126 演劇における禁忌(3)
「……ん」
唇を合わせてすぐ、湿りきった彼女の吐息がその間から漏れた。
そのまま彼女の唇は、内側の柔らかい粘膜で俺のそれをついばむようにした。それでも俺がためらっていると、閉ざされた唇を舌先でつついた。それでようやく俺は唇を開き、彼女の舌は静かに中に入ってきた。
「……ん」
艶めかしい吐息が、今度は鼻から漏れた。彼女は薄く瞼を開き、熱に浮かされたような瞳で俺の目を見つめていた。
彼女の舌はゆっくりと俺の口内を動いた。唇の裏をなぞり、上顎を舐め、やがて退き戻って俺がそうするのを誘った。
そのまま俺たちはしばらく舌と舌を絡め合った。二人の唇の間からこぼれるかすかな水音が一頻りあたりに響いた。
――俺は何も考えなかった。温かく絡みついてくる彼女の舌だけがすべてで、そして彼女もまた同じであることが、自分のことのようにわかった。
俺たちは繋がっていた。その繋がりの心地よさと温もりの中に、忘れてはならないことを忘れているのだと思った。……だが俺はそこから逃れることはできなかった。そうしてもっと深く――もっとたしかな形で彼女と繋がりたいという思いが、胸の奥に燃えさかるのを抑えられなかった。
その気持ちが通じたのか、キリコさんの方から長く合わさったままでいた唇を離した。そして彼女は……キスを始める前よりもなおぼんやりとした、焦点の合わない蕩けたような瞳で俺を見つめた。
きぃ――
出し抜けに扉の開く音がし、俺は弾かれたようにそちらを見た。
半分まで開けられた扉からアイネが顔を覗かせていた。だが薄闇のうえ逆光のために表情はよく見えない。
咄嗟に考えたのは、扉が開いたのが唇を離したあとで良かったということだった。けれどもすぐに状況はそれほど生易しいものではないことに気づいた。中断して間もない濃厚なキスの余韻はまだあたりに漂っていた。アイネはそうしたことに鈍感そうに見えてその実、繊細と言えるほど尖った神経を持っているのを、俺は知っている。
必死に言葉を探した。沈黙が長引けば長引くだけ状況が悪化することは目に見えていた。だが焦るほどに思考は乱れ、適当な言葉にはいつまでもたどり着けなかった。そうして俺が一言も発せないまま、アイネの口がおもむろに動いた。
「――いい気なもんだね」
それだけ言うとアイネは外側から扉を閉めた。……閉ざされた扉を、俺はしばらく放心して眺めた。
けれどもすぐ我に返り、同時に状況が最悪のものになろうとしていることを悟った。アイネを追うために立ちあがろうとして――そんな俺の袖を引く手があった。
「あとでもいいじゃない」
「……え?」
俯き頭をあげないまま、俺のシャツの袖をしっかりと掴んでキリコさんはそう言った。俺には彼女が何を言っているのかわからなかった。
「どうせあとで会うんだし、続きしよ?」
そう言ってキリコさんは頭をあげ、視線を合わせてきた。それはさっきキスをしていたときそのままの、熱に浮かされたような眼差しだった。そしてその声は――昨日の練習で隊長を諭した、あの冷たい金属的な女声だった。
「……っ!」
俺はそこで理性を振り絞り、キリコさんの手を払い除けて立ちあがった。
小さな悲鳴があがった。だが俺は彼女を顧みず、通路を駆け抜けた。後ろ髪引かれる思いはあった。……その後ろ髪引くものが何かはっきりわからないまま、俺は小屋を飛び出した。
――アイネに追いつくまでにそれほどの時間はかからなかった。霧雨の中を傘もささず彼女は、商店街の通りを出口とは反対の方向に向かい歩いていた。
「アイネ」
その背中に俺は声をかけた。だが彼女は立ち止まらず、振り返りさえせずに歩き続けた。何度か声をかけ、それでも反応を見せない彼女の肩を掴もうとして、その手をしたたかに打たれた。
……さすがに反発を覚えたが、原因は自分にあるのだという負い目が俺の口をつぐませた。俺は性急な解決を諦め、仕方なくアイネのあとをついて歩くことにした。
機嫌を曲げたアイネは見慣れているが、ここまでとりつく島がないのは初めてだった。だが彼女が怒りを覚えるのも当然だと思う気持ちはあった。この切迫した事態の中で俺たちはのうのうと口づけ合い、その行為に酔い痴れていたのだ。ともすればそれはヒステリカの規則に触れる重罪だが、たとえそうでなくても不謹慎のそしりを免れない。
アイネがどこまで把握しているのかわからない。あるいはキスまでは察していないのかも知れない。
それでも俺は自分の軽率が彼女を逆上させ、この雨の中こんな茶番を演じさせていることを素直に恥じ、申し訳なく感じた。彼女は無言のまま歩き続け、俺は叱られた犬のようにそのあとをついて回った。
アイネが遂に立ち止まったのは公園だった。そこは一昨日の夜、俺があの三年前の舞台から覚めた場所で――子供の頃によく遊んだ馴染みの場所でもあった。
アイネは依然としてこちらを見ないままその公園に踏み入り、雨に濡れたブランコを拭いもせずそのまま腰掛けた。ブランコは二台で、もちろん隣は空いていた。俺は彼女に倣いためらうことなく、水浸しのそこに腰をおろした。
「……ハイジにとって、今度の舞台って何?」
気が遠くなるような長い沈黙のあと、アイネはぽつりとそんなことを聞いてきた。
その質問の意味を、俺ははかりかねた。……何より一言で答えられるものではない問いに逡巡していると、彼女の方でまた口を開いた。
