124 演劇における禁忌(1)

「――最後に空き缶を持って帰るとこまで、覚えてるそのままだった。照明が落ちて、カーテンコールがおこって……あとはさっき話した通り」


 雨は降り続いていた。


 昨日の昼下がり、庭園に俺を襲ったそれはにわか雨だったようだが、あがりかけたところに折悪く梅雨が連なったという話だ。


 そんな雨の中にあって、談話室の空気は重く澱んでいる。その空気を一層重く澱ませる俺たちを忌んでか――あるいはたまたまのことか、相変わらず談話室には俺たちの他に誰もいない。


「その公園ってのは小屋の近くで、子供の頃はよく遊んでた場所なんだけど……まあ関係ないか。それだけ。あとはもう何もなかった」


 朝練を終えたあと、開いたばかりの談話室に入ってすぐ始めた物語も、ようやく結末にさしかかろうとしていた。


 俺の語る常軌を逸した話を、アイネとキリコさんは静かに聞いてくれた。二人とも終始無言だった。疑いの声はおろか、軽い相槌のひとつもなかった。


「小屋に帰って眠って……目が覚めて朝練に向かって……。俺に説明できるのはそれくらい。うまく伝わらなかったかも知れないけど」


 語るべきすべてを語り終え、俺はぐったりと長椅子に背もたれた。長口上の達成感はなく、むしろ無駄なことを話したという後悔があった。喉がからからに渇いていた。冷たい水が飲みたくて堪らず、そうしようと腰を浮かしかけたところで、不意にアイネから声がかかった。


「どうして今まで隠してたの?」


 それは予想された質問だった。だがその質問を口にするアイネの表情は真剣で、怒っているようにも見えた。俺は水を諦め、浮かしかけた腰をまたゆっくりと長椅子に降ろした。


「混乱させると思ったから。それに、昨日の段階でこんな話されて信じたか?」


「信じたよ」


 即答だった。……そう返されてしまえば俺にはもう応えようがない。ほとんど睨むようなアイネの視線をどうにか受けとめながら、俺は何も言えず相手の動きを待った。そこでふっと鼻で笑う声が隣から聞こえた。


「いつも初々しくていいねえ、あんたたちは」


「……何がですか」


「同じことで何度でも熱くなれるってことだよ。まるで一昨日の続きを見ているようじゃないか、まったく」


 そう言うとキリコさんはやれやれといった薄笑みを浮かべた。その表情を前にアイネはばつが悪そうに俺から視線を外し、衝突は未然に避けられた。


 ……いつもながらキリコさんのこういうところには敵わない。その言い方から何となく、実はあのときも寝たふりをして起きていたのではないかと思ったが、口には出さなかった。そんな俺たちを眺めてキリコさんは溜息をついた。


「ハイジが話さなかった理由はそれだけじゃないさ」


「え?」


「おおかた話したって何のにもならないと思ったんだろ。……違うかい?」


「まあ……そうです」


「あたしとジャックがあのときの舞台をねえ……。思い出話に花咲かせたい気持ちは山々だけど、今はそんなときじゃないしね」


 しんみりしたキリコさんの一言で俺の物語は打ち切られ、話し合いは本題に戻った。……と言ってもそれは、俺が一昨日のことを話し始める前にあった会話をなぞるだけのものだった。その本題というのは、俺たちが直面している問題を整理することで――だが整理するまでもなく問題は誰の目にもはっきりしている。


 問題は、隊長とペーターがこの場にいないことだった。その二人が、何の知らせもなく朝練を休んだことだった。


 ペーターは今朝も来なかった。昨日から連絡がとれない状況が続いていたから暗い予感はあったが、その予感は違わず彼女は二日続けて休んだ。……そればかりではない。今日の朝練には隊長が来なかった。他の誰でもない隊長が、朝練に来なかったのだ。


