123 冷たい唇(6)

 弾かれたように声のした方を見た。キリコさんだった。


 けれどもそれは俺のよく知る彼女の声ではない、ぞっとするほど冷たく金属的な――女の声だった。


「さっきからあなたは自分の希望しか言ってないじゃない。たしかに私たちは今回の舞台で終わり。だから今までの集大成にしたいって気持ちはわかるし、私だってそう思ってる。けど、そんな自分の希望ばかりでいいの? それがヒステリカの隊長? 全員が納得して舞台に立てるようにするのが役目じゃないの? 私の言ってること、間違ってる?」


「間違ってはいない、君の言う通りだ。ヒステリカの隊長とは、舞台にかかわる全員が納得できるように行動する役目だ。語弊があったことは認めよう、だが私が言いたいのは――」


「ちゃんと最後まで聞いて。今日が最後の練習だってわかってる? 私たちにとってじゃない、舞台までもう練習できる日はないってわかってる? 明日からはもうまとまった時間なんてとれないじゃない。それなのにどうしてそんな話をするの? どうしてあの子が来ていないのに動かないの? 今日の練習がこんな形になって、それで舞台が成功するなんて……。ジャック、あなたは本当にそう思っているの?」


 静かな弾劾だった。優しく子供に言い聞かせるような口調でキリコさんは続けた。だがその優しい口調に、俺は心が凍る思いがした。


 彼女はもうキリコさんではなかった。どこまでも冷たい表情と、触れれば切れるような美しさを持つ、俺の知らない誰かだった。


 ――ジャックとは隊長のことだろうか。そうだとして彼女はなぜそんな聞いたこともない名前で隊長を呼ぶのだろうか。キリコさんはどこへ行ってしまったのだろうか。この悪夢から、どうすれば俺は抜け出すことができるのだろうか……。


「君の方こそ、わきまえるべきではないかな」


「どういうこと? 私が何か間違ったこと言った?」


「ヒステリカにおいて運営にかかわらない古参の役目は、周りを見て配慮を怠らないことだろう」


「その通りよ。だから私は――」


「今、君には周りが見えていない。二人を見たまえ、どんな表情をしているか」


「え?」


 隊長の言葉にキリコさんの目がこちらに向けられた。


 冷静な眼差しだった。俺の頭を透過して壁の向こうまで見通すような視線だった。――だから、俺は動けなかった。その視線が理由で、俺は指一本動かすことができなかった。


 視界の隅には同じように微動だにしないアイネがいた。壁際の淡い闇の中に、その顔は死人のように青ざめて見えた。……きっと俺も似たような顔をしているのだろう。俺たちは氷のように固まり、声を出すことすらできず、ただじっと目の前の二人を眺めていた。


 ――そんな俺たちを見つめるキリコさんの顔が、ゆっくりといつもの表情に戻っていくのがわかった。


「……本当だね。あたしが怖がらせてちゃ世話ないね」


 そう言うなりキリコさんは扉に向かい、早足に歩き出した。


「ちょっと頭冷やしてくるよ。練習始めるならあたし抜きで始めといておくれ」


 そんな台詞を残して扉を押し開け、傘もささず雨の降り続く小屋の外へ出ていってしまった。


 止める間もなかった。……それよりも声が出なかった。扉が音を立てて閉まったあと、ホールには静寂が訪れた。重苦しく冷え冷えとした、濃い静寂だった。


 こつこつと小さな靴音が聞こえた。隊長はゆっくりした足取りで舞台の階段を下り、そのまま通路を歩いていき……扉に手をかけた。そこでおもむろにこちらを振り返り、「本日はこれで散会する」と告げた。


 扉の軋む音が響き、雨の音が大きくなった。そして扉の閉まる鈍重な音と共に、それはまた元通り小さくなった。


 隊長が出て行ってしまってから、しばらくは時間が止まったようだった。ホールに残された二人は沈黙したまま、石像のように身じろぎすらしなかった。雨音だけは変わらずに響き続けていた。……その変わらない雨音の中に、何もかも変わってしまった情景があった。


 ふと昨夜のことを思った。これは昨夜に見たあの幻の続きで、カーテンコールの拍手をすればまたどこか別の場所で目が覚めるような気がした。それをするために俺は腕をあげようとした。けれども身体は硬直したまま、少しも動いてはくれなかった。


 ……最後の練習だった。明日の通し稽古に備えて、今まで積み重ねてきたひとつひとつの演技を確認する、大切な練習のはずだった。その練習にペーターは来なかった。隊長は謎めいた説明を残しただけで去り、そしてキリコさんも……。


