119 冷たい唇(2)

「……何か変じゃない?」


「ん?」


 帰りのバスはがらがらだった。俺とアイネは一番後ろの席に一人分の間を空けて座っていた。ときどき思い出したように次の停留所を告げる声が、車内に気怠い空気を醸していた。


「変って、何が?」


「……色々と。リカもいないし」


「え?」


「やっぱりいない。あれからずっと」


 土埃の浮く窓の外には代わり映えのしない風景が流れていた。ぼんやりとそれを眺めながら、アイネはしばらく何も言わなかった。その沈黙はどこか俺を責めているようにも感じられた。


 俺は内心に溜息をつき、それでもアイネが口にした言葉について冷静に考えた。


「彼氏にあたってみるか。……あまり気が進まないけど」


「もう当たった」


「え?」


「一昨日、最初にあたったのがそこだし、昨日も午前と午後の二回」


「あいつ、何て言ってた?」


「何も。……と言うより、いなかった。昨日も一昨日も」


「……」


「色々おかしい。こんなの、絶対に変」


 そう言ってアイネはまた沈黙した。その沈黙に、今度は俺も呑まれた。


 ……たしかにそうかも知れない。色々おかしいというアイネの指摘は的を射ている。考えてみれば――いや、考えるまでもなくここのところ、俺たちのまわりではおかしなことばかり起きている。


 リカが無断で会議を欠席したことからしてアイネにとっては充分におかしなことだったのだろう。そればかりかどこを捜しても見つからず、連絡もとれない。恋人の家ももぬけの殻だという。これはたしかにおかしい。


 けれどもアイネのそれはまだ生易しい。俺のここ数日はそれどころではなく、本当におかしなことの連続だった。


 一昨日はラブホテルの壁越しにリカたちの異様な会話を聞き、昨日はふらりと迷いこんだ裏通りで三年前の舞台を見た。まるで白昼夢か何かだ。実際、何度かそう考えはした。……だがどうやら、それは単純に幻と片づけていいものでもなさそうだ。


 そこで、俺はペーターのことを考えた。……祭囃子を耳にした黄昏の通りに、思わせ振りな言葉を残して忽然と彼女が消えたこと。


 あれもたしかにおかしな出来事だった。そう――あれは充分におかしな出来事だったのだ。


 ひとたびそう考え出すと、異変だらけの一連の現象に埋もれて見過ごしていた小さな異変が、化け物のように大きく膨らんでいつまでも頭から消えない。あれはいったい何だったのだろうか。今のこの状況と何か関係があるのだろうか――


「……何かあったの?」


「ん?」


「あの子と」


「あの子って誰だよ?」


「ペーター」


「何もない。朝もそう言っただろ」


「でも何か隠してる」


 そう言ってアイネはこちらに視線を向けた。いつものアイネらしくない、ぼんやりと虚ろな色を映した目だった。その目と正面から向き合うのをなぜか苦しく感じ、俺はわずかに視線を逸らした。


「証拠でもあるのかよ」


「そこで目、逸らすのが証拠」


「……大した証拠だな」


「わたしにも話せないようなことなの?」


 心なし寂しげな声でアイネが呟いた。その一言に、少しだけ胸が詰まる思いがした。


 二人きりの同期ということもあって、俺とアイネはずっと隠し事なくやってきた。他の三人には話せないようなことも、俺たちの間ではきちんと話し合ってきたのだ。


 ……けれども昨日のことは話すべきではない。あれが幻だった可能性は捨てきれないし、いたずらにアイネを混乱させるだけだ。そんな不確かなことを説明してもはじまらない。そう思い、俺は慎重に言葉を選んだ。


「――少なくとも、アイネが思ってるようなことは何もない」


「わたしが思ってるようなこと、って?」


「だから……そういうことだよ。だいたいこんな舞台前のせっぱ詰まったとき、変に動いたりするかよ」


 俺がそう言うと、アイネは「ふうん」と曖昧に応えて、窓の外に視線を戻した。それきり何か考えているようだったが、やがてこちらを見ないまま独り言のように呟いた。


「そんなときだから、ってこともあるんじゃない?」


「何の話だ?」


「ハイジが思ってるような話。……舞台前のせっぱ詰まったときだから、色々と起こりやすいんじゃない?」


 窓の外を眺めながらの、素っ気ない物言いだった。けれどもアイネがこうしてことさらに素っ気ない態度をとるときは、何か思うところがあるときに決まっている。……どうしても俺がペーターと何かあったと思いたいのだろうか。かすかな苛立ちを感じはしたが、ここでアイネと衝突するほど愚かなことはない。