 隊長に関しても予感――というより漠然とした不安のようなものは感じていた。昨日の練習でのことがあったからだ。あのときのわだかまりはまだ消えずに尾を引いている。だがそのことがあるにせよ……いや、そのことがあるからこそ隊長が朝練を休むとはとても考えられなかった。この状況で朝練に来なければどういうことになるか、それがわからない隊長ではない。信頼というより、それは確信だった。俺にとって――いや、俺たちにとって、隊長とはそんな確信をもって眺めるに値する人物だったのだ。


 ……にもかかわらず隊長は来なかった。二人の姿がないまま時間になったとき、朝練の開始を告げたのはキリコさんだった。そのまま俺たちは発声を始め、それが済んだあとは昨日と同じように三人で代わる代わるの確認をした。


 誰も何も言わなかった。何も言わないままに練習を続け……やがて終わりの時間になって、俺たちは無言のまま、示し合わせたように交流会館に入った。


 話し合いはすぐに停滞した。差し迫った問題が二人の不在にあると確認されてしまえば、もう他に話せることなどなかった。


 会話が途絶えがちになり、息苦しい沈黙が何度か続いたあと、俺は無駄とは思いながらも一昨日の夜の話を切り出した。万一、その中に何か俺の気づかない手掛かりが含まれていないとも限らないと思ったからだ。……けれどもキリコさんの言う通り、それはやはり何のにもならなかった。


 ……ともかく二人は朝練に来なかった。ペーターについては二日続けてで、それだけでも充分に異常なのだが、隊長が来なかったことはまったく別次元の意味を持つ。しかも昨日あんなことがあっての今日だ。ことは深刻――と言うより、ほとんど空前の危機と言っていい。


「――隊長が昨日に言ってたあれ、どういうことなんだろうな」


 進展のない話し合いに、俺はあえてその話題に踏みこんだ。アイネとキリコさんの表情が揃ってわずかに強張るのがわかった。……やはり二人ともこの話題は避けていたのだと、少しの後悔とともに俺はそう思った。


「隊長があんな感じになることって、これまでにもあったの?」


 それでも俺の意を汲んでくれてか、アイネが言葉を継ぎキリコさんに振った。「ない」と、にべもなくキリコさんはそれを否定した。


「たしかにジャックは昔から変わった男だったし、小難しい演劇論を口にすることも多かったけど、昨日みたいなことはこれまでなかった」


 ――ジャックというのは隊長が隊長になる前のコードということらしい。俺たちにそう説明してから、キリコさんは隊長のことをずっとその名で呼んでいる。


「みんなが気持ちよく舞台に立てるようにするっていう隊長の義務は貫いてきたよ。だからあたしだって……」


 悔しそうにそこで言葉を切った。その続きは聞かなくてもわかった。隊長がいい仕事をしていたから俺たちはこれまでついてきた。隊長への信頼があったからヒステリカという劇団で今日までやってきた。それが崩れた今――だがその先は口にできない。


「……今日の通しにも来ないつもりなのかな」


 アイネのその一言に周囲の温度が下がったように感じた。もちろんそれは俺もどこかで考えていたことだった。……だが何にも増して考えたくなかったことでもあった。


「かも知れないね。昨日のあの口ぶりじゃ」


 吐き捨てるようにキリコさんが言った。そしてそのあとに、「今日の通しだけのことかわからないけどね」と付け加えた。……それで周囲の温度がまた何度か下がった。


 ――俺たちが直面している最大の問題はつまりそういうことになる。これから本番まで……あるいは本番さえも隊長が現れないかも知れないということだ。それはとりもなおさず、実質的に舞台が不可能になることを意味する。


 舞台における隊長の職務は舞台監督ということになっているが、これは一般的な演劇の舞台監督とは役割も違えば重要度も違う。即興劇という性質上、ヒステリカの舞台では流動する演技に合わせて裏方に的確な指示を出すことが要求されるのだ。


