127 演劇における禁忌(4)
「――つまり、キューを出すのは各自の判断ってことになる。あれもいつもみたいにはできないけど、逆に気持ちの切り替えはいつも以上に重要になってくるから、その辺にだけは気をつけて」
電球から落ちる飴色の明かりが周囲を淡く照らしている。その明かりの陰に、貼って間もない蛍光テープの場ミリがぼんやりと光っている。
上手、下手への小道具の振り分けも終わり、通し稽古の開始を十分後に控えた仮舞台で、俺は二人に向け最終の確認を伝えていた。
「さっきも言ったように、三人とも舞台にあがるのは切り札と考えること。流れによってはもちろんそれもありだけど、できるだけ避ける。舞台にあがっていない一人が効果の確認を出すのも忘れないように」
小屋に帰り着いたとき、キリコさんはさすがに元に戻っていたが、二人で入ってきた俺たちを迎える態度にはどこかよそよそしいものがあった。
公園では納得したような素振りを見せたアイネはアイネで、キリコさんとまともに目を合わせようとしない。そんな険悪を絵に描いたような雰囲気の中で俺にできることはひとつしかなかった。
「あと、三人とも舞台にあがってるときの確認は、基本的には俺が出すけど、もし忘れてるようなら気づいた人が出して。もっともそこらは本来、俺たちの仕事じゃないから、進行に影響がなければ出ないままでもいいと思う」
小屋に帰ってすぐ、俺は今日の通し稽古を三人で行うための段取りをつけた。
問題は舞台監督と役者の一人がいないことだったが、役者に関して答えは最初から出ていた。そもそも俺たちはこれまで――つまりはペーターが入ってくるまでの間、ずっとこの三人で演技をしてきたのだ。
残る舞台監督については難問だったが、とりあえず今日の通し稽古では効果の確認だけとれればどうにかなることに気づき、その確認を舞台にあがっていない一人が代行することで半ば乱暴に片づけた。
「最後の幕だけは、ちゃんと誰かが下ろす。それから大道具の転換も。手がないから代用品も動かせないけど、あることは意識していこう。下げ忘れに気づいたら場違いでも即興で対処する……のは言うまでもないか」
……たとえ不完全でも最後までやり遂げること。今日の通し稽古で最も重要な課題を、俺はそれだと思った。
ペーターは消え、隊長も来ない。残った三人の間も妙にぎくしゃくしたことになっている。ここで崩れたら本当に何もかも駄目になってしまう。それだけはわかる。
だが逆に今日の通しを最後までやり遂げることができれば――そんな思いが消えかけた蝋燭の炎のように胸に灯っている。……そう、消えかけてはいる、だがまだ消えてはいない。ひとつだけたしかなのは、俺たちに残された可能性は、もうそこにしかないということだ。
「……わかってると思うけど、もうあとがない。ただ昨日の練習もこの三人で、いつも以上にいい演技ができていたと俺は思ってる。あれを思い出して
時計を見た。控えに入る時間を考えれば、そろそろ説明を切りあげる頃合いだった。俺は頭の中に言い残した事項を探し、それがないことを確認したあと、締めの言葉を口にした。
「――説明は以上。何かある? あれば聞くけど」
反応を求め、改めてアイネとキリコさんに目を遣った。どういうわけか二人はほとんど瓜二つの神妙な面持ちでこちらを眺めていた。
その表情に何となく疑問を感じつつも、俺は内心そんな二人の様子に胸を撫で下ろす思いだった。当初の緊張をやり過ごすため、俺はつとめて事務的な態度で説明を行っていた。だが二人の表情を見るだに、その緊張は説明している間に折り合いがついたようだ。
「何もなければ控えに入ろう」
最後にそう言って袖に向かおうとする俺の耳に、「隊長みたい」というアイネの呟きが届いた。俺はぎょっとして彼女を振り返った。
「本当だね、まったく」
未だ神妙な顔つきで俺を見つめるアイネの横には、同意をしめすように頷くキリコさんの姿があった。
……二人が緊張を解いた理由が何となく理解できた。つまり俺はそれほど隊長に似ていたということだ。面食らう気持ちはあったが、それほど悪い気はしなかった。何よりこれでどうにか通し稽古が始められると思った。
「待って。ひとつだけ忘れてた」
袖に移りかけていた二人を今度は俺が呼びとめ、仮舞台の中央に引き戻した。そして右手の人差し指を親指にあてがい、それをアイネに突きつけた。
「アイネはキリコさん、キリコさんは俺」
