129 麻酔(1)

「――そういうことならハイジだね」


「え?」


「たった今からあんたはハイジ」


「は?」


「小屋の屋根裏に住んでるんだろ? だったらハイジじゃないか。どうだい隊長、なかなかいいコードだとは思わないかい?」


「さっきも言った通りだ。その件に関しては君に一任する」


「ってことだ。隊長のお墨つきもいただいたし、ハイジに決まりだね。……あ、店員さんビールの中瓶もう一本お願い」


「彼女が住んでたのはたしか屋根裏じゃなかったような……。と言うかそれ、どう考えても女の子の名前じゃないすか」


「なに言ってんだい。名前の性差なんてもうあってないようなものさ。どっちにつけてもいい名前だっていっぱいあるだろ? カオルだとかシズカだとか」


「そりゃまあ、そうですけど……」


「だいたいあたしのコードだってそうだよ。キリコってのはどこぞの国では男の呼び名だからね。その手の中性的なコードは、いわばヒステリカの伝統ってことになるかね」


「……と言うことは俺、明日からその名前で呼ばれるってことですか?」


「って聞いてるよ? こういうときの模範回答はどうだったかね? 隊長さん」


「ヒステリカの団員同士は、互いの呼称として原則的にコードを用いる。その原則は練習の場のみならず、日常の会話に至るまで広範に適用される」


「ということは……つまり」


「そう――つまり今からあんたは大学でも町中まちなかでも、世界中どこへ行ってもハイジってことだね」


「町中でハイジ……いや、大学は余計に。……ちょっと待ってくれませんか」


「なんだい。あたしがつけたコードが気に入らないってのかい?」


「気に入らないって言うか、その……気に入らないんですが」


「ああ、酷い! 酷いったらないね! あたしが苦吟に苦吟を重ねて、やっとの思いで考えたコードを! ヒステリカの次代を担ってほしいという願いと、誰にも負けない役者になれという励ましの気持ちをこめた、おまけにちょっぴり愛らしいイメージさえある完璧なコードを!」


「いや……その最後のおまけが問題というか」


「駄目だね、もうハイジに決めた。たった今からあんたはハイジ。ねえハイジ、ちょっとそこの醤油とって」


「待ってくださいって……。俺に拒否権とかないんですか?」


「って聞いてるけど、どう答えればいいんだい? 隊長」


「さっきも言った通り、その件に関しては君に一任する」


「というわけで、拒否権はなし」


「……まじでハイジすか?」


「まじに決まってるだろ。はい、決定! あんたのコードはハイジに決定! さあその中身あけて。それから、ついで……。それじゃ改めて、ハイジに乾杯――」


◇ ◇ ◇


 ――薄目を開けて眺める部屋はほの暗かった。


 俺は寝台に半身を起こし、呆然と辺りを見まわした。懐かしい思い出を写した夢の余韻は、そのぼんやりとした闇にゆっくり溶けていった。


 ……雨はまだ止まないのだろうか。そう思いながら目を遣った窓には、うっすらと染まりゆく夜明けの空が覗いていた。その窓越しに小鳥たちの鳴き声も聞こえた。もう雨はあがっていて、ただ時間が早いだけなのだと、それでわかった。


「……四時か」


 時計を見れば起床には早すぎる時間だった。こんな早くに起きてしまった理由を探そうとして――少しも考えないうちにその理由に思い至った。


 ……どういうわけか俺は上半身裸だった。下はちゃんとジーンズを履いているが、上には何も着ていない。こんな格好で眠れば早く起きるのは当たり前だし、下手をすれば風邪を引きかねない。それにしてもなぜこんな格好で寝ていたのだろう……。


 ――隣に横たわる人の息づかいを感じたのは、そう考え始めた矢先だった。


「……」


 狭い寝台の上、俺のすぐ隣にキリコさんの身体があった。窓からの淡い黎明の光が、その身体の線を曖昧に浮かびあがらせていた。


 気取りのない薄緑のショーツ一枚。彼女の身体を覆っているのはわずかにそれだけで、ほとんど裸と言ってよかった。けれども寝起きのためか……あるいは別の理由によってか、その情景を前に俺はあまり驚きを感じなかった。


 夢の続きを見るような思いで俺はぼんやりとそのキリコさんの身体を見つめた。


 こちらに向けられた二つの乳房は互いに寄り添い合い、間に長く深い谷間をつくっていた。その先端には少し大きめの乳首が、生まれたての朝陽を受けうっすらと光って見えた。穏やかに上下する腹と、その脇にたおやかなくびれをつくる腰、長く延びる脚先まで――抜けるように白いその肌には染みひとつなかった。


 初めて目にするキリコさんの身体を、俺は純粋に綺麗だと思った。そう思う心の裏で、その身体がただ綺麗という言葉では片づけられないものであることも感じていた。


 綺麗という言葉よりもっと……女の性を匂わせる形容が相応しいと、頭の覚めた部分でそう考えてはいた。だが残り大部分のまだ覚めていない頭に、彼女の身体はただ純粋に綺麗なものに映った。