 それを一手に引き受けるのがヒステリカの舞台監督であり、欠けたからといっておいそれとどこかの劇団から借りてこられるようなものではない。隊長の代わりが務まる者などどこにもいない。ただ、もし一人だけいるとすれば――


「……今日の通しは、俺が舞台監督やるべきかな」


 思い切ってそう口に出した。二人の顔がすっとこちらに向けられた。視線こそそらさなかったが、俺の目はきっと泳いでいたと思う。


 日曜の舞台が終わればその職務を引き継ぐ俺は、今日まで隊長の仕事を自分のものとして見てきた。……もっとも、それはあくまで半年後を考えての話で、今すぐにやれる自信などありはしない。それを察したのか、キリコさんは大仰に溜息をついて言った。


「あたしとアイネちゃん二人で芝居しろってのかい?」


「それは……」


 咄嗟に返す言葉を探したが、見つからなかった。


 たしかに今日の通し稽古にペーターが来るかはわからない。……と言うよりも来ない可能性が高い。そうなればアイネとキリコさん二人での芝居ということになるが、博士と盗人では筋の組みようがない。ストックしているにしても、その二人だけで成立するものはごくわずかだったはずだ。……つまり俺が口にしたそれは、アイネとキリコさんにとってほぼ無理難題ということになる。


 思いつきで言った言葉を取り消そうと口を開きかけた。だがそれよりもキリコさんの言葉が早かった。


「いざってときはあたしが舞台監督やるよ」


「え?」


 その言葉に、今度は俺が驚きの目でキリコさんを見る番だった。アイネもはっとした顔をそちらに向けている。そんな俺たちをいなすかのように、キリコさんはまた小さくひとつ溜息をついた。


「これでも長いからね。やろうと思えばどうにかできるさ。二人芝居にしたってあんたたち二人の方がまだ噛み合うだろ」


「……わたしにはできない」


 不意にアイネが沈黙を破り、重く低い声でそう告げた。


「キリコさんとにしても、ハイジとにしても。二人だけで最後までもたせるなんて無理。考えたこともなかったし、絶対うまくいかない」


 俺たちと目を合わさず、視線を落として辛そうにアイネは言った。


 ……彼女の気持ちは痛いほどよく理解できた。自分がさっき口にした言葉を棚に上げ、俺はその芝居の難しさを思った。三人ならどうにかなる。ペーターが入る前はずっとそれでやってきたのだ。だが二人での即興というのはまったく仕様が違ってくる。準備もなしにそれをやるのは無謀と言うより他なく、やるにはやれるが納得のいくものにはとてもならないだろう。


「……それならやっぱり、二人を捜し出さないことには駄目か」


 結局はそういうことになる。だが現状は手詰まりで、捜そうにも捜しようがない。


 昨日から何度もペーターの家に電話をかけているがのつぶてで、連絡は途絶えたままでいる。高校の頃の仲間に連絡をとってみてもせいぜい電話番号を覚えているくらいで、もう誰もつきあいはないという。……もっともそれに関して言えば、あいつはそもそも高校時代からそんなようなものだったのだが。


 ……隊長に至ってはさらに酷い。住所はもとより電話番号も、本名さえも不明なのだ。つきあいの長いキリコさんでさえ、やはり何も知らないのだという。


 劇団の主宰が個人情報を隠しているというのは傍目には奇妙なものに映るのだろうが、これまでは何の問題もなかった。そればかりか俺たちはその匿名性をどこかで楽しみ、劇団の魅力のひとつとしてとらえていた。それはヒステリカをヒステリカたらしめている重要な要素であり、今日までうまく機能している点の方が多かったのだ。……だがこのような事態になって、それが完全に裏目に出たことになる。


