128 演劇における禁忌(5)

「……何を、言っている」


「なるほど、君も女だったということか。しかし、こともあろうに盗人が兵隊に懸想けそうとは、いやはや」


「何を言っている! すぐにその口を閉じろ!」


 ――そこで、俺は落ちた。銃を盗人に向けた棒立ちの姿勢で、演技を続けることも舞台を降りることもできず、文字通り立ち往生した。


「そもそもこんな盗人の戯言ざれごとに騙される貴官が悪いのだ」


「……え?」


「身の恥を晒せばこの盗人が奪っていったのは私の私的な手紙だ。そしてそれは私の中にある特別な感情――を書き綴ったものだった」


「……」


 振られても俺は反応できない。


 展開はまさに俺の恐れていた通りのものになり、しかもが外れたように暴走し始めている。茫然自失のままどうにもできないでいる俺の耳に、「出鱈目を言うな!」という盗人の絶叫が響いた。


「あの手紙はたしかにこの町を戦渦に突き落とすものだった! おまえはあの手紙で隣の国の干渉を引き出し、そして……」


「誰に宛てた手紙だった?」


「それは……!」


「具体的に何という国の、どういう立場の人間に宛て、どれほどの規模の、どういった干渉を引き出すための手紙だった?」


「……っ!」


「ほら、これが証拠だ。つまり今までの遣り取りは、すべて哀しい代理戦争のようなものだったわけだ」


「……」


「どこで火がついたのか知らないが、生憎だったな。おおかた茶番を続けていればこの男の気を引けるとでも考えたのだろう。だがこうなってしまった以上、奇跡でも起こらぬ限り君の思いは報われない。……もっともそれは、私についても言えることだが」


 開き直った顔でそう博士は告げた。そうして一瞬――ほんの一瞬だけ俺に視線を向けた。


「……!」


 その視線に、俺は小さく頬を張られた気がした。


 混乱の極みにあった頭に、ほんのかすかな理性の火が灯った。……キリコさんは落ちたのではない。まだ《博士》の演技を続けている。そして本来は禁忌とされる私情を劇に絡めて、一気に最後まで持っていこうとしている。


 はっきりとそれを理解し、俺は再び《兵隊》に戻るために歯を食いしばった。そんな俺の耳に、壊れたようなアイネの哄笑が響いた。


「あはははは……ははははは!」


 持ち直しかけていた俺はそれでまた落ちた。大口を開け、目に涙さえ浮かべて、可笑しくて堪らないといった様子でアイネは笑っていた。


 ……こんな彼女を見るのは初めてだった。舞台の中でも外でも、こんな風に笑うアイネを見たことはない。


 不意にその哄笑が止んだ――その直後だった。


「きゃ……!」


 一瞬、俺は耳を疑った。


 盗人の持つ銃のトリガーが引かれ、銃弾は至近距離で博士の腹部に当たった。だから博士が悲鳴をあげるのは演技として当然だったが、その声に重なって聞こえる音があった。


 ぱん、と空のバケツを棒で打つような音――本物の銃声のような音が、耳に届いたのだ。


 ……いや、ではない、それはたしかに銃声だった。俺の耳には、はっきりと銃声が聞こえた。


 苦悶の表情で腹部を押さえうずくまる博士の前で、盗人はおもむろに銃口をこちらに向けた。


「さあ、どうするの?」


「……」


「わたしを撃つ? あの女が苦し紛れに言った出鱈目を信じて。……それともその出鱈目を信じて、わたしの思いを受け容れてくれる?」


 熱を帯びた台詞だった。アイネも《盗人》の役から落ちていたわけではないことが、それでわかった。


 だがそこに至っても、俺は反応できなかった。《兵隊》として完全に落ちた俺は、この急速な展開にどう対処すればいいのか、見当もつかなかった。


 安っぽいガンアクションよろしく水平に銃を構える彼女は、けれども迫真の演技の最中にあった。応えないわけにはいかない。ほとんど必死の思いで俺は《兵隊》に戻ろうとした。


