよ、それは。昨日あんなことがあったのに、見ないわけない」
「さっきは見てないなんて言ったくせにねえ。あんな姿を見られちゃ、もうお嫁にいけないよ。ハイジに責任とってもらうしかないね」
「茶化さないでください。まじめに聞いているんです。教えてくれませんか……あの薬、いったい何なんですか?」
真剣な俺の問いかけにキリコさんはしばらく沈黙した。だがやがておもむろに立ちあがると寝台に歩み寄り、そこにもたせかけられていた手提げを手に取って、またテーブルに戻ってきた。
「薬ってのは、これのことだね」
そう言いながらキリコさんは手提げを探り、中から小さな瓶を取り出してテーブルに置いた。
「見せてもらっていいですか?」
「ああ。でも何でもないときに飲んだら副作用とかあるかも知れないよ?」
「まさか、飲んだりしませんよ」
俺は瓶を取りあげ、目の前にかざした。小さく振ってみる――からからと乾いた音がした。中に入っているのは白いカプセルに包まれた何の変哲もない薬剤だった。まだ二十錠は残っているだろうか。
瓶の蓋を開けようとして、やはりそれは止めておいた。取り出して臭いを嗅いだところで、これ以上なにがわかるとも思えない。
「いったいどんな薬なんですか、これは」
「さあね、あたしもよくは知らないんだ」
「焦らさないでください」
「何も焦らしてなんかいないよ。本当に知らないんだ。もらい物だからさ」
「もらい物?」
「ああ、もらったんだよ。つい二日ほど前に……あの男からね」
それだけ言ってキリコさんは黙った。いきおい俺もそれに倣った。
あの男というのが隊長のことであるのは聞くまでもなかったが、テーブルの上に置かれたこの薬と隊長とはどうもうまく結びつかない。そんな俺の考えを察したかのように、キリコさんがまた口を開いた。
「一昨日のこと……覚えてるかい? あいつが勝手な演説たれて、それにあたしが切れて小屋を出ただろ」
「覚えてますよ、もちろん」
「あのときだよ。ハイジが連れ戻しにきてくれる前にあの男と一悶着あって、そこでこいつをもらったのさ」
キリコさんはそう言って大きな溜息をついた。だが俺にはそれで一層わけがわからなくなった。
「あの状況で……どうして薬が出てくるんですか?」
「ああ、ごめんよ。順を追って話さないといけなかったね。――小屋を出てから、雨の通りを傘なしでばかみたいに歩いたんだ。もうこのまま帰ってやろうと思ってさ。そしたらいくらも歩かないうちに、あいつが後ろから声をかけてきた」
「……何て言って?」
「よく覚えてないよ。なにせ頭のなか真っ白だったからね。あいつに何か言われて、罵倒で返したことだけは覚えてるけど、どんな内容だったかは、もう忘れた」
「そのやりとりの中でこの薬をもらった……と」
「ああ、そこだけは少し覚えてるよ。そのよくわからないやりとりの終わりに、あいつはこう言ってこの薬を差し出したんだ。『これから君の身に何かあったとき、この薬を飲むといい』ってね」
そこまで言われても俺にはまだ事情がよく飲みこめなかった。沈黙する俺に、キリコさんは苛立ちの表情で頭の裏を掻いた。
「ああ、たしかによくわからないと思うよ。なにせあたしですらよくわからないんだから。とにかくそこであいつからこの薬を受けとったんだよ。……本当は受けとる気なかったんだけどね」
「……? どういうことですか?」
「突っ返そうと思ったし、実際にそうしたはずだったんだよ。けど次の日に見たらこの手提げの中に入ってたんだ。……不思議なこともあるもんだろ?」
そう言って目を伏せる彼女に、俺は言葉を返せなかった。たしかに不思議なことには違いなかった。けれどもここ数日に限って言えば……それは取り立てて不思議なことでもない。
「まあ、かさ張るものでもないし、そのまま捨てずに入れておいたんだけど……あとはハイジも知ってる通りさ。まったく何がどうなってんだか、本当にわかりゃしないね」
そこまで言ったあと、キリコさんは何を思ってか瓶の蓋を開けた。そしてテーブルの隅に重ねられていたまだ使っていない小皿を一枚とると、瓶の中に入っていた薬を半分ほどからからとその小皿にあけ、俺の前に置いた。
「何ですか……これは?」
「半分わけとくよ、一応」
「俺の分、ってことですか?」
「そういうこと。次はハイジが撃たれないとも限らないしね」
「勘弁してくださいよ……」