その短い説明で二人にはわかったようだ。同じように指で輪を作り、標的となる額に近づける……準備は整った。
「3、2、1――」
合図に従い乱れもなく三人は額を弾き合った。最初で最後の、ヒステリカ伝統のキュー。そして俺たちは上手、下手の袖に捌け、分の悪い賭けにも似た通し稽古の控えに入った。
◇ ◇ ◇
だが、心配は杞憂だった。演技が始まってすぐ俺はそう思った。
入りは盗人が博士の手紙を盗み出す場面――盗人と博士の掛け合いからで、俺は取り決め通り舞台監督としてそれを客席から眺めた。流動的なヒステリカの舞台にあって、この最初の場面だけは固定されている。その重要な場面を、二人はいつになく気合いの乗った演技で見事にこなした。
舞台上に踊る二人を眺めながら俺は、何かと気を揉んで悲観的になっていた自分を情けなく感じた。
そう――こうでなくてはいけないのだ。
たとえどんな不安や葛藤を抱えこんでいても、額を指で弾かれた瞬間にそれを忘れ役に入りきる、それが俺たちヒステリカなのだ。今さらのように、俺はそれを思い出した。……いや、正直なところ、改めてそれを二人に教えられた思いだった。
舞台では盗人が退き、博士が呪いのこもった独白を始めた。アイネが階段を降りてくる入れ替わりに俺は逆の階段をのぼる。そして下手の袖に立ち、親指にかけた人差し指に精一杯の力をこめ、秘密裏に博士に呼ばれた兵隊になるために自分の額を指で弾いた――
中盤までの内容はほとんど非の打ち所のないものだった。
幕開から上々だった二人の演技は進行とともにその切れを増していくようで、引っ張られる形で俺もこれまでにない良い演技ができた。
もちろん、それが客観的に良い演技だったかはわからない。けれども俺は実にスムーズに、ひっかかりのない気持ちで役に入り込むことができた。とりもなおさず、それは俺にとって素晴らしい時間だった。このままずっとこの充実した舞台を続けていきたいとさえ思った。
そんな俺の心に不安が舞い戻ってきたのは、舞台も終盤に差しかかろうとするところだった。
「――あなたは間違ってる。あなたの役目はなに? この町に住む人々を守ることじゃないの? ……わたしはすべて知っている。あの女がしようとしていることがどんなに邪悪で薄汚いことか。あなたはそれでもあの女の言うことを聞くの? それがこの町に、取り返しのつかない厄災をもたらすものだったとしても?」
――発端は盗人が手紙に書かれた内容を読んだことだった。
それを契機に、芝居は大きく動いた。その手紙に書かれていたことが世を捨てた盗人にとっても無視できない深刻な内容だったという筋立てで、手紙をしろに金を求めるのではなく、その手紙をしかるべき場所に持ちこもうとする盗人を博士が阻止しようとする展開になったのだ。
これは今までにない話の筋だった。盗人が手紙を読むことは何度もあったが、その内容が取り沙汰されたことは一度もない。つまり、あらかじめ仕込んでおいたねたにはなかった展開で、本来は避けるべき、純粋な意味での即興が求められる流れになったのである。
けれども、問題はそんなところにあるのではなかった。
「貴官は忘れてはならないことを忘れている。兵卒は考えてはならない。それが軍隊における唯一絶対の原理だったのではないか? 戦場で兵卒が考え始めればどういうことになるか、貴官にもよくわかるはずだ。……だが私はあえて上官としてではなく一公人として貴官に頼みたい。ことは緊急を要する。これは広く国家の消長にかかわる重要な命令なのだ」
――問題は博士と盗人があからさまに衝突する流れになったことだ。
普段ならばまだしも今日の舞台においてその流れはかなり危険だった。俺の目には二人――とりわけアイネの演技の裏に、演じている役柄としての情動とは別の何かが垣間見える気がしてならなかった。
演劇における最大の
共演者に対する恨みや怒り、そして何より恋愛感情といった私的な感情を演技に込めるのは何より慎むべきことで、即興劇ではさらにその傾向が強い。そういう演技は決まって加速し、当人にとって良い演技のように思えてしまうだけに極めて危険なのだ。
口を酸っぱくしてそれを俺に教えてくれたのはキリコさんだった。アイネもそのあたりは充分よく理解しているはずだ。……にも関わらずこの二人は、その一番してはならないことに足を踏み入れようとしているように思える。……実際のところは違うのかも知れない。だが共に演じている俺は、どうしてもそのあたりを肌で感じてしまう。
