120 冷たい唇(3)

 ――結局、キリコさんの件も宙ぶらりんになっている。


 一昨日の夜、彼女がどんな思いであの古い契約を口にしたのか、俺は未だにわからない。もっとも、それはそれでいいと思う。このまま舞台が終わるまで何もないのが一番だと、俺はそう考えている。


 ……だがその一方で、キリコさんがくれた言葉に何らかの答えを出すべきだと考える自分も、たしかにいる。ならば、その答えとは何か?


 それを考えると俺の頭はまたぐるぐると回り出す。そうして身体の奥に、鈍い熱がおこるのをはっきりと感じる。


 その手のことに関しては淡泊な俺だが、かといって聖人でもなければ君子でもない。充分に綺麗だと思える女性にいつでも抱いていいと告げられて、それに何も感じないでいられる男などいない。真性のゲイか、あるいはどこか精神を病んでいるのでなければ。


 ……キリコさんと話したい。無性にそう思った。できれば彼女を問い詰めて何もかも聞き出したい。なぜ今さらあんなことを口にしたのか。なぜ昨日の夜、あんな場所で何年も前の舞台を再演していたのか。


 ――そして問題はまた昨夜のことに戻る。今朝からもう何度繰り返したかわからない自問。あれは本当の出来事だったのだろうか。それともやはり、幻か何かだったのか。


 ……ただ朝練で見た隊長とキリコさんは正常だった。ペーターが来ないという異常はあったが、その異常を前にしての二人はまったく正常だった。それを考えれば昨夜のあれは幻の線が強い。けれどもその幻の中で姿を消したペーターは、今も消息を絶ったままだ。


 ……まさかという思いはある。そんなことは起きるはずがない。けれども……けれども、もしペーターが午後の練習に来ないようなことがあれば……。


 急に視界が狭くなった気がした。目の前の風景からゆっくりと色彩が失われていくような感覚があった。……そんなことは起きるはずがない。昨日はたまたま急いで帰っただけだ。朝練を休んだのも偶然で、家にいなかったのも――


 ……腑に落ちるところがありすぎる。そんなことはありえないと思う心の裏で、ペーターはたしかにあれで消えてしまったのだという確信に近いものがある。俺は何を考えているのだろう。人が消えていなくなってしまうなんて、そんな夢物語……。


「……?」


 ふと、何かを忘れているような気がした。どこかで引っかかるものがあった。目をつぶりしばらく考えて、俺は不意にそのことに思い当たった。


「そう……リカだ」


 リカのことを忘れていた。


 バスの中でアイネは、リカはあれからいなくなったままだと言っていた。


 ……考えてみれば、あいつがいなくなったときも同じだった。断りもなく会議を休んで、姿を見せなくなったのはそれからだった。……そう、ペーターと同じようにあいつも何の予兆もなく消えたのだ。そのすぐ前には休講になった教室で、愚にもつかないような会話を俺と交わしていたのに……。


「……」


 ベンチの隣。誰もいないそこに、リカの幻がまだ座っている気がした。いつもの人を食ったような微笑で俺の顔を眺めて。


「……まだいたのか」


 思わずそう口にすると、リカは大袈裟にわざとらしく唇を尖らせた。


 ――何それ、まるで私がここにいちゃいけないみたいな言い方。一昨日はあんな情熱的に町じゅう捜し回ってくれたのに。


「ああそうだよ。……まったく世話のやける」


 ――世話がやけるのはどっちかな?


「はあ……? 俺がいつおまえに世話をやかせた」


 ――今さっき。あんな深刻そうな顔で悩んでるんだもん。見てられなくてさ。


「……」


 幻のリカはそう言って笑った。そうして音も立てずベンチから立ち上がった。


 ――さて、そろそろ行かなくちゃ。


「どこへ行くんだ?」


 ――ハイジ君の知らないところ。


「と言うか、おまえ今どこにいるんだよ」


 ――だからハイジ君がまだ知らないところ。


「顔見せろよ、アイネも心配してるし」


 ――それはハイジ君が慰めてあげないと。


「待てよ。舞台はどうするんだ。約束だろ、裏方やってくれるって」


 ――大丈夫、約束は守るよ。ちょっと先に行って待ってるだけ。それじゃまたね、ハイジ君――


「待てよ……。おい待てって!」


 立ち上がりそう叫んだあと、俺は我に返った。


 向かいのベンチで昼寝をしていた男が半身を起こし、苛立たしげにこちらを睨んでいた。俺は軽く頭を下げ、頭を掻きながら座り直した。


 ……どうやら昨夜のあれは幻で間違いないようだ。こんな白昼夢を見るなんてどうかしている。やはり俺は疲れているのだろう。練習までまだ時間はあるし、小屋に戻って昼寝でもしようか……。