「――追わなくていいの?」


 絞り出すようなアイネの声だった。返事を返すことができなかった。俺には彼女が何を伝えようとしているのかわからなかった。


「追わなくていいの?」


 もう一度、アイネは同じ台詞を繰り返した。死人のように青ざめたままの、表情のない顔。だがその顔の中にあって、こちらを見つめる二つの瞳には光が宿っていた。……それはアイネの瞳だった。


 指先が動いた。自分が金縛りから解放されたことを知った。


 そのあとは早かった。床を蹴るようにして立ち上がり、扉を開け雨の中に飛び出した。


◇ ◇ ◇


 ――探す必要はなかった。小屋を出てすぐにキリコさんは見つかった。既にシャッターの降りている右隣の雑貨屋の庇の下。屈みこみそのシャッターに背もたれ、地面を見るように俯いていた。


 すぐには声がかけられなかった。短い庇は傘にならなかったのか、その身体は雨に濡れそぼっているように見えた。……あるいは一度どこか遠くまでいき、引き返してきたのだが小屋に入れないでいたのかも知れない。


 それはもう隊長を相手に立ち回りを演じた冷然とした女性ひとではなかった。けれども俺がよく知るキリコさんでもなかった。寒そうに小さくうずくまるその姿は華奢で弱々しく、普段の彼女からは考えられないほど頼りないものだった。


「……キリコさん」


 ややあって、俺はどうにか声をかけた。だがキリコさんは俯いたまま、頭をあげようとしなかった。


 泣いているのだろうか、と思った。……ひょっとして、あのキリコさんが泣いているのだろうか。


 キリコさんが泣いている……そう思うだけで胸が押し潰されそうだった。それが事実ではないことを祈りながら俺は彼女に歩み寄り、再び声をかけた。


「キリコさん」


 それでもキリコさんはこちらを見ようとしなかった。そのとき雨音に混じって、ほんのかすかな囁きが耳に届いた。はっきりとは聞きとれない、けれどもそれはたしかにキリコさんの声だった。力なく項垂れたまま、雨に濡れた地面に向かい、誰に語りかけるともなくキリコさんは何かを囁いていた。


 これではまるで……。そこまで考えて、俺はその先を考えるのを止めた。


 ……とても堪らなかった。こんなキリコさんを見たくはなかった。いつものようにしっかりしてほしかった。悠々とした態度であけすけな言葉を口にする、いつもの姿を見せてほしかった。


「キリコさん」


 三度みたび、俺は声をかけた。だがやはり反応はなかった。


 ふと――こんなときキリコさんならどうするだろうと考えた。


 もし蹲っているのが俺で迎えに来たのがキリコさんだったなら、彼女はどうするだろう。きっとキリコさんは肩を揺さぶってでも俺を正気づかせようとするに違いない……そう思った。だから今、俺はそうすべきだと気づいた。


 そうするために俺は彼女の前に立ち、肩に手を置こうと屈みこんだ。


「……」


 冷たく、柔らかい感触が唇に触れた。


 感触はわずかに位置をずらして、止まった。瞼を降ろしたキリコさんの顔が目の前にあった。


 俺は微動だにできず――息さえもできず、その瞼から伸びる長い睫を、ただ眺めていた。


「行こ」


 一瞬とも永遠とも思えるキスのあと、キリコさんは俺の身体をすり抜けて立ち、そう言った。そうして俺の腕を掴み、力強く引きあげて俺を立たせた。


「迎えに来てくれてありがと。さあ、最後の練習を始めようか! 三人きりだけどね!」


 思い切りよくそれだけ言うと、キリコさんは足早に小屋の中へ入っていった。


 俺はあとを追えなかった。……追うことができなかった。


 隊長との遣り取りでもたらされた混乱は嘘のように消え、ただひとつのたしかな感覚――ついさっきまで唇にあった柔らかく冷たい感触だけが、俺の内側を埋め尽くした。


 ……何も考えられず、何もできなかった。


 それでも小屋に戻らねばならないことだけは理解できた。扉を開ければその中に、三人での最後の練習が待っている。……今の俺にどんな演技ができるとも思えない。そう思いながらも俺は、扉のノブに手をかけ、ゆっくり回した。


 そのとき、ふと思った。何も考えられない頭で、啓示のように思った。


 ――何も考えられないなら、何も考えないでいられるのなら、俺はこのまま役の中に完全に埋没してしまえるのではないかと。

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