兵隊としての俺は盗人から手紙の話を聞き、その真剣さに打たれて博士のもとへ談判に戻った。だがそこでも説得されると、再び盗人を捕らえる側にまわるという蝙蝠のようなことをしていた。まるっきり道化である。……もっとも本来の道化である愚者がおらず、他の二人にその気がない以上、兵隊である俺がその役割を引き受けること自体は間違っていない。
道化を演じながら俺は、冷めきった目で舞台を眺め続けた。もし二人のうちどちらかの演技が目に見えて滑ったとき、控えに入る前に心に刻んだ最後まで通すという誓いに背いてでも駄目を出すつもりでいた。
それでも、演技は滑らなかった。俺の目に、二人はぎりぎりのところで博士と盗人の役に踏みとどまっているように見えた。
物語はいよいよ佳境に入った。
博士は正式に軍隊の出動を要請し、その中で盗人のとった行動はすべて揉み消された。勝利を確信する博士に、盗人はまたも手紙と引き替えに最後の対決を挑む。どう考えても割に合わないその対決に博士は応じた。その場に潜んで盗人を狙撃するという卑劣な密命を、兵隊としての俺に与えて――
「……今さら逃げきれないことなどわかってる。ここでわたしがおまえに何を言おうと、もう手遅れだってことも」
「ならば何のために私をこんな場所まで呼び出した? 約束は守ったのだ、さあ手紙を返してくれ」
「あれはもう焼き捨てた」
「……何?」
「もういらなくなったから、ここへ来る前に焼き捨てた」
盗人はそう言って銃を持つ手をあげる。博士は狼狽しつつも、そこにはいない兵隊としての俺をうながすような仕草をする。
――だが俺は撃たない。正確には撃つことができない。
既に額を弾いて兵隊の役に入ったあとも、俺は袖から出られない。この先どちらの側に立ちどういう決着をつけるべきか……役者としてではなく兵隊としての俺が、今もってそれを決めかねていたのだ。
「……何をしている。早く撃て! 撃たないか!」
「言われなくても撃つ! おまえを撃ってわたしなりのけじめにする! どうしてそう逃げる! 自分で撃てと言ったんだ! 逃げるな!」
遂に博士は外聞もなく俺に狙撃を命じ、盗人の銃口を避けて逃げ惑う。盗人はそのあとを追い、もう何発もの銃弾を放っている。
銃声の効果の確認はない。けれども盗人が手にしたプラスチックの銃のトリガーを引き、その度に響く気の抜けたガスの音が、俺の耳にはまるで本物の銃声のように聞こえた。
「さあ鬼ごっこはこれで終わりだ。わたしはこれまで多くの物を盗んできた。けれどたったひとつ、人の命だけは盗まなかった。それを今はじめて盗む!」
そこに至ってようやく俺は舞台に進み出た。
驚愕の目で俺を見つめる盗人の持つ銃の先は、それでも博士の方を向いたまま動かない。俺は
「……銃を向ける先、間違ってると思うけど」
「……」
「あなたはこの女を止めに行ったんじゃないの?」
「いいから銃をおろせ、話はあとだ」
「うまく言いくるめられたわけ? ……情けない男。それともこの女の色香に惑わされでもしたの?」
――露骨な言い様に鳥肌が立つ思いがした。
あるいは舞台監督としてならこの時点で駄目を出していたかも知れない。けれども俺は必死になって舞台の外の自分を追いやった。
……アイネは今、あくまで盗人としてこの台詞を吐いている。そして俺はどう決着をつけるべきかもわからないまま舞台に躍り出た道化としての兵隊で、たとえどんな言葉を吐きかけられようともその役を演じ続けるしかない。
「国家の大事に関わることについて、盗人風情がどうこう言うのを信じた俺が間違いだった」
「それはあなたが考えたこと? それともこの女にそう言われたの?」
「そんなことはどうでもいい。……いいから早くその銃をおろせ」
「撃ちたいなら撃てば? わたしにはもう何もない。あとはこの女を撃ち殺して死ぬだけ。そうすればあの手紙に書かれたことも――」
「――やれやれ、君は嘘を言っている」
そこではじめて、銃口をつきつけられたままの博士が言葉を発した。そして続けざまにとんでもない台詞――俺が最も恐れていた爆弾にも似た言葉を口にした。
「君が本当に言いたいのはそんなことではないだろう? はっきり言えばいいではないか。君はその兵隊に特別な感情を抱いていると」
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