軽く笑いながら俺はそう返した。けれども心の中ではひやりとした悪寒のようなものを感じていた。
そう……その可能性はあるのだ。キリコさんの言う通り、次は俺が撃たれないとも限らない。
――と、こちらに銃を向けて立つアイネの像が脳裏に蘇った。
その生々しいフラッシュバックを皮切りに、これまで考えないようにしていた昨夜の出来事が次々と頭に浮かんできた。
思いがけない銃声のあとに起こった、ありえない惨劇。うずくまるキリコさんの周りに広がる血の海と、それを何とも思わない様子で俺たちの前から姿を消したアイネ――
……あれはいったい何だったのだろう。そもそもあいつが手にしていたのは小道具のモデルガンではなかったのか。それなのにああなったということは、ひょっとして――
だがそれを口に出すことはさすがにはばかられた。
キリコさんは撃たれているのだ。あの舞台でアイネに撃たれ、実際に血を流したのは彼女なのだ。ショックを受けていないわけはない。そんな彼女を前に不確かな思い込みのようなことを口にするのは断じて避けなければならない。
ただ気になるのは、昨日のアイネのいなくなり方だった。あるいはこれでアイネもいなくなってしまったということなのだろうか。ふとそんなことを思い――目の前が真っ暗になるのを感じた。
もしそうだとすれば、日曜の公演はいよいよ絶望的になる。俺とキリコさん二人きりで、いったい何をどうすればいいというのだろう――
「……お弁当がついてるよ」
「え?」
「ほら、とってあげる」
言われて顔を向けるのと、彼女の唇が俺のそれに合わされるのとが同時だった。
何も考えられないまま、俺は自然にそのキスを受け容れた。ただ触れるだけのキスはしばらく続き、やがて彼女の方で唇を離した。
「……そんな顔しないでおくれ」
「……え?」
「悲しくなるからさ。……嫌ならもうしないよ」
キリコさんはそう言うと寂しそうに微笑んだ。その表情に俺はわけもない罪悪感のようなものを感じて、「嫌なわけない」と強い調子で返した。
キリコさんは一度テーブルに目を落とし、また俺に視線を戻した。そして再び、ゆっくりと唇を寄せてきた。
今度は互いに舌を絡めた。やがてキリコさんの腕が俺の首にまわされ、それに応えて俺は彼女の背に腕をまわした。そうして抱き合った姿勢のまま、俺たちは長いキスを続けた。
薄い布を隔てて、彼女の胸の先端が自分の同じあたりに触れていた。それが少しずつ硬くなっていくのを感じながら、このままキスを続ければ、確実に彼女を抱くことになると思った。
どちらかが手を引いて寝台までいき、そこで互いに服を脱がせ合ってまたキスをする。やがてもつれ合いながら、くすくすと笑い合い、手脚を絡ませ合いながら、初めからそうなることが決まっていたように俺たちはひとつに繋がる――
……想像に歯止めは利かなかった。限界はすぐに訪れた。俺のペニスはジーンズの下でもう痛いほどになっていたし、彼女を包むショーツの一部が周りより深い色に染まっていることもはっきりとわかった。
背筋にそってゆっくり指を動かすと、キリコさんの唇からこれまで聞いたことのない甘いあえぎが漏れた。その甘やかな声に彼女からの答えを得た思いで、俺はキリコさんの身体をゆったりと覆うTシャツの下に手を伸ばしかけた。
『恋愛でなければいいよ』
――啓示のように脳裏に浮かんだそれは、あのときのキリコさんの台詞だった。
俺は我に返り、とっさに彼女の身体から手を離した。
潤みきった二つの瞳がぼんやりと俺を見つめていた。その表情に……あのときの彼女の顔が重なって見えた。
『もしハイジがあたしをただ抱きたいなら、それには応えてあげられるよ』
どうしてかはわからない。けれども俺は追憶の中でそう告げるキリコさんに、堪らない寂しさを覚えた。
何によるものかはわからない……あるいは、寂しさとは違う何か別の感情だったのかも知れない。
だが俺の中で限界まで膨れあがっていた劣情は、それで一気に小さくなった。
「そろそろ時間です」
「……え?」
「朝練に間に合わなくなるから、そろそろ出ないと」
「……どうせ誰も来ないよ」
何を思ったのだろう。目を逸らしうつむくと、彼女はそんなことを言った。だがそれに構わず、俺はなおも続けた。
「発声は休んだら駄目だって、キリコさんもよくわかってるでしょう」
「……ここですればいいじゃないか」
