118 冷たい唇(1)

 ――暑さの中に目覚めた。


 全身にじっとりと汗をかいているようで、服が肌に貼りつく感触が不快でならない。その不快から逃れるために身を起こした。はね除けられたタオルケットが足先のあたりに丸まっているのが見えた。


 いつになく悪い寝覚めだった。甘い蜜のような眠気が頭に充満していて、再び降りてこようとする瞼を押しあげるだけで精一杯だった。


 それでも半目のまま時計を見れば、そろそろ起きなければいけない時間だった。もう少し寝ていたいのはやまやまだったが、どうにか寝台を降り、大きくひとつをした。


 シャワーを浴びるために階下へ向かおうとしたところで、身に着けているものが昨日の着たきりであることに気づいた。……これでは汗ばむのも当然だ。そう思い、自嘲気味に手櫛で頭をかいたところで――昨夜のことを思い出し、一気に目が覚めた。


 呆然とその場に立ち尽くした。脳裏に浮かんでは消えていく映像を、しばらくぼんやりと眺めた。


 ……昨日の夜、カーテンコールの拍手の中、突如として公園のブランコに揺られている自分を発見したときのように、身動きがとれなかった。そうしているうちに、やがてそのときの気持ち――ブランコから立ち上がれないままに感じていた、不安と憧憬がない交ぜになったような妖しい気持ちが、胸の奥にゆっくりと蘇ってくるのを覚えた。


 ジリリリリ――


 目覚ましの音で我に返った。スイッチを切って音を止め、それでもなおまとわりつく昨夜の記憶を、頭を振って追い遣った。……こんなものに掛かり合っている余裕はない。朝練の時間が迫っている。


 部屋は相変わらず暑かったが、汗を吸ったシャツは心なし冷たくなっていた。そのシャツを乱暴に巻きあげ、絡みつくのを腕から抜きながら、今度こそシャワーを浴びるために俺は階段を下りた。


◇ ◇ ◇


 大学に着いたのはちょうど朝練が始まる時刻だった。寝起きこそ悪かったものの、目覚まし時計より先に寝台を降りていたし、そのままいつも通りに小屋を出たのだから遅れるはずがない。


 ……にもかかわらず俺は遅れた。もうこうして十分以上も朝練に遅刻している。交流会館へ抜ける生け垣の切れ目、そこまで来たところで俺はまた昨夜のことを思い、身動きがとれなくなってしまったのだ。


 起きたばかりの小屋で昨日のことを思い出したときと似ていたが、動けない理由は朝より具体的で差し迫ったものだった。昨夜の舞台に立っていた二人にどう接するべきか、それがわからなかったのだ。


 ――あるいは、芝居小屋でのあれは再演だったのかも知れない。古い仲間が集まって何年も前の思い出をなぞる、俺たちには秘密の舞台だったのかも知れない。


 そんなことを思って……だが、そんなはずはないと思い直す。自分たちにとって最後となる舞台に向け二人がどれだけ忙しく立ち働いていたか、俺はよく知っている。その二人がこの土壇場へ来て、そんな酔狂なことをやっているはずがない。


 あれは幻だった。そう考えるのが自然だ。


 そもそも始まりからしておかしかったし、状況があの夜とまったく一緒だったというのにも無理がある。そして何より、カーテンコールを待つうちに公園のブランコに座っていたこと。それだけは幻と考えなければ、どうにも説明がつかない。


 ……けれども昨日のあれは、幻にしてはあまりにはっきりしていた。屋台からただよう食べ物の匂いや、その間を縫って歩く人々の声。喧噪から取り残された裏通りの薄闇と、廃屋にも似た芝居小屋。その中の茹だるような熱気さえ、ありありと思い出すことができる。


 あれが幻だったとは思えない。だがもし幻でなかったとしたら――


「……よし」


 何周かした堂々巡りは、それでもどうにかひとつの結論に落ちた。本当は忘れてしまうのが一番なのだろう。だがどうやら俺は忘れられそうにない。それならば二人に本当のところを聞いてみるしかない。聞き方を間違えなければ話がこじれることはないだろう……。


 そんな決意を胸に、俺はその場で激しく足踏みを始めた。そして充分に動悸があがったところで、さも走り詰めで来たかのように息を切らせて、仲間たちの待つ交流会館前へ躍り出た。


「……はあ、はあ。ごめん……遅れた」


 階段前に着くや俺は前屈みになり、額から流れる汗を拭いながら弁明の台詞を口にした。一同の視線がこちらに集まるのをつむじのあたりで感じた。だが誰からも声はかからない。……ひょっとしてわざとらしかっただろうか。そう思い、場当たりの演技を始めたことを少し後悔しながら、俺はゆっくりと頭をあげた。


 誰からも反応はなかった。仲間たちは黙ったまま、冷え切った眼差しで俺を見ていた。その眼差しが、『おまえの演技などお見通しだ』と言っているように聞こえ、俺は危うく謝罪の言葉を口にしかけた。


 ……そこでふと、面子の中にあるべき顔がないことに気づいた。


「あれ……ペーターは?」


 思わず素に戻ってそう問い掛けた。そうさせるだけの不自然さが目の前の風景にはあった。俺は朝練を休みこそしないが、遅刻はしょっちゅうしている。だがペーターは違う。あいつは入団して以来、毎日必ず最初に来て発声を始めているのだ。


 問い掛けに答えはなかった。三人の沈黙に俺も加わり、しばらく息詰まる時間が流れた。沈黙を破ったのはキリコさんだった。やや緊張の面持ちを崩さず、抑え目の声でキリコさんは言った。


「遅刻の理由は?」


「……寝坊です」


 気まずい思いの陰に隠れて、俺はさりげなく嘘の返事をした。寝覚めが悪かったのはたしかだから、完全に嘘というわけでもない。けれどもキリコさんの態度は変わらなかった。どうやら問題は俺の遅刻ではないと感づいたとき、果たしてその質問が来た。


「昨日、あの子と何かあったのかい?」


「あの子……というと、ペーターですか?」


「他に誰がいるのさ。いいから質問に答えな。何かあったのかい? 昨日、あの子と」


 髪の毛一本まで数え尽くそうというような目で、キリコさんは俺を見つめていた。昨夜のことを聞き出すつもりが、まるで立場が逆だった。……けれども俺はそこでキリコさんへの――あの舞台に立っていた二人への疑念を捨てた。


 少なくとも彼女はいつもの彼女だった。その後ろで一言もなく腕組みしている隊長も、見慣れた隊長に違いなかった。


「いや、特に何も」


「一緒に小道具を買いに行くって言ってたじゃないか」


「何かあったとしたら、まあ、それくらいだけど……」


 そんな回答に、キリコさんはなおもしばらく俺を睨んでいたが、やがて表情を弛めると小さく溜息をついた。


「……どうやらハイジじゃないようだね」


「何が?」


「あの子が来てない理由だよ