125 演劇における禁忌(2)
――談話室を出た俺は、昨日と同じバス停から同じ方面行きのバスに乗った。もう一度ペーターの家を訪ねるという目的についても同じ。ただ、隣の席にアイネがいないということが昨日と違っていた。
もうなりふり構っている場合ではないし、なによりインターフォンに誰も出ない可能性が高い。そんな理由で、今日は俺一人で行くことになったのだ。アイネはリカを、キリコさんは隊長をあたってみるという。もしどこか一つでも引っかかるようなら、そこから道が拓けるかも知れないという、不確かな希望にすがっての苦肉の策だった。
バスに揺られている間、隊長がいなくなってしまったあと三人でおこなった昨日の練習を回想した。
あのあと俺たちは仕切り直し、ねたの擦り合わせを中心に三人でできるすべてのことをやった。隊長とペーターがいなかったことを抜きにすれば、最後の練習にふさわしい充実した内容だったと思う。アイネもキリコさんも真剣そのものだったし、俺もまたそうに違いなかった。三人ともミスらしいミスもなく、いつになく集中した演技を最後まで続けることができた。
けれども、俺はそうありえた自分を肯定できない。俺は演技に集中できたのではない。……集中せざるをえなかったのだ。
思いもかけなかったあのキスのあと、俺はキリコさんを、今まで通りキリコさんとして見ることができなかった。初めて触れた唇の柔らかさから逃れるために、ただひたすら演技に没入するしか方法がなかった。ある種の緊急避難として俺はその方法をとり、結果、いつもより演技にのめりこむことができた……ただそれだけなのだ。
キリコさんは違った。俺が小屋に戻ったとき彼女はもういつも通りの彼女で、まるで迎えに出たのが自分だったかのように俺の遅い戻りを責めた。俺が仮舞台にのぼるや隊長よろしく練習の再開を宣言し、そのまま最後まで主導権を手放さなかった。当然、キスのことなどおくびにも出さなかった。
……彼女がそうした態度をとっていたこともあるのだろう。練習が終わり、寝て起きて今日になってみれば、俺はもうあのキスのことを何とも思わなくなっていた。朝練でも普通に顔を合わせることができたし、少しも気恥ずかしさを感じることはなかった。
隊長もペーターもいない朝練にそれどころではなかったのかも知れない。だが今となればあのキスを何とも思わないばかりか――むしろそれが普通のことだった考えている自分がいる。
……どういう心境の変化があってそうなったのかわからない。ただ簡単に言ってしまえば、相手である彼女が平然としているのに、俺がそれに舞いあがるのはいかにもみっともないという考えがあるのだと思う。
ずっと憧れていた人との初めてのキスだったのだから、俺にとっては特別なものだったに違いない。けれどもキリコさんにとってみれば、いつものスキンシップの一環だったということもありうるのだ。
柔らかい唇の感触は、今なおはっきりと思い出すことができる。そしてそれを思えばさすがに遣り場のないもやもやした気持ちが鎌首をもたげるのがわかる。おそらくそれはきちんと向き合って解消しておくべきものなのだろう。だが今の俺にはそんなことに向き合っている心の遊びはない。
――おかしなことばかりが起き続けている。俺はそれを幻と決めつけて片付けていたが、それで片付けてはならないとキリコさんは言う。
……その言葉はきっと正しい。なぜならペーターも隊長も実際にどこかへ消えてしまい、そして舞台はもう三日後に迫っているのだ。
このままいけば日曜の舞台は成功どころか形にさえならない。……けれども俺にはその実感がなかった。半年かけて積みあげてきたものが脆くも崩れようとしている現実を、現実と感じることができなかった。
……何もかもが夢の中の出来事ような気がする。その夢が悪夢であることは理解している。そしてその悪夢が、覚めて初めて深い絶望を覚える類のものであることも――
◇ ◇ ◇
「……嘘だろ」
門の前に立った俺は、目に映るそれを信じられない思いで眺めた。
……昨日の今日で間違えるはずもない。俺は間違いなく昨日アイネと歩いた道をたどってきた。バス停から小路を抜け、延々と連なる白壁を右手に眺めながらここまで来た。
「なのに……何の冗談だよ」
昨日は固く閉ざされていた黒い鉄格子の門が、今日は大きく開け放たれていた。その門から延びる舗装路も、その道に沿うプラタナスの並木も昨日のままだった。
けれどもその先、小高くなったその場所に建っているはずの建物がなかった。当然そこに建っているはずの建物がどこにも見あたらなかった。いや……あるにはあった。そこにはちゃんと建物が建っていた。
だがそれは明らかにペーターの家ではなかった。
壁一面にガラス窓が並ぶ、簡素で大人しい造りの平屋。入り口に掲げられた看板には図書館の三文字が見える。……図書館?
