121 冷たい唇(4)

「DJかよ。何の用だ?」


 と、俺は言ったが、DJはそれには応えず、それまで繋がれていた俺の手をむしりとるようにしてクララの手を握った。


「はじめまして……ではありませんね。ですがお言葉を交わすのはこれが初めて。どうかお見知りおきを。私はDJという者です。わけあって本名は申せませんがお兄さんなどはそう呼んでくれています。ラジオのDJをやっているんです。小さな局ですが、やる気と生き甲斐を感じています」


「え……? あ、は……はい」


「そういうのは秘密にしておくのが粋だとか言ってなかったか、おまえ」


 そんな俺の指摘を無視し、DJはクララの手を握ったままいよいよ光り輝く目で彼女を見つめた。


「お嬢さん、御名前は?」


「ク……クララです」


「クララ! 素晴らしい名前だ……。可憐で、それでいて気品がある。花のように美しいあなたのすべてを、その名前が表しているようだ」


 聞いているこっちが赤面するような台詞を大真面目な顔でDJは口にする。だいたいこいつはクララという名前に何の疑問も感じないのだろうか。


「そ……そうですか」


「ええそうですとも! クララ……美しい響きだ。清楚で、品格に満ち、懐かしくさえある。クララさんとお呼びしてよろしいでしょうか? それともクーちゃん?」


 ……何の疑問も感じていないのだろう。こいつにとって名前などどうでもいいのだ。たとえ彼女がウメと名乗ろうがホザンナと名乗ろうが、きっと同じ歯の浮くような台詞をそのあとに連ねるのだろう。


「ク……クララと」


「クララ! わかりましたクララ。これからはあなたのことをそうお呼びしましょう。それにしても何という偶然だ……。今日こうしてまたあなたにお会いできたのは神の導きたもうた運命のようだ」


「は……はぁ」


「そう、運命。私たちはきっと結ばれる運命なのです。……いや、失敬。これは少し話を急ぎましたね。差し当たってどうでしょう。この再会を確かなものにするために、どこかで一緒にお茶でも」


「わ……私、もう帰ります! 済みません、失礼します!」


 クララはDJの手を振り払いベンチから立ちあがった。そのまま走り出しかけて、あのときそうしたように一度だけこちらを振り返った。


「それではまた。今日はお話できて嬉しかったです」


 俺に向かい笑顔でそう言って、クララは小走りに行ってしまった。


「あーあ、行っちまった。……何か機嫌損ねるようなことしたかな、おれ」


「あほか。おまえは」


「ん? どういうことだ?」


 あまりのばからしさに返事を返す気にもならなかった。DJは俺の隣、さっきまでクララが座っていた場所に腰をおろした。そして真剣な目でじっと俺を見つめてきた。


「なあハイジ、ひとつ深刻な質問があるんだ」


「……何だ?」


「どうやったらそんなに女にもてるんだ?」


「もてる? 誰が?」


「おまえに決まってるだろ」


「あのな……。俺のどこをどう見たらそんな台詞が出てくるんだ?」


「そうか、おまえ自覚ないのな」


 自覚いかんの問題ではなく、確実にDJの事実誤認だった。若干一名、あからさまな好意を向けてくれる女がいることにはいるが、彼女はそもそもケースが特殊だから参考にはならない。それ以外に思いあたる節はこれといってない。第一、もしDJの言葉が真実だとしたら、なぜ夏を迎えようとするこの時期に、俺の隣には恋人の一人もいないのだろう。


