122 冷たい唇(5)

「さて……どうしたもんかね」


 練習開始を十分後に控えたホールは重く湿った空気に満ちていた。昼からの雨はまだ降り止まず、滴が屋根を打つ静かな音が聞こえてくる。日があるうちは酷かった蒸し暑さはもうだいぶ退き、今はわずかに肌寒い気さえする。


「連絡網、あるにはあったんだよね。高校の頃演劇部だった人に電話番号とか聞けないの?」


「聞いてもうかけたよ。……で、誰も出なかった」


「そう」


 もっとも、肌寒いのはやはり気のせいなのかも知れない。実際、顔も背筋もじっとりとした汗にまみれているし、息苦しいような湿気があたりに立ちこめているのもたしかだった。本当は蒸し暑い中にあるものが、何らかの理由で肌寒さを感じているのかも知れない。


 ……理由があるとすればそれはひとつしかない。ペーターが来ていないことだ。


 俺とアイネは舞台のへりに、キリコさんは客席に腰掛けて残る二人が来るのを待っている。そうして待ちながら、おそらく三人とも同じ重苦しい予感を抱いている。


 ……普段なら真っ先に来て自主練を始めているはずのペーターがいない。俺と隊長が入れ替わっていることを除けば、まるで朝の焼き直しだった。


 二人でペーターの家を見に行った顛末は既にキリコさんに話した。話したのはほとんど俺で、アイネは横から補足をはさむだけだったが、ある意味それはいつも通りの俺たちだった。バスの中でのことが頭を離れず、内心気に病んでいた俺はそれで安心した。さすがのアイネも舞台前は気持ちの切り替えが早いようだ。


 ただその話は何の解決の糸口も与えてはくれなかった。家を訪ねてみて誰もいなかったというだけの話なのだから当然だ。キリコさんからの反応も鈍く、ともかく隊長の到着を待とうということでその話は収束した。ペーターのことでどう動くにせよ、隊長が来なければ何も決められないというのが現状だった。


 気は急くばかりだが、隊長は練習には決まって時間ぎりぎりに来る。三人ともそれがわかっているから、その時間が近づくにつれ、俺たちの口数は徐々に少なくなっていった。


 そこでふと、俺は昼の庭園でDJとかわした会話を思い出した。


「……あ、そう言えば」


 と言ってしまってから、まずいことを口にしたと俺は思った。……こんな話をしても不安を煽るだけだ。けれども二人はもう頭をあげ、じっとこちらを見ていた。俺は軽率を後悔しながら、話の先を続けた。


「DJと昼に話したんだけど、あいつ昨日の夜ペーターと会ったって」


「それって、ハイジと別れたあとのことかい?」


「十一時頃ってことだから、時間的には。ここの近くにいたらしくて」


「何だってまた、そんな遅くに」


「それがDJの話だと、どうもあいつ発作起こしてたみたいで」


「発作? ああ……例のあれね」


 訝しそうな顔でキリコさんはそう言っただけだったが、アイネの表情は目に見えて厳しいものに変わった。彼女は一度だけだがペーターの発作を直に体験している。だからそのDJの話の危うさが充分に理解できるのだ。


「それで、DJはテンパってるあの子を無事に家まで送り届けたのかい?」


「いや、うまく反応できないでいたら、そのまま逃げられたとかで」


「なんだい。相変わらず甲斐性がないねあの男は。……いずれにしろこんな繰り言をしてたって埒があかない。のんびり屋の御大を待って、采配を仰ぐしかないね」


 そう言ってキリコさんは大仰に溜息をついた。いつに変わらないその仕草の中に、彼女らしからぬ焦りの色が見える気がした。


 ……だがそれも無理はない。俺がしたDJの話でアイネはすっかり青ざめてしまっている。やはりあんな話はすべきではなかったのだ。


 キリコさんの言う通り、俺たちにできるのは隊長の到着を待つことだけだった。それからしばらくの間、降りしきる雨の音を遠くに聞きながら、俺たちは一言もなく隊長が現れるのを待った。