 そう思い頭をあげた視界の隅に、ぱっと目を引く鮮やかな色が入った。艶やかな着物に身を包んだ少女――いつか見た隊長の妹が日溜まりの中を歩いているのが見えた。声をかけようか迷っていると、向こうの方で俺に気がついたらしく、優雅な物腰で真っ直ぐこちらに歩いてきた。


「ここにいらしたんですか、お兄様」


 ……俺の前に立った彼女は、晴れやかな笑顔でそう言った。もちろん、俺は固まった。聞き違えたのだと思った。だがそんな俺に追い打ちをかけるように、彼女は不思議そうな顔をして、「どうしたんですか? お兄様」と言った。


「目が……悪いとか?」


「目? 私の目ですか? いいえ、悪くなんてないですよ。両目とも野生の獣なみです」


「へ……へえ。そうなのか。それは凄いな」


 眼鏡のかけ忘れとか、そういうことでもないようだった。それを確認して俺の混乱はさらに深まった。……隊長のことを尊敬はしている。だがあの特異な風貌には常々疑問を感じていたわけで、あれと間違えられるというのは強い衝撃であり――言葉は悪いが屈辱ですらあった。


「どこをどう見れば俺を……お兄さんと間違えたりするんだろうな」


「何言ってるんですか。私がどうしてお兄様を別の方と間違えたりするんですか? 実際こうしてお兄様は――じゃなかった」


 そこで彼女はしまったという顔をして手を口に当てた。端正な顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていった。


「ああっ! 間違えました! ごめんなさい! ごめんなさい! どうか今のは無しにしてください! お願いします!」


 紅潮が臨界に達したところで彼女はいきなりそう捲し立てた。昼寝をしていた男が飛び起きるのが視界の端に映った。


「こ……声がでかいって」


「本当に! 早とちりしただけなんです! 全然そんなつもりはなかったんです! ですからどうか今のは無しに!」


「わかった……わかったから」


 俺は彼女の傍まで寄り、ほとんど手で口を塞ぐようにして必死に勢いを止めた。その甲斐もあってか、彼女はすぐに落ち着きを取り戻し、幼い子供のような上目遣いで「本当に無しにしてくれます?」と言った。


「……ああ、無しにする。約束するから」


「絶対ですよ? 約束しましたからね?」


 そう言って右手の小指を差し出してくる。何て古風なことを……。そう思いながらも俺は同じように右手の小指を差し出し、驚くほど細くしなやかな彼女の指と絡めた。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った」


 もう半分忘れかけていたフレーズを共に口ずさんで指を離した。そこで彼女は気持ちを切り換えたのか、最初の笑顔でまたにっこりと微笑みかけてきた。


「これでもう問題ありませんね」


「ああ。もう何の問題もないな」


 どういった基準で俺を隊長と取り違えたのか聞いてみたい気はしたが、やはり止めておいた。もうあれはなかったと指切りをしたから、あれはなかったことなのだ。それに、風貌に関して隊長と似たところを実の妹の口から克明に告げられるというのも……それはそれで恐ろしい。


「ハイジさん……でよろしかったですか?」


「え? あ、はい。そうだけど」


 そう言ってしまってすぐ本名を言えば良かったと後悔したが、まあいいと思い敢えて訂正はしなかった。ハイジの名はこの前の用事とかのあとで隊長が教えたということなのだろうか。コードとはいえ一度しか顔を合わせていないのにちゃんと覚えてくれていたのは、正直、少し嬉しかった。


「隊長の妹さん――は、名前なんていうの?」


「私ですか? 私はクララです」


「ク……」


 思わず絶句した。またしても聞き違えたのかと思った。


「……クララ?」


「はい。クララです。よろしくお願いします」


 そう言って彼女は慇懃に一礼した。からかわれているのかとも思ったが、彼女の目はどうもそうは言っていなかった。……コードということなのだろうか。団員にはその名を使えと隊長に言い含められたということならわかる。しかしクララとは……。あの隊長のネーミングにしてはなかなか気が利いている。


「ペーターがここにいればな」


「え? 誰ですかそれ」


「いや、何でもない。クララね。もう覚えた」


「はい。クララと呼び捨ててもらって構いません。私はハイジさんと呼びますね、ハイジさん」


 そう言ってクララはまた笑って見せた。こうして会話するのは初めてだというのに屈託がない。一昨日、交流会館に隊長を呼びに来たときはずいぶんと冷たい印象があったが、やはりあのときは緊急の用事とやらで急いでいたということなのだろうか。