「わたしは今度のが、ヒステリカ最後の舞台だと思ってる」
俺は思わずアイネを凝視した。短い髪の先からは雨の滴が一滴、また一滴としたたり落ちていた。
「……そんなことあるかよ。ペーターも入って、これからだろ」
「ハイジは本当にそう思ってるの?」
低く押し殺したような声でアイネはそう言った。そして小屋の外に飛び出して初めて俺に視線を向けてきた。
……その視線に背筋が凍る思いがした。アイネの目はそれほど冷たく、まるで汚物か何かを見るような厳しいものだった。
「……たしかに今はおかしなことになってる。でもこんなことがいつまでも続くはずはないし、ペーターだってそのうち帰ってくる。そうすれば――」
そこまで言って……詰まった。
ペーターが帰ってくれば、また五人に戻るのではない。日曜の舞台のあと――俺たちは三人になるのだ。そして俺が隊長のあとを継ぐとすれば、役者はアイネとペーター二人だけになる。
……彼女が言っていることがようやくわかりかけた。それでも俺がここで、アイネの言葉に首を縦に振ることはできない。
「いつまでも三人じゃない。来年になれば新しい人がきっと入る」
「そうしてハイジが隊長になって……わたしがあの人になるの?」
再び視線を落としてアイネはそう呟いた。……彼女の言う『あの人』が誰かは、聞かなくてもわかる。
「……誰もそうなれだなんて言ってないだろ」
「わたしには無理。……あの人みたいに面倒見のいい先輩にはなれない」
俺の言葉を無視してアイネは続けた。普通に聞けば露骨に皮肉のこめられた台詞だった。だが俺の耳に届く声にその響きはなく、彼女がまじめにそう思っていることがよくわかった。
――そこでようやく点が線になった。
隊長とキリコさんが退団すればヒステリカは三人になる。その新しいヒステリカで俺は隊長になり、必然的にアイネにも新しい役割が与えられる。……その役割とは、これまでキリコさんが受け持っていたものに他ならない。
その役割においてキリコさんは非の打ち所がなかった。俺たちがヒステリカでずっとやってきたのは隊長がいたからだが、ずっとやってこられたのはキリコさんがいたからだ。
常に俺たちが動きやすいように気を配り、ときには無遠慮に精神的な問題にまで踏みこんでガスを抜く。そうした難しい役割を、鼻歌まじりの気安さでキリコさんはやってのけていたのだ。
アイネに気配りができないとは言わない。むしろそうした仕事は得意だと思う。だが彼女は間違ってもキリコさんのように精神面でのフォローまではできない。そして少人数の劇団にとって最も重要なのは……実のところそうした精神面での下支えなのだ。
「……わたしが辞めたらどうする?」
――その言葉に、俺は息を呑んだ。
耳を疑う思いだった。頭の中が真っ白になり、ただ呆然とアイネの横顔を見守った。そんな俺に冷然と彼女は言葉を重ねた。
「わたしが今回の舞台で辞めるって言ったら、ハイジはどうする?」
俺は何も答えられなかった。アイネがヒステリカを辞める……そんなことは考えてもみなかった。隊長とキリコさんが去っても……何かの理由でペーターがいなくなったとしても、アイネだけはずっとヒステリカに残るものと信じていた。
何があってもヒステリカという劇団を続けていく気持ちでいた。……続けていけると思っていた。だがそれは信頼できる同期がいることを前提としたものだった。アイネの存在があってはじめて描ける未来予想図だった。
もしその前提が崩れるなら……アイネが今回の舞台でヒステリカを辞めると言うのなら――
「……苦しい」
胸の奥から湧き起こるそのままを吐き出した。それは本当に――息もできないほど苦しい思いだった。
そんな俺を見てどう思ったのか、アイネは困ったような微妙な表情をつくった。……そんな顔をする彼女を、以前どこかで見たことがある気がした。だがアイネはすぐにその表情を崩し、息だけでふっと軽く笑った。
「言ってみただけ」
「え?」
「辞めてほしい? それとも」
「……そんなわけあるか」
「なら簡単に信じないでよ、そんなこと」
アイネはそう言ってブランコから立ちあがった。そして俺に向き直り、触れれば切れるような鋭い目で俺を睨んだ。
「わたしたちにとって今、一番大事なことって何?」
いいかげんな回答は許さない――アイネのそんな声ならぬ声が聞こえた。だがこの質問になら、俺は自信を持って答えることができる。
「今回の舞台を成功させること」
「ならそのことだけ考えようよ。……色々あるのかも知れないけど、それをきちんと果たすまでは」
アイネの言うことが痛く胸に沁みた。それこそが彼女の言いたかったことであり――逆上させ雨の中を歩かせた原因なのだと理解した。
「わかった」
交々の思いを断ち切るように、俺はたった一言そう返した。
アイネの裸の思いにどんな言葉を返してもはじまらない。舞台が目前に迫る今、俺は行動をもってその思いに応えなければならない。
気恥ずかしい気持ちはあったが、和解のしるしを求めて俺はアイネに右手を差し出した。
一瞬、彼女は驚いたような顔をし、けれども雨に濡れそぼった右手を俺のそれに重ねてくれた。そして照れ隠しのためだろうか、いかにも居心地が悪そうな曖昧な表情で、小さく笑って見せた。
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