ペーターの家があった場所に建っているのは、どうやら図書館ということらしかった。駐車場まであるのか、折しも一台の車が道を下ってき、呆然と立ち尽くす俺の横を通り過ぎていった。小路に消えていくバックナンバーを見送ったあと、何も考えられないまま俺は、その建物の入り口に続く坂道をのぼった。
傘をたたみ、自動ドアを通って入るとそこは小さなホールになっていた。靴を脱ぎスリッパに履き替え、丈の低いテーブルとソファが置かれた応接室のようなそこを抜け、『第一書庫』と表札がかけられた扉を開け、中に入った。
――そこは疑いようもなく図書館だった。
整然と並ぶ本棚の群れと、その間に設けられた数基のシンプルな机。その本棚の間を縫って、俺はゆっくりと館内を見てまわった。
平日の昼時ということもあってか中は閑散としていた。……と言うより、俺の他に利用者は誰もいないようだった。本棚に収められている本は医学書や哲学書などの専門書が多く、どの本の背表紙も相当に色褪せていた。一通りまわってみれば蔵書数も少なく、かなり規模の小さい図書館だということがわかった。
そこでふとカウンターが目に留まった。貸し出しカウンターとおぼしきそこには司書らしい妙齢の女性が座り、じっと俺の方を見ていた。……少しためらう気持ちはあった。だが、俺は思い切って彼女に話を聞いてみることにした。
「あの……すみません」
「はい?」
女性は穏やかな微笑を浮かべ、どこまでも落ち着いている様子だった。だがその女性を前にして、俺は彼女に何を尋ねようとしているのかわからない自分に気づいた。
「ここは……普通の図書館なんでしょうか?」
咄嗟にそう言ってしまってから、その意味不明な質問を赤面する思いで後悔した。それでも女性は柔和な表情を崩さず、「ええ」と小さく返事をした。
「誰でも本を借りられる普通の図書館ですよ」
そう告げる女性の声に、おかしな質問への困惑は認められなかった。俺はそれで持ち直して、今度は慎重に次の質問を考えた。
「近くに友人の家があって、このあたりにも何度か足を運んでいるんですが、ここに図書館があるって知ったのは今日が初めてで、それでちょっと聞いてみたくて……」
今度は慎重に考えた。……慎重に考えてこれだった。即興劇団の役者が聞いて呆れると内心に毒づいた。だがそんな俺に女性は迷惑がる様子もなく、「お尋ねになりたいのは、当館の何についてですか?」と言った。
「ああ……はい。その、難しい本が多いようですけど、どんな趣旨の図書館なのかと思って」
「当館の蔵書は、すべて故人により遺贈されたものです。設立の趣旨もその故人の遺志によりまして、近隣に住む方が専門的教養を身につける一助となることを目的としております」
「故人の遺贈ですか……」
女性はそれからしばらく図書館の沿革と理念について語って聞かせてくれた。十年前に建てられた施設であること。故人の遺産をもって運営されていること。理念に賛同する有志からの寄贈で、蔵書もわずかずつながら増え続けていること。
俺はまったくの受け身でその話を聞き続けた。そうして聞き続けるうちに、いつまで経ってもその故人の名前が出てこないのに気づいた。思い返してみれば入り口の看板にも図書館とだけあり、その名前らしきものはなかった。そのことを俺が尋ねると、女性は初めてにっこりと満面の笑みを浮かべて言った。
「それも故人の遺志なのです。寄贈者の名前を明かさないこと、その名を図書館に冠しないことが、当館の信条なのです」
「……そうですか」
俺にとってはどうでもいいことだった。けれども女性がその信条を誇りに思い、この図書館で司書をすることを生き甲斐に感じていることは理解できた。そうして俺は、ここに入るまえは混乱の極みにあった自分が、彼女と話しているうちにすっかり冷静になっていることを知った。
思えば尋ねたかったことは聞き出すことができた。ここはもうずっと以前からペーターの家ではなかったのだ。そのことを胸に刻んだあと、俺は女性に説明の礼を告げて暇乞いをした。
「いえ、お礼には及びません」
出口に向かいかけた俺に、女性は最初と同じ穏やかな声で告げた。
「何かを探している方がいましたら、その方の探しものを見つける手伝いをするのが、私たちの仕事ですから」
◇ ◇ ◇
小屋に帰り着いたときはもう三時過ぎだった。だいぶ小降りになった雨は、それでもまだ降り続いていた。
その雨に一層うらぶれて見える商店街を抜け小屋に近づくうち、扉の前に人影があることに気づいた。キリコさんだった。
「……お帰り」
雨垂れの滴り落ちる軒下に、幾分もの憂げな表情で彼女は立っていた。
「どうしたんですか?」