 扉が重い音を立てて開き隊長がホールの中に入ってきたとき、俺は思わずほっと溜息をついた。中の空気はそれほど息詰まるものになっていたし、少なくともこれで何らかの行動に移ることができる、そんな解放感があった。


 俺は――俺たち三人は、隊長が周囲を眺め回し、ペーターがこの場にいないことを指摘する言葉を待った。けれども隊長は後ろ手に扉を閉めるや、まったく平常と変わらない調子で、「では、早速始めよう」と言った。


「……始めるも何も、その結構な眼鏡の下には節穴でも開いてるのかい? 一人足りてないだろ、どう見ても」


 訝しむような口調で、キリコさんが俺たちの気持ちを代弁した。けれども隊長は平然とした表情を崩さず、「何の問題もない」と静かに呟いた。


「……問題がないわけないじゃないか。あの子が来てないんだよ? この大事な最後の練習にさ。それなのに、いったいどう問題がないって言うんだい……?」


「それに関しては説明させてもらう。重ねて言えば、本日の練習は予定を変更してその説明にあてることにする。そう長くはかからない。異存があるようなら今のうちに言ってほしい」


「異存なんて……」


 それだけ言ってキリコさんの台詞は途絶えた。だがその先に彼女が言おうとしたことは俺にも――そしておそらくアイネにもはっきりとわかった。異存なんてあるはずがない。けれどもいったい、隊長は何を説明しようというのか……。


 そんな声にならない俺たちの声が届いたのかはわからない。隊長は舞台の方へ歩きながら、抑揚のない口調でその説明を語り出した。


「今まで黙っていたのは申し訳ないが、今回我々が行おうとする舞台は、ひとつの遠大なる演劇理念に基づいたものだ。私は今日までその理念を実現するためにあらゆる努力を払ってきた。知っての通り私は今回の舞台を最後にヒステリカを退団する。その最後の舞台に、私の演劇生活の集大成としての理想の現出を求めている。これからする説明は、その私の理想とする演劇を君たちに理解してもらうためのものになる」


 さながら独演劇のように朗々と淀みなく語りながら隊長は通路を下り、舞台への短い階段に足をかけた。そして階段の一段目に右足を置いた姿勢で俺たちを顧みた。


「さて、ここでひとつ尋ねておきたいのだが、君たちは『残酷演劇』という言葉を耳にしたことがあるかな?」


 質問に答える者はいなかった。それを確認して隊長はまた前に向きなおると、こつこつと靴音を響かせて舞台への階段をのぼっていった。


「では説明しよう。『残酷演劇』とは二十世紀中葉の欧州において、詩人でもあったさる演出家によって提唱された演劇理念だ。その理念は実現をみることなく歴史の中に埋没していった。当時の観衆に受け容れられなかったというのがその主な原因とされているが、実のところもっと単純で、興行的失敗は必然ともいうべきものであった。そもそもの前提からして、それはおよそ実現が不可能な演劇だったのだ」


 舞台にのぼった隊長は客席に向かい、胸の前に腕を組んで壁に背もたれた。


「つまり、理論的には見るべきところが多く、事実、後続する前衛劇の隆盛はその流れを汲むものであるが、その具現化は極めて困難な、文字通りの理想論だったのだ。その理念は原点に立ち返ることを意図したものだった。演劇の原点が何かは君たちも知っているだろう。演劇の原点は聖なる祀りの要素であった。洋の東西を問わず、演劇は常に神聖なるものとの対話の場であり、呪術的あるいは魔術的な、実存しないものを実存に導くための儀礼であり祭祀であった。『残酷演劇』とは、そうした演劇の本来的な機能を回復させ、その実現に迫ろうという試みなのだ」