「……どうして、こうなっているんだろな」


 自然とそんな独り言が口からこぼれた。目が覚めて隣にキリコさんが寝ているというのは事件に違いなかった。


 俺がこの格好、そして彼女がでひとつ寝台に朝を迎えたということは、状況証拠としては揃いすぎている。昨日、俺はこの人を抱いたのだろうか……もしそうだとすれば事件も事件だが、そのあたりの記憶が一向に浮かんでこない。記憶が飛ぶほど酔った覚えもない。キリコさんと一緒に飲んだのは月曜で、今日はたしか金曜……。


 そこまで考えて――俺はようやく昨夜の出来事を思い出した。


「……!」


 改めて彼女の身体を見た。こちらに向けられた二つの乳房と、そこからショーツに潜るまでのなだらかな起伏を、さっきとはまったく別の目で見つめた。


 だがやはり……そこにはなかった。さっき眺めていたときと同じようにそこには染みひとつなかった。昨夜あれだけの血を流した銃創らしきものはどこにもなく、そのかすかな痕さえ、彼女の身体には見当たらなかった。


「……ん」


 不意にキリコさんがうめいた。眉の間にしわをつくり、小さく身体を震わせる。それから右手で闇雲に何かを探すような仕草をした。


 その手が何を探しているかはすぐにわかった。俺は寝台から落ちて丸まっていたタオルケットを拾いあげ、両端を持って広げたあと、それをそっと彼女の身体にかけた。


「ん……」


 もう一度小さくうめいて、キリコさんはしかめていた眉を元に戻した。そしてまた穏やかで平和そのものの寝息を立て始めた。


 そんな彼女の寝顔に、さっきとはまるで違うあどけない印象を覚えて、俺は今日一番となる軽い溜息をついた。


 時計を見た。まだ朝練までだいぶ時間があった。それを確認したあと、二人分の朝食を作るため俺は静かに階段を下った。


◇ ◇ ◇


 それから三十分後。朝食の支度もあらかた調ったところでキリコさんはようやく目覚めた。


「……おはよう」


「おはようございます」


「……何だかいい匂いがするね」


「簡単に朝食つくりましたんで」


「やれやれ……気を利かせてくれたんだろうけど、女の面目丸潰れじゃないか」


 そう言ってキリコさんは半身を起こし、あくびをしながら大きく伸びをした。そして気怠そうに髪に手をあてたあと、おもむろに寝台から立ちあがった。


「……!」


 窓からの日射しはもう充分に強いものになっている。その光の中にさらけ出される目映いばかりの裸身を前に、俺は堪らず目を逸らした。


「ちょ……キリコさん、格好」


「え? ああ、ごめんごめん」


 俺の指摘でキリコさんは下を向き、そこで初めて自分の格好に気づいたようだった。それでも別にうろたえる様子はなく、ゆったりした足どりで寝台に戻ると、さっきまでかぶっていたタオルケットを身体に巻きつけた。


「……そんな目で見ないでおくれよ。仕方ないだろ。この格好で寝てたんだからさ」


「……と言うか、何だってまたそんな格好で寝てたんですか」


「なに言ってんだよ。昨日ここへのぼってくるときにハイジが脱がせたんじゃないか」


「え?」


「血まみれの服じゃ寝かせられないって言ってさ。手際よく脱がせて洗濯機に漬けてくれたこと、覚えてないのかい?」


 逆に訝しむような表情でキリコさんは尋ねてきた。


 ……俺にはうまく思い出せなかったが、言われてみればそんなことがあった気もする。あれから俺がキリコさんを起こしてここまで連れてきたというのなら、それは普通にありそうなことだった。


 そのとき一緒に脱いだと考えれば、俺が上半身裸で寝ていたことの説明もつく。しかしその場合、少なくとも彼女には着替えを用意するだろうし、俺は自分のためにクロゼットから寝袋を引き出すはずなのだが――


「それで。あたしはいつまでこうしてればいいんだい?」


「え? ああ、済みません」


 気怠げにタオルケットを身にまとうキリコさんの文句に、俺は慌てて立ちあがりかけ、けれどもそこで止まった。


「着る物って言っても、俺が着るような物しかないけど……」


「構やしないよ。どこかのパーティーに出るわけじゃなし……そうだね、大きめのTシャツ一枚貸してくれるかい?」


「ああはい、わかりました」


 注文を受けた俺は急ぎ足でクロゼットに向かった。衣装ケースを引き開けてすぐ、白い無地のTシャツが目についた。春先に商店街の福引きで当たった景品で、サイズが大きいこともあって今日までほとんど着ていないものだった。