「まあ、そうかもな。でも俺はちゃんと守ってる。それは信じてくれ」


「守ってるって、何を?」


「あの黴の生えた規則を、だ」


「……そう」


 それだけ言ってアイネはまた唇を閉ざした。だがほどなくしてふと思い出したように、「あの規則はもう廃止した方がいいかもね」と呟いた。


「……ああ、俺もそう思う」


 そう相槌を打ちながら、なぜアイネがそんなことを言い出したのか疑問に感じた。だから俺はかねて考えていたことを、あえてここで彼女にぶつけてみることにした。


「そうしようと思ってる」


「え?」


「俺が隊長になったら、あの規則を廃止しようと思ってる。それについて、アイネはどう思う?」


「……うん、それでいいと思う」


 相変わらず素っ気ない調子でアイネは言った。それから少し間があって、「そうしたら、もういいね」とつけ加えた。


「ん?」


「あの規則を廃止したら、もう気兼ねなくあの子とつきあえるね」


「俺があいつと? あるわけないだろそんなの」


「それで歯止めかけてるって言ってなかった?」


「表向きはな。根っこでは違うんだよ。あいつは高校の頃から何も変わってないし、規則を取り払ったところでどうにかなるとは思えない」


「そう。あんなに慕われてるのにね」


 まだ何か言いたいことがあるのか、乾いた声でアイネは呟いた。いい加減苛立ってきた俺は、ふと心に浮かんだままを口に出した。


「つき合うにしたって、どうせならキリコさんあたりとつき合うさ」


「それは止めた方がいいと思う」


 その声に、俺は思わずアイネを凝視した。荒々しい声でも、低く冷たい声でもなかった。ただその声にはどこかそうさせる張りつめたものがあった。半ば無意識に「どうして?」と俺は尋ねた。


「止めておいた方がいいと思うから」


「だから、どうしてだよ」


「どうしても」


「キリコさんのこと嫌いだったのか?」


「嫌いじゃないけど……。そうね、嫌いなのかも」


 依然として窓の外を眺めたままアイネはそう言った。それが彼女なりの擬態であることはわかっていたが、なせだろう、そんなアイネの言葉に俺は反発を覚えた。ぼんやりした怒りのようなものがもやもやと胸の奥に沸き起こってくるのを感じた。


「まあ、キリコさんはもうヒステリカを辞めるわけだから、規則を廃止しなくても俺はつきあえるけどな」


「ハイジがあの人とつきあったら、わたしヒステリカ辞めるから」


 一瞬、心臓の鼓動が跳ねあがり、すぐにまた静かになった。


 今度こそ俺は目を見開いてアイネを睨んだ。窓に目を向けたままの横顔をしばらく見つめた。だがその横顔からは、何の感情も読みとれなかった。


「……アイネの台詞とは思えないな」


 どうにかそれだけ絞り出すと、俺はアイネから視線を外して正面を向いた。


「ごめん、取り消す」


 と、か細い声が隣から聞こえた。もう一度そちらに目を向けた。ぞっとするほど青ざめた、無表情な顔がそこにはあった。そのまま見ていることに耐えきれず、俺はまた正面に視線を戻した。


「……ごめん、本当に」


「もういいよ。忘れた」


 会話はそれで終わりだった。俺たちの他に誰も乗っていない車内には、鈍いディーゼルエンジンの音だけが残った。


 大学前の停留所まではもうあと二つだった。だがこのまま降りずに一人どこか遠くへ行ってしまいたいと、ぐしゃぐしゃに乱れてまとまらない頭で俺はそう思った。


◇ ◇ ◇


 昼下がりの庭園は微睡むような陽気の中にあった。


 実際、ベンチに横たわって午睡する人の姿も目に入る。真上まで上りきった太陽の下、コンクリートの歩道には木漏れ日の光彩がゆったりと揺らいでいる。


 疑いもない夏の景色だった。いよいよそのあおさを増す芝生も、辺りの木々も、新しい季節を迎える準備にもう怠りはないようだった。


 ……だがその瑞々しい情景も、今の俺の目にはひどく虚ろなものに映る。季節は俺を残して移り変わってしまった、そんな印象さえある。


 ――バスを降りたあと、アイネとは交流会館前ですぐ別れた。夕方の練習について二言三言かわしはしたが、それだけだった。アイネとぎくしゃくするのはそう珍しいことでもない。むしろ茶飯事と言っていい。……だが今回に関しては、いつもとは少し様子が違う気がする。