 ベンチに並んで座る俺たちを道行く人々がちらちらと横目に見ていく。理由は言うまでもない。白地に赤い椿をあしらった袖が短い着物は、詳しくは知らないが小袖と呼ばれるものだろうか。服装に頓着しない朴念仁の多いこの大学構内において、隣に座る少女はいかにも艶やか過ぎる。


「クララは、ここの学生?」


「いいえ、違います」


「だろうと思ったけどな。今まで見なかったし。なら普段は何やってる人なの?」


「普段はお父様……いえ、お兄様のお手伝いをさせてもらってます」


「隊長の? 何の手伝い?」


「済みません。それはお兄様に口止めされていますので……」


 そう言ってクララは申し訳なさそうな顔をした。隊長の謎に迫る良い機会だと思ったのだが、そういうことなら仕方ない。あの人も聞かれたくないようなことを言っていたし詮索は慎むべきだろう。俺は彼女自身のことに話題を移すことにした。


「敬語使ってくれてるけど、普通にため口でいいよ。隊長の妹さんってことは、歳も同じくらいだと思うし」


「そんなことできません。目上の方ですし、それに私はお兄様よりはずっと年下ですよ?」


「……そのあたりは見ればわかるよ」


 話し始めたときからそうだったが、いまいち会話が噛み合っていない気がする。俺と同じくらいかと言ったのに隊長を引き合いに出すことはないだろう。抜けているというのではないが、少し変わった子なのかも知れない。あの隊長にしてこの妹ありといったところか――などと少し失礼なことを考えた。


「それにしても、隊長から妹だって聞かされたときは驚いた」


「え? どうしてですか?」


「顔とか全然似てないから」


「それはそうでしょうね。母親が違いますし」


「げ……やっぱそうなのか」


「はい。でもお兄様は、私にとってたった一人のお兄様ですよ?」


 隊長が言い渋った理由がよくわかった。そんな理由があるなら無理はない。これ以上踏みこんではならないと思った。俺は急いで別の話題を探した。


「クララはここの学生じゃないんだよね」


「はい。違いますよ?」


「それなら今日はどうしてここに?」


「……そうですね。名残を惜しむためでしょうか」


「え?」


 クララの表情がわずかに憂いを帯びた。穏やかな夏の風が黒髪をそっと揺らしていった。


「もうすぐここにも来られなくなりますから」


「それは……どこかに引っ越すということ?」


「はい。そんな感じになります」


 腑に落ちるところがあった。彼女は隊長の手伝いをしているという。その彼女が引っ越すということは……つまり、そういうことだ。隊長が今回の舞台で引退する理由も、その辺にあるのかも知れない。引退したあとも隊長はヒステリカに顔を出してくれるものと高をくくっていたから、クララの話は俺にとってショックだった。


「そうか……残念だな」


「え? 何がですか?」


「隊長が引っ越すのが残念。あ、いや……クララもだけど」


「残念なんてことありません。いつでも会えますよ」


「そういうわけにもいかないだろ。……そうだ。今度の舞台は観に来てくれる?」


「いえ、観るというか、それには参加しますから」


「参加……!?」


「え? あ、はい……裏方で」


「裏方って……何の?」


「そ……その、メイク」


 そう言ってクララはまた上目遣いで見つめてくる。メイクの裏方……。メイクに裏方がいるのだろうか。今回の舞台で途中でメイクを変更するような演出はないから最初だけだ。ドーランを塗って、アイシャドウ、ハイライト、ローライト……それで終わりだ。俺のメイクに補助など必要ない。ひょっとしてアイネたちには必要なのだろうか? 控え室はいつも別だから、そちらの事情まではわからない。しかし――


「月曜日が裏方の会議だったんだけどな。出席してなかったけど、隊長から聞いてなかった?」


「それが……その、急に頼まれたんです。お……お兄様に」


「なるほど」


 そういうことなら何か新しい展開が持ちあがったのかも知れない。メイク補助が必要なものというと想像がつかないが、隊長のことだからまず間違いはないだろう。


 そこまで考えて、俺は隣に座る少女に向かい右手を差し出した。


「どうかよろしく。一緒に頑張って、いい舞台にしよう」


「え? は……はい!」


 俺の差し出した右手を、クララは両手で握りしめた。その慌てた様子が可笑しくて笑いそうになったが、もちろん笑わなかった。彼女と一緒に作る舞台は、これが最初で最後。文字通り一期一会の舞台だ。その大切な舞台をおろそかにはすまいと、彼女と握手しながら俺は強く心に刻んだ。


「おやあ? これはこれは」


 ――聞き慣れた声が感動のシーンに水を差した。DJだった。

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