と、俺は聞いたが、キリコさんはそれには答えず、こちらを見たまま手の甲で扉を二回ノックして、「入れてくれないのかい?」と言った。
「ああ……すみません。気がつかなくて」
そう言いながら俺は近寄り、扉を開けてキリコさんを迎え入れた。小屋に入ると彼女は通路を真っ直ぐに下っていき、無言のまま舞台のへりに腰を掛けた。……その様子にどこか不自然なものを感じながらも、俺は同じように通路を下って彼女の隣に座った。
ホールには湿った空気が澱んでいた。今は霧のようになった雨は、もう屋根を打つ音をここまで響かせてはこない。カーテンを開いてある明かりとりから漏れこんでくる光も、淡く弱い。
そんなホールの中に、キリコさんは背を丸め、床を見つめるようにしてしばらく何も言わなかった。
「……首尾は、どうだったんですか?」
結局、俺の方で沈黙を破った。だがキリコさんからの返事はすぐにはなかった。……その様子に既視感のようなものを覚え、どうすべきか悩み始めたところで、「まるっきり」と小さな呟きが聞こえた。
「……どうしたもこうしたもないよ。手掛かりがないとか、そんなレベルの話じゃないみたいだ」
疲れ切った声だった。彼女は両掌を板目につき、天井を見上げて背を伸ばすようにした。
「ごめんよ。朝は勝手なこと言って」
「え?」
「幻覚で済ますなだとか、科学的に見ろだとか偉そうに言ったこと、謝るよ。……他人のことだから何だって言えるのさ。自分がその立場になってみれば、そんなこと……とても言えやしないのにね」
「……何か、あったんですか?」
「あったって言うか、なかったって言うか……」
そう言ってキリコさんはまた背を丸め、視線を落とした。そうして垂らしていた脚をあげ、両腕で抱えて体育座りの姿勢をとった。
「……ペーターのことを知ってる昔の仲間がハイジにいるように、あたしにも旧い知り合いでジャックのことを知ってるやつが何人かいるのさ。もうみんな遠くへ行っちまってて、あいつとの関係なんて切れてることわかってたけど、押し入れの奥から名簿引っ張り出して、そういう手合いに片っ端から電話かけてみたんだよ」
そこまで話してキリコさんは言い澱んだ。先を促そうかとも思ったが、俺は黙って彼女が続きを口にするのを待った。果たして、彼女はおもむろにまた唇を開いた。
「……そうしたらね。連中は……そんなやつのことは知らないって、そう言うんだよ」
「……どういうことですか?」
「言葉通りの意味さ……。そんな男と一緒に芝居をした記憶はないし、ジャックなんて名前は聞いたこともない。しまいにゃ疲れてるんじゃないかって気遣われる始末さ。……そりゃまあ疲れてはいるんだけどね、実際」
そう言っていっそう身を縮めるキリコさんに、俺はかける言葉を持たなかった。何を言っても上滑りの慰めになる気がした。
だから俺は代わりに、ペーターの家だった場所で自分が目にしてきたものを彼女に伝えた。
背を丸め膝を抱えたままの姿勢で、キリコさんは身じろぎ一つせず俺の話を聞いていた。やがて司書の女性に受けた説明まですべて話し終えると、彼女は小さく溜息をついて、「そんなことがあったんだね」と言った。
「どこもかしこも……何がどうなってるんだかわかりゃしない」
「……そうですね」
「その高校の頃の仲間ってのに、もう一度ペーターのことを聞いてみたらどうだろうね」
「え?」
「ためしに、さ。どんな反応が返ってくるのか……怖い気もするけど」
キリコさんはそう言ってまた凍えるように身を縮めた。それで俺には彼女の言ったことの意味がわかった。
演劇部の仲間に俺がまた電話をかければ、ペーターなんて人間は知らないと返されるだろう――キリコさんはそう言っているのだ。……ためしてみたい気もした。その予想が外れれば彼女の気持ちも少し上向くだろう。だが逆に予想が的中すれば……そんな事態はあまり考えたくない。
「やめておいた方がいいと思う。いずれにしてもペーターは見つからないだろうし」
言葉を選んでそれだけ言った。また一つ、キリコさんが小さな溜息をつくのが聞こえた。
「そうだね。……あたしもいいかげん参ってるみたいだ」
キリコさんはそう呟いて、俺の肩に頭をもたれてきた。
何度も繰り返されてきた、いつも通りの行為だった。ただそれきり沈黙する彼女と……昨日あったことを思い出す俺とが、いつもとは違っていた。
薄闇のホールに静寂のときが流れた。その静寂のなか音も立てず、キリコさんの頭が俺の肩から離れるのを感じた。
顔を向けると、同じようにこちらを向き、ぼんやりと俺を見つめる彼女の顔があった。
目を伏せ、ゆっくりと近づいてくるその顔を、ただ眺めた。
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