 ――板目に広がっていく赤黒い染みに気づいたのは、そのときだった。


「何だよ……これ」


「……これって?」


「床に広がってく……これだよ」


「……血に決まってるでしょ?」


「どうして、そんなものが……」


「当たり前じゃない。わたしがその女を撃ったんだから」


 アイネはそう言って冷淡な笑みを浮かべ、うずくまるキリコさんに目を遣った。


 噎せ返るような血の臭いが鼻に届いた。苦痛に歪むキリコさんの顔が蒼白に近くなっているのがわかった。その腹部から流れる血がつくる染みは、既にアイネの足下まで広がろうとしていた。


「撃ちたいなら、撃てば?」


 キリコさんから俺に視線を移して、アイネはそう言った。


 ……彼女の目にも血溜まりは見えたはずだった。立ち上る錆びた鉄の臭いは彼女の鼻にも届いているに違いない。それなのにアイネは冷静そのもので――今なお《盗人》の役を降りようとさえしない。


 俺は一言も発することができないまま、ただ彼女を見守った。


「……撃たないんだね」


 そう言ってアイネは、見たこともないような冷たい表情をつくった。


「あの手紙は返さない。ちゃんと出すべきとこに出す。……せいぜい手当してあげれば? たぶん、もう手遅れだと思うけど」


 それだけ言い捨てるとアイネは舞台を飛び降りた。通路を駆け抜け、荒々しく扉を開けて、言葉をかける間も与えないままに夜の町に飛び出していった。


「……っ……っ」


 かすかな呻き声で我に返った。転がるようにしてキリコさんに駆け寄り、その身体を抱き起こした。


「……大丈夫ですか! キリコさん!」


「……うん。まあ……ね」


 キリコさんはそう言って力なく微笑んだ。けれどもその顔は既に土気色で、口の端には血の泡さえ浮いていた。


 ……とても大丈夫ではなかった。救急車――ようやくその存在に思い至り立ち上がろうとする俺の腕を、キリコさんの手が意外な強さで掴んだ。


「駄目だって……救急車なんて、呼んだら」


「なに言ってるんすか! だってこんなに血が出て!」


「アイネちゃんを……犯罪者……に……する気かい?」


「それは! ……でも!」


「……それに、そんなことしたら……日曜日の……っ! 舞台が……駄目になるだろ」


「そんなこと言ってる場合じゃ――」


 そこで何を思ったか、キリコさんは掴んだ俺の手を自分の胸に持っていった。その柔らかい塊に、俺の右手の指が大きく沈み込んだ。


「……落ち着いたかい?」


「……俺はずっと落ち着いてます」


「落ち着いたら……上手の袖から……あたしの手提げを持ってきてくれる……かい?」


 そういってキリコさんは俺の手を離した。薄い布越しに柔らかく揺れる胸の奥には、彼女の心臓の鼓動がまだしっかりと感じられた。


 その鼓動が消えてしまうことを思い、俺はこのまま階段を駆け上がり電話に飛びつこうかとも考えた。だがそれでも俺は彼女の言いつけに従い、上手袖の暗がりに走った。


 見慣れた手提げはすぐに見つかった。引ったくるようにそれを取ると、すぐに彼女のもとへ戻った。


「……その中に、小さな瓶が……入ってると思うから、出して……」


 言われるままに手提げの中をまさぐった。硬い容器が手に触れ、取り出した。それは小さなガラスの瓶で、中には錠剤のようなものが、からからと乾いた音を立てていた。


「……それ、開けて……ちょうだい」


 蓋を開け手渡すと、キリコさんは中身の錠剤を無造作に手にあけた。そしてまるで薬物中毒者のようにそれを頬張り、噛み砕いて苦しそうに嚥下した。


「……水、持ってきますか?」


「いや……いい。今のあたし、みたいなのに水……飲ませるとどうなるか。ハイジも……知ってるだろ」


 そう言ってまたキリコさんは笑ったが、俺は笑うどころではなかった。失血して渇きを訴える者に水を飲ませれば――それはいわゆる末期の水になる。


 彼女の言うそれがただの冗談とは思えない。キリコさんは今、それほど危ない状態にあるのだ。もう一度、救急車という単語が頭にのぼった。だがそれを打ち消すように、「ふう」と小さな溜息が隣から聞こえた。