「……話が全然見えてこないよ。頭の悪いあたしにもわかりやすく説明しておくれ」


 あからさまな皮肉をこめたキリコさんの声がかかった。だが隊長は応えた様子もなく、薄く笑いながらまた口を開いた。


「それでは簡潔に話すことにしよう。その理念、『残酷演劇』とはつまり、ありえないものを現出するための演劇なのだ。ではここで言うありえないものとは何か。それは舞台をもって我々が表現しようとする世界であり、役に入った君たちが生きる『もうひとつの世界』だ。君たちは舞台に立ち、それぞれの役を演じる。それにより『もうひとつの世界』を舞台に現出する。そして観客もまたもろともにその世界への参入を果たす。私が現出したいものとはそれだ。それを――それこそを君たちにもよく理解してほしいのだ」


「でも隊長、それって――」


 そこで初めて俺は口を開いた。隊長がなぜこんな説明をするのかわからなかった。だが隊長の言いたいことは理解できた。『残酷演劇』がどういったものであるかも、日曜日の舞台で果たしたいという理想も。けれどもそれは――


「それって、俺たちがずっと求めてきたものじゃなかったのか?」


 心に浮かんだ疑問をそのまま吐きだした。隊長の言っていることは理解できた。難しい言葉ばかりの、ともすれば置いていかれそうな説明だったが俺には理解できた。なぜなら隊長の言うことは俺が――俺たちヒステリカがずっと追い求めてきた即興劇の理想だった。ただどうして隊長が今この場でそんなことを口にするのか、それがわからなかった。


 だが隊長は俺の質問に答える代わりに頭を横に振り、「間違ってもらっては困る」と言った。


「くれぐれも間違ってもらっては困るが、それは我々が今までおこなってきた娯楽や芸術としての舞台ではない。我々がこれからおこなおうとするものは、その範疇を逸脱したものだ。今回の舞台をもって我々が現出しようとするものは、思いこみや錯覚、そうした疑念の一切挟まれる余地のない、真の意味で実存する世界なのだ」


「……俺には隊長の言ってる意味がわからない」


「つまりは実際に手で触れることのできる世界ということだ。『本当にそのような感じがする世界』ではなく、『本当の世界』なのだ。善意の目をもって受け容れ、ある種の錯覚を経てやむなく感じる曖昧で不確実な手触りではない。個人の意思とは専ら関わりなく不可避的に、ちょうど今ここで自分の身体を抓ったときに生じるような文字通り現実的な手触りがそれなのだ。それを現出するために君たちには――」


「いい加減にしておくれ!」


 キリコさんの叫びがホールに響き渡った。説明を断ち切られた隊長は、泰然とした表情のまま彼女を見た。


「さっきから聞いてりゃいったい何だ! ぐたぐたと偉そうにご託を並べて! ほら見まわしてみな! 一人足りないだろ! あの子が朝からいないってのに! 家まで見に行ってもいなかったってのに! そんな大事なこと放っといてどういうつもりなんだい!」


「それについては、何も問題ない」


「何がどう問題ないって……!」


「彼女はもう準備を済ませた。だから一足先に『もうひとつの世界』へ入ってもらった」


 静かな回答だった。その静かな回答にキリコさんは大きく口を開き、だが何も言わずゆっくりと閉じた。俺は口を開くことさえできなかった。開こうという気さえ起こらなかった。


「それが今回の舞台の仕様なのだ。これより君たちにも順次そちらに向かってもらう。細かなところで予定は大幅に変わるが、本質的な変更はないからこれまで通り進めてくれていい。日曜の本番までに準備を終える手はずは、すべてこちらで調える」


 何ひとつ信じられなかった。自分の目にしているものが出来の悪い芝居のように――いや、それよりもずっと現実感のないものに思えて、けれどもそれは疑いもない現実の光景だという矛盾の前に、心がどうにかなってしまいそうだった。


 隊長は冗談を言っているのだろうか? ……そんなことはありえない。この状況で隊長が冗談を言うなんて、そんなことは天地が逆さまになっても――


「……あなたが何考えてるのか知らないけどね、ジャック」

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