「俺がもてるもてないは別にして、さっきのあれはどうかと思うぞ、正直」


「どこらへんがまずかった?」


「最初から最後まで」


「マジか! しかしあれは、キリコ先生から受けたアドバイスをもとに、必死で編みだしたアプローチ方法なんだが」


「……どんなアドバイスを受けたんだ?」


「最初はとにかく徹底的に誉めろ、と。名前でも容姿でも何でもいいから」


「それ自体はあながち間違いでもない。が、さっきのは駄目だ。キザすぎる」


「それもキリコ先生に言われたことだ! 口説くときの文句は少しくらいキザな方がいい、と」


「……いや、それも別に間違ってないから。というか、どう考えても『少し』じゃないだろ、さっきのは」


「ああ! おれはあの女狐に担がれたのか! 畜生め覚えてやがれ、今度会ったときには!」


「聞けよな……人の話」


 DJは動物的なうなり声を発しながら、目の前のものを揉みくちゃにするジェスチャーをして見せた。空想の中の相手がキリコさんだとしたら八つ当たりにもほどがある。そのあたりをわからせてやりたい気もしたが、面倒くさいのでやはり止めておいた。口ではどう言ってもDJがキリコさんに手をあげるわけなどないし、いざ議論となれば返り討ちに遭うのがオチだ。あるいはそれでDJの誤った認識が正されるかも知れないし、あえて俺がここで可能性の芽を摘むこともないだろう。


 三分もしないうちにDJの錯乱は治まった。同じ状態が長続きしないというのがこの男の良いところでもあり、悪いところでもある。少し疲れたように溜息を吐いて、「まあ百戦錬磨のあの女のアドバイスじゃ、おれの手には余るか」と呟いた。


「……百戦錬磨? 何のことだ?」


「ん? キリコ姉さんのことだけど?」


「どういう意味だよ」


「一般的によく使われてる意味だ。おまえ噂とか聞いたことないのか」


「噂……というと?」


「キリコ姉さんのに関する噂だよ。今はめっきり大人しくなったが、ひところは凄かったらしいぜ?」


 こともなげに、天気について話すようにDJはそう言った。……にわかに黒い感情が胸の奥にこみあげてくるのを感じた。その感情の正体は何となくわかる気がした。俺は突き動かされるように、「そんなわけないだろ」と呟いた。


「いや、まんざら出鱈目でもないらしいぜ? おまえも知ってると思うが、ヒステリカも昔はもう少し人間がいたんだ。おれ、その頃からちょくちょく出入りしてたから耳にする機会も多かったんだけど――」


「ああ、まあいいよ。本人のいないとこでそういう話をするのは好きじゃない」


「む……そうか。それもそうだな」


 DJはそう言って口を押さえ、黙った。だがDJが喋るのを止めても、俺の心にかかった黒い霧は晴れなかった。その噂がどういうものだったか、DJの話の続きを聞いてみたい気もした。だがそれ以上に俺は、どうあってもその続きを聞きたくはなかった。


「だからまあ、おまえに惚れてんじゃねえのかと、おれはそう思うわけさ」


「……何の話だ?」


「キリコ姉さんの話だよ」


「あのな。どういう脈絡でそうなるんだ」


「簡単なことさ。あの人のそういう話がからっきしになったのは去年の春――つまり、ちょうどおまえが入ってきたあたりだからな」


「……そうなのか?」


「ああ。それに見た感じ、その頃から誰ともつきあってないようだしな。そのあたりに関するおれの観察眼はてんでなってないから、あまり当てにはならんかも知れないが」


「まあ……別に、俺はどうでもいいけど」


 そう言いながらも、胸の奥に巣食っていたもやもやが急速に消えていくのを感じた。……まったく現金なものだと思った。そんな俺の心境の変化などまったくお構いなしにDJはまた口を開いた。