「これでもう、大丈夫」


「……なわけないでしょう」


「大丈夫だって……薬も飲んだし」


「……何なんですか、その薬」


「さあ……。あたしも……よく知らないよ。貰い物だから」


「そんな薬効くわけない。今からでも救急車――」


「呼んで……どうするんだい?」


 薄闇のホールにキリコさんの声が響いた。弱々しく掠れる小さな声は、だが立ち上がろうとする俺を思い留まらせるのに充分な強さを秘めていた。


「玩具の銃で……撃たれて、こんなに血が出ました……って、そう言うのかい?」


「でも……だからって」


「そんなのは、呼ばなくて……いいから、代わりに手……握っておくれ」


 そう言ってキリコさんは血まみれの右手を差し出した。俺は何も言わずそれを両手で包んだ。彼女はふっ、と微笑んだあと、糸が切れたようにその表情を消した。


 ――俺は声を失い、呼吸さえも止めた。けれどもそんな俺の耳に、ふと安らかな寝息が届いた。


「……キリコさん?」


 大きく胸を上下させて、キリコさんは眠っていた。……気絶したのではなく、本当に眠っているようだ。その証拠に彼女の表情は、さっきまでとは比べようもない落ち着いたものになっていた。


 ……こういう状態での睡眠がどんな意味を持つのか、俺にはわからなかった。もう一度、救急車を呼ぼうという思いが頭にのぼった。だが俺にはもう、キリコさんの意思に逆らってそうするだけの気力はなかった。


 キリコさんの右手に片手を繋いだまま、俺は彼女の頭のあるところに座る位置を移した。そして血の乾きかけた板目に脚を伸ばして、いつかのように腿にキリコさんの頭を載せた。


「……」


 そうして俺はホールの闇を見つめた。


 アイネが開けていった扉の向こうには、まだ絹のような雨が降っているようだった。……俺は何も考えられなかった。どうしてこうなってしまったのか、それを考えることさえできなかった。


 何もできず、しばらくそのままでいた。


 ――どれほど経ったのだろう。不意に思い出して時計を見た。二本の針はもうすぐ十時を指そうとしていた。


 キリコさんの頭を載せた脚はすっかり痺れ、先のほうはもう感覚がなくなっていた。赤黒く変色したブラウスの下で二つの胸はゆっくりと上下し、彼女がまだ生きていることを俺に教えてくれた。


「……ごめんね」


 そこでふと、キリコさんがそんな寝言を呟いた。その目尻にうっすらと涙が浮いているのを認め、空いている手の指先でそれを拭った。


 それだけ時間が経っても、俺は何も考えられないままでいた。


 最後まで通せなかった舞台のことも、消えてしまったアイネのことも、明日からのことも何ひとつ考えられなかった。


 そんな空っぽの頭の中で、寝言でキリコさんが誰に何を謝ったのか、一瞬そんなことを考えて――すぐに止めた。


 ……そしてそのあと、昼間にこの場所で彼女とキスしていたときのことが、なぜか頭に浮かんだ。溜息をつき頭を振っても、それは容易に頭から消えてはくれなかった。


 薄いブラウスに包まれたキリコさんの双丘は、今もたおやかに上下していた。その双丘をぼんやりと眺めながら、いつ終わるとも知れない自失の中に――あの甘やかなキスの記憶を、俺はいつまでも反芻し続けた。

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