「近所迷惑になりますよ。こんな朝早くから」
「息だけですればいいんだよ。発声は喉と腹筋の使い方を確認するだけだから、本当は息だけでいいんだ。教えなかったっけ?」
――それは俺が入団したての頃、彼女が実際に俺の腹に手をあてて懇切丁寧に教えてくれたことだった。
そのことを告げるキリコさんの声は徐々に小さくなり、最後には消え入りそうなものになった。……その理由が、俺にはわかる気がした。
「朝練に間に合わなくなるから、そろそろ出ないと」
さっきと同じ俺の言葉に、今度は小さな声で、「そうだね」とキリコさんは返した。
◇ ◇ ◇
二限開始の時刻を俺は一人、庭園で迎えた。
もちろん授業に出るつもりなどなく、十時四十五分という時刻に区切りとしての意義があったことをふと思い出しただけだ。
そう……この大学に通う学生であれば常識に近いそんなことを、俺はわざわざ思い出した。あと数日も経てばここの学生であったことさえ忘れているかも知れないと、割と真剣にそう思う自分がいる。
穏やかな風が吹き抜けていった。
木の葉々がかすかにざわめき、木漏れ日が地面に描く光彩が揺らいで見えた。陽射しはもう充分に強く、大気はじっとしていても汗ばむほどの熱をはらんでいる。
疑いのない夏景色だった。その夏景色の中にあって、俺はもう一時間以上も出口のない迷路をぐるぐると回り続けている。
結局、朝練には俺たちの他に誰も来なかった。
いつも通りの発声を済ませ、掛け合いを適当に流し、二人きりの朝練はまったく志気のあがらないままに終焉した。そのあとキリコさんは着替えると言っていったん家に帰り、俺には午後の仕込みが始まるまでの孤独な自由時間が与えられた。
その自由時間の頭を、俺は仲間たちとのコンタクトを試みるために使った。ただ俺はそうすることに何の期待も抱いていなかったし、結果もそれに見合ったものだった。
……つまりはそういうことだ。朝に漠然と感じた通り、ペーターと隊長に続いてアイネもどこかへいなくなってしまったのだ。
そうして仲間たちの不在を確認してしまったあと、俺は仕込みまでの長い時間を持て余すことになった。その時間を使って昨日や一昨日のように当たれる場所を当たってみるべきだと考えはしたが、そうするだけの気力が湧いてこなかった。
……何より、そんなことをしても仲間たちは決して見つからないという暗い確信が、俺をこの庭園のベンチに縛りつけていた。
アイネまでもが姿を消したことで、事態は最悪に近いものになった。現実問題、日曜の舞台はほとんど絶望的と言っていい。
だがおかしなことに、俺にはその実感がない。自分の置かれたこの窮状に、何も切迫したものを感じることができない。
午後の仕込みはDJを交えてのもので、照明や音響の設定を細かく詰めることになっている。隊長がいない以上、その指示は俺が出すしかないが、はっきり言ってうまくいくとは思えない。俺が確認にまわれば舞台に立つ人間はキリコさんだけになる。それでは無駄に時間ばかりかかるし、どうしても調整できない場所も出てくる。
DJのこともある。普段は陽気なお調子者だが、こと舞台に関してあいつは酷く真剣な考えを持っている。隊長たちがいなくなった経緯はきちんと説明する必要があるし、たとえそうしたとしても面倒なことになるかも知れないという予感がある。
……前途多難を絵に描いたような状況だった。正直、どこから手をつけていいかさえわからない。
ひとつだけたしかなのは、半年をかけてひたむきに取り組んできた舞台の御破算がすぐ目の前に迫っているということだ。けれどもその事実を前に俺は、何ら不安めいたものを感じることができないでいる。
そう……恐ろしいことに、俺は今の状況に不安を感じていない。
不安を感じるべき状況に置かれているということを、まるで人事のように冷たい目で見ている。この状況に不安を感じないでいるのが恐ろしいというのもただ客観的にそう思うだけで、信じられないことに今の俺は日曜の舞台をどうでもいいもののように感じている。
俺は今、舞台のことを考えていない。その代わりにいつの間にか迷い込んでしまった迷路――深く入り組んだ出口のない迷路をさまよっている。
――それは、キリコさんという名の迷路だった。
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