「いずれにしてもだ! おまえには劇団の外にまで手を伸ばしてほしくないんだよ、おれとしては」


「……と言うかだな。おまえも知ってるように、ヒステリカは団内の色恋沙汰は御法度なんだが」


「聞く耳もたんな! アイネは誰がどう見てもおまえに惚れてるし、さっき言ったように姉さんもおまえに参ってる。それにあのペーターって子も……」


 そこでDJは唐突に台詞を切り、両手を口の前に組んで真剣な表情を作った。


「……ん? どうした?」


「実はおれ、悩みがあるんだけどさ」


「悩み? おまえにも悩みなんてあるのか?」


「ああ……おれにだって悩みのひとつくらいある。あのペーターって子のことなんだが……」


 真剣な表情を崩さないまま、DJはまた言い淀んだ。その様子に俺はひらめくものがあった。DJの悩みというのはつまり……。


「ひょっとして……あいつに惚れたとか?」


「え……? いや! そうじゃねえよ。悩みってのは……そのまったく逆でさ」


「逆?」


「おれ、あのペーターって子に嫌われてる気がするんだ」


 普段は決して見せない寂しげな顔でDJはそう言った。俺はすぐに否定の言葉を口に出そうとして――それを呑みこんだ。


 ……たしかにそう言われてみればそうだ。ヒステリカに入ってもう半年、ペーターがDJと顔を合わせる機会も数え切れないほどあったが、その中で二人が喋っているのを見たことはほとんどない。DJはいつもあの調子で喋りかけるのだが、ペーターはその話題をすぐ別の人間――というより俺に振ってしまう。結果、ペーターとDJの間に会話は成立しないのだ。


 けれども俺は少し考えて、そうではないと思った。そう……別にDJはペーターに嫌われているというのではない。


「おまえが嫌われてるってことはない」


 俺がそう言うと、DJは疑わしげな目でじっと俺を見つめてきた。


「……気休めで言ってるんじゃねえの? おれはあの子とまともに話してさえもらえないんだぜ?」


「と言うか、それはDJに限ったことじゃないし」


「……どういうことだ?」


「あいつは俺以外の男とは、ほとんど誰ともまともに喋らないんだよ」


 ――高校の頃からそうだった。ペーターはまるで操でも立てているかのように他の男とはろくに会話をしなかった。


 もっともそれは男に限った話ではなく、そもそも俺以外の人間と喋らないのだ。アイネやキリコさんとはうまく会話しているようにも見えるが、それはあくまで俺が居合わせる場合だけで、思い返せば以前アイネからも、これと似たような悩みの相談を受けたことがあった。


「だからおまえが特別に嫌われてるってことじゃない。安心しろ」


 そう言ってしまったあと、俺はまたこれでDJにからかわれると思った。さきほどのDJの話題に関して言えば、ペーターだけはそれこそなのだ。


 ただ俺とあいつの間にあるものは好意の一言で言い表せるような単純なものではなく、複雑に絡み合って既に因縁に近いものになっている。これまでDJには黙っていたが、そんなに聞きたければこの際、すべてを話してやろうと決心した。


 だがDJから返ってきたのは、「いや、おれはやっぱり嫌われてる」という消沈した声だった。


「考えすぎだっての。あいつはそもそも――」


「違うんだ。……まあ聞いてくれ。おまえの他の男とは話さないと言っても、ただ話さないだけなんだろ? おれのは違うんだ」


「……何がどう違うんだよ」


「ああ、昨日の夜のことなんだけどな。おまえの家の近くを歩いてるとき、彼女に会ったんだよ」


「へえ……って、昨日の夜あいつに会ったのか!?」


 そう言って思わず立ち上がる俺を、DJは眉をひそめた意外そうな表情で見た。


「……何をそんな驚いてんだよ。あそこなら会っても別に変じゃないだろ?」


「いや……そうだな。続けてくれ」


「ああ、おまえんとこの商店街の出口だったな。十一時頃そこ歩いてたらあの子が道の脇にうずくまってたんだ。うずくまってたというか、しゃがんでるというか……とにかくそんな感じだった」


「……それで?」


「それでまあ、時間が時間だったから、心配して声かけたんだ。そしたらその……よくわからないんだが、にこにこ笑い返してくるわけよ」


「何の問題もないじゃないか」


「わかってねえな。そりゃおまえにとっては問題ないだろうが、おれはあの子とろくに話したことねえんだよ。そういう子に夜道で声かけて笑い返されるってのは、あまりぞっとしねえもんだぜ? それに――」