 気のない素振りで何かを聞き出そうとするアイネも久し振りといえば久し振りだった。


 素っ気ない態度自体は高校で顔を合わせていた頃から変わらないあいつの基本モードだが、大学に入って密につき合うようになり、その板についた態度があからさまにときがあることを知った。それは彼女が何かを聞き出そうと、擬態としてそれを使うときだ。


 そういうときのアイネは、今ではほとんど反射的に察知することができる。自分で気づいているのかわからないが、見ている方が恥ずかしくなるほどな演技なのだ。


 あいつは舞台の上ではそつのない良い演技をする役者だが、そこから降りてしまえば大根もいいところで、間違っても詐欺師や会社の営業にはなれない。リカやキリコさんの口からも、さらにはDJからさえも、そんな感想を聞いた覚えがある。


 アイネは今日、いつになく意固地になっていた。あんなにむきになったアイネを見たのは初めてかも知れない。一体、何をあんな意固地になっていたのだろう……。そう考える俺の耳に、『わかっているくせに』という茶化したような声が届いた。リカの声だった。


 ――何も考えることなんてないじゃない。わかってるんでしょ? ハイジ君。


 思わせぶりな笑みを浮かべるリカがベンチの隣に座っている……そんな気がした。どれだけ繰り返したかわからない遣り取り――いつもなら真っ向から反論するその言葉に、今の俺は力なく苦笑で返すしかなかった。


 リカの言葉通り、普通に考えれば答えは簡単に出る。アイネの見せたあの態度は俺への好意と、それゆえの嫉妬ということになる。


 ……実際、そう考えることもできる。口に出したりはしないが、俺たち二人の間に好意と呼ばれるものがまったくないと言えば、それは嘘になる。俺はアイネのことをいい女だと思うし、好意もそれなりに持っている。あいつの感情については推測の域を出ないが、おおかた似たようなものと考えて間違いはないのだろう。


 けれども俺たちの間にある好意は、嫉妬をもたらすような類のものではない。……漠然とだが、そう信じていた。少なくとも俺の方ではそうだった。


 たとえばアイネがDJとつきあうことになったとして、それを聞けば俺は驚くだろうが、嫉妬はしない。素直に祝福する気持ちになるだろうし、その新たな関係を肯定的に受け止める。男としてDJに嫉妬するようなことは、きっとない。


 ――本当にそう? そんなこと言っちゃっていいの?


 本当にそうだ。それは断言できる。


 ……それに、よく考えればやはり違う。アイネのは嫉妬によるものなどではない。その証拠に、ペーターについてあれこれ言っていたとき、アイネは何でもなかった。むしろくっつくのを煽るような言い方さえしていた。


 それがキリコさんの話に移った途端、ああなった。そこには何か別の要素があると考えなければ、辻褄が合わない。


 ――それは可能性の問題。ハイジ君、そっちの子とは何があってもつき合わないんでしょ?


 まあ……そうだ。たしかに俺は何があってもペーターとはつき合わない。


 つき合う可能性ということなら、キリコさんの方がずっと高い。一度は告白までした人なのだ。容姿が好みということも大きいが、あけすけでのいい物腰を見せる裏で、大事な場面では驚くほど細やかな気遣いのできる人だということを、俺は知っている。キリコさんと恋人になれるなら、それは素晴らしいことだと考える自分は、今もたしかにいる。


 心の海に沈めたはずの思いだった。もう二度と日の目を見るはずのない……。だがここへきてにわかに浮かびあがってきたその思いは、ごたごたでなりを潜めているが消えてはいない。再び沈めようと躍起になっても、どういうわけか昔のようにうまく暗い海の底に沈んでいってはくれない――

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