「こんなのでいいですか?」


 一応、しわを伸ばしてから手渡すと、キリコさんはその場でタオルケットを取り去り、何も着けていない裸の上にその白のTシャツを無造作にかぶった。


「ありがと」


 短くそう告げてキリコさんは寝台から降り、伸びあがって大きなあくびをした。着たばかりのTシャツの裾に薄緑のショーツが覗いて見えた。


「下は……何を用意すればいいすか?」


「え? ああ、下はこのままでいいよ」


 きわどい格好を何とも思わないように、キリコさんはまったくいつも通りの調子でテーブルに向かい、椅子を引いて席についた。


「……いいわけないでしょ。目のやり場に困るじゃないすか」


「あたしは何も困らないよ。同じベッドで一夜を過ごしといて今さらだろ。それにどうせ、あたしが寝てる間に穴があくほど見たんじゃないのかい?」


 キリコさんはそう言って、よく見慣れた意地の悪い笑みを浮かべた。


「……見てませんて」


 反射的に俺は嘘をついた。そうして嘘をついてしまってから、実際にはキリコさんの言うように穴があくほど彼女の裸体を見つめていたことを思い出し、舌を切りとってしまいたくなるような自己嫌悪に駆られた。


 だがキリコさんはそんな俺にお構いなしに、自分の座っている隣の椅子をぽんぽんと軽く叩いた。


「そういうことなら、ここに座るんだね」


「え?」


「目のやり場に困るなら、ここに座りなよ。いつまでもそうしてると、せっかくの料理が冷えるじゃないか」


「ああ……はい」


 言われるままに俺はキリコさんの隣の席についた。そうして並んでみれば、たしかに俺の目には食卓と彼女の胸から上しか映らない。


 それでもまだいまいち釈然としない俺の横で、キリコさんは既にバゲットを千切りマーマレードジャムを塗り始めていた。……釈然としない思いをそのままに、俺も同じように籠の中のバゲットを手に取った。


「いつもこうなのかい?」


「え?」


 食べ始めてからしばらくの間、俺たちは会話もなく粛々と食事をとっていた。その沈黙を破ったのはキリコさんの方だった。


「朝食のことだよ。いつもこんな感じでちゃんと作ってるのかと思って」


 ジャムのついた指先を舐めてそう言ったあと、彼女はテーブルに並べられた料理をまじまじと眺めた。


 卵を三つ使ったスクランブルエッグ、サニーレタスのサラダ、ラビオリをコンソメで茹でた簡単なスープ――作った料理があるとすればそのくらいで、あとは出来合いのものばかりだった。それでも朝食には珍しい客を迎えて、いつになく皿数の多い食卓であることは間違いない。


「いつもはもっと簡単に済ませますよ。朝はとらない日も多いし」


「ふうん、そうかい。それにしちゃ堂に入ったもんじゃないか。これだけちゃんとした朝食は久し振りだよ」


「早くに起きて時間があったんで。料理は嫌いじゃないし」


「そう言えばそうだったね」


 一人でいるときは料理などしないが、人がいれば自然と作る気になる。半ばしきたりと化した練習のあとの会食では、アイネがバイト先の洋風デリから持ってくる期限の切れかかった総菜と、俺かペーターの手による料理が並ぶのが習慣になっていた。


 だからキリコさんが俺の料理を食べるのはこれが初めてではない。だがまじまじと料理を眺めて誉めるようなことは、あまりなかった気がする。……そうして考えてみれば、朝食はもとよりこの部屋に彼女と二人で食事をするのはこれが初めてだった。


「うん、美味しい。これなら上出来だね。あんたと結婚する女は幸せになれるよ」


「そんな安上がりな幸せで満足できるものでもないでしょう」


「わかってないねえ。その安上がりな幸せが大事なんじゃないか。そういうのを積み重ねていくことが女にとっては何よりの幸せなんだよ」


「そんなものですか」


「ああ、そんなものだね。そうだ、この際だからあたしと一緒になるってのはどうだい?」


 天気について尋ねるようなさりげない質問だった。


 思わず見てしまう俺に彼女は視線を返そうともせず、もうそんな質問など忘れたかのように、優雅な手つきでボウルからサラダを取り分けている。


 いかにも彼女らしいその調子に心の中で苦笑しながら――こんな毎朝を二人で過ごすのもいいと、まじめにそう思った。


「いいですよ」


「本当かい?」


「洗い物が嫌いなんで、そっち引き受けてくれるなら」


「ああ、それは無理だ。あたしも洗い物は大嫌いなんだよ」


「ならまあ、縁がなかったということで」


「……そんなんで断るのかい。あんまりじゃないか。生まれて初めてのプロポーズだったのにさ」


「嘘ですね、それは」


「嘘なわけないだろ。女の真心を疑うもんじゃないよ」


 そう言ってドレッシングの瓶を振る彼女に今度こそはっきりと俺は苦笑し、そこで会話は途切れた。

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