「そういうことならさ。ここで一度、さっきのハイジの話に戻ってみようじゃないか」


 おもむろにキリコさんがそう言うのを、俺は疑問の目で眺めた。


「戻って……どうするんですか?」


「何かヒントがあるかも知れないしさ。ハイジが話してくれたのだって、それが理由だったんじゃないのかい?」


「それはその通りだけど……。でもヒントって言っても、あんなの幻覚みたいなものだろうし」


「たとえ幻覚にしたって、ハイジが実際に見たんだろ?」


「いや、考えるだけ無駄だと思う。あんな非科学的なこと……」


 俺がそう言うとキリコさんは小さく鼻を鳴らし、少し疲れたような顔をした。そして、「非科学的ねえ」と乾いた声で呟いた。


「よくその言葉を口にするのがいるけどね。ハイジは何をもって科学的とするか、ちゃんとわかって言ってるのかい?」


「……?」


「たとえば太陽が西から昇ったのを見たとして、ハイジはそれを非科学的というかって聞いてるんだよ」


「言うでしょ……それは」


「そのあたりが大いなる誤解なんだよ。もし太陽が西から昇ってきたとしたら、そのうえでまた考え直すのが科学って学問なのさ」


 いきなり始まった難解な話に、俺はすでについていけなくなっていた。だがキリコさんはそんな俺を尻目に、頭の後ろに手を組み大きくのびをして、話を続けた。


「つまり科学的ってのはね、ある現象が確認されたときそれを土台にしてたしからしい規則を探り出していく考え方のことだ。逆に非科学的ってのは、ある現象が確認されたときその合理的な解釈を端っから放棄する考え方のことを言うんだよ。もう一人のあたしがいようが、そいつが舞台に立っていようが、それを幻と決めつけるのはナンセンスだ。ハイジがそれを見たってんなら、そこから物事を考え始めるしかないんだよ」


 そこまで聞いてようやくキリコさんの説明がおぼろげに理解できた。ただ理解はできたが感情はついてこなかった。


「で……俺の見たあれをどう合理的に解釈すればいいと?」


「だからそれを考えようって言ってるんじゃないか」


 いいかげん呆れたようにキリコさんは吐き捨てた。……そう言われてもあの出来事に解釈の余地などないように思う。しかしそこでアイネがふと思い出したように、「そのことについてじゃないけど」と言った。


「ハイジが昨日の練習の前にしていた話。DJが会ったっていうペーターと、昨日隊長が言ってたことは繋がる気がする」


「……どういうことだい?」


「ハイジは、それ聞いてどう思った? つまり……いつものときと同じかってことだけど」


 遠回しな表現だったが、逆にそれでアイネの言いたいことがわかった。DJの話していたそれが俺のよく知る発作かどうか聞いているのだ。俺は少し考えてから答えた。


「たぶん違うと思う。いつもはもっと手がつけられないし……まあ、他にも色々」


「そういうことならあの子、役に入りきっていたんじゃない? DJが話しかけても戻ってこないほど」


「ああ、それは俺も少し考えた」


「……それって隊長の言ってたことに近いと思うんだけど。昨日の練習で話してた、あれに」


 アイネの指摘に俺は沈黙した。キリコさんも黙って何かを考えているようだった。


 ……なるほど、そうかも知れない。DJにその話を聞いたとき、誤魔化すために俺が咄嗟に口にしたのもそんな説明だった。そしてそれは昨日の練習で隊長が言っていたことと……たしかに繋がる。


 けれどもアイネの切り出した話はそれきり発展しなかった。あとを受けて幾つかの会話があったが、少なくとも二人を捜す手掛かりとなるようなものは見いだせなかった。


◇ ◇ ◇


 ――そうして昼近くまで話し続けて俺たちがたどり着いたのは、やはり足で二人を捜すしかないという不毛な結論だった。


 それなら朝練を終えてすぐ捜し始めていれば――おそらく三人ともが頭にのぼらせたその考えを、三人とも口に出さずにのみこんだ。


 窓の外に降る雨は、その時間になってもあがることはなかった。

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