「……それに?」


「……それにこっちが何言ってもまともに返事してくれねえんだよ。なんか、変なことばっかり言っててさ……」


「……たとえば、どんな?」


「たとえば……そうだな。『こうして会うのは久し振りですね』とか言うんだよ。『私は言う通りにしています。そちらは順調に進んでいますか?』とかさ……」


「何だ……それ」


「おれに聞かれてもわからねえよ。あと、『今は夜だから鳥たちはみんな眠っています』とか言ってたなあ」


「……他には?」


「いや、あまり覚えてないんだ。なにしろ柄にもなく混乱してたからなあ……。なんにも言えずに固まってたら、あの子は笑顔のまま手ぇ振ってどこかへ行っちまったよ……」


 そう言って言葉を切るDJの浅黒い顔に影がさした。見上げればいつの間にか厚い雲が広がり、太陽を隠して空を埋め尽くそうとしていた。


「なあ、これっておれが嫌われてるってことじゃないか? 何がいけなかったのかなあ……」


 ぶつぶつ独り言を呟いているDJに適当な相槌を打ちながら、俺はDJの言うそのペーターの話について考えた。


 ……真っ先に考えられるのはまたあの発作を起こしていたということだ。DJが聞いたというペーターの言葉は、いかにもあいつが発作を起こしているときのそれだし、まともな言葉が返ってこなかったのもそれで説明がつく。それに発作を起こしているときペーターは無意味に笑うことが多いから、そのあたりの辻褄も合う。


 ……しかしペーターはなぜ発作など起こしていたのだろう。今まであいつが発作を起こすところは何度か見たことがあるが、それは決まって俺絡みの……たぶん嫉妬を引き金とするものだった。それ以外の原因であいつが壊れたところは見たことがない。……あるいは俺が知らなかっただけで、他にもあいつの発作の引き金となるような何かが存在するということなのだろうか……。


「――なあ、どう思うよ?」


「……え? あ、何の話だっけか」


「かあ! おれが彼女に嫌われてるかどうかって話だろうが」


「そいつはまあ、杞憂だと思うが」


「でもだな。それなら昨日の夜のあれは何だったんだ?」


「……芝居の稽古でもしてたんだろ、きっと」


「はあ? あんな場所でか?」


「ところ構わず役に入っちまうのがあいつの悪い癖なんだよ。練習熱心なのはいいんだけどな」


「え? ああ、そうなのか?」


「役に入っちまうとしばらく戻ってこないからな。そういうとき何を話しかけても電波な返事しか返ってこない」


「なるほど、そうか。それなら納得がいくな。そうかそうか、おれは別に嫌われていたわけじゃなかったんだな」


 適当にこの場を取り繕うための俺の言葉に、DJは心から納得したようにうんうんと頷いて見せた。その様子に少しだけ胸が痛んだが、とりあえずはこれでいいのだと思った。


「いや、安心した。これで大腕振って日曜の舞台が迎えられそうだ」


「ん? 今の話と舞台と、どういう関係があるんだ?」


「関係も何も、舞台がなけりゃあの子に嫌われてようが気にしねえよ。おれはヒステリカのメンバーじゃねえし、そう考えりゃ赤の他人だしな。ただ一緒に舞台をやるとなると話は別だ。変なしこりを残したままじゃいい舞台は作れないからな」


 そう言ってDJはからっとした陽気な笑顔を見せた。俺は内心に溜息をついて、やはりこれでよかったのだと思った。


「それじゃ、おれは用事があるから」


「ああ、また明後日だな」


「おう、また明後日」


 重かった会話はそんな軽い挨拶で幕を閉じた。DJはひらひらと片手を振りながら校舎の谷間に呑みこまれていった。俺も好い加減ベンチから立ち上がろうとして――けれども立ち上がることができなかった。


 なぜ立ち上がれなかったのかわからない。DJが語ったペーターの話は尾を引いていた。それを妖しく不安に感じる気持ちはたしかにあった。だが俺を足止めしたのはもっと別のものだった。


 ……俺はどこかで歯車が回り始めるのを感じた。いや正確には、どこかで歯車が回り始めていたのを知った。曖昧で漠然として、不確かな予兆にも似た感覚。だがその感覚に収束したはずの混乱がぶり返し、俺の頭の中は乱れに乱れた。


 答えの出ない堂々巡りを何周繰り返しただろうか。不意に鼻の頭に冷たい感触を受け、思考は打ち切られた。


「――雨だ」


 大きな雨粒がひとつ、またひとつと地面を黒く染めていった。たちまち本降りになった。呪縛から解き放たれた俺は、鞄を頭に載せ這々の体で交流会館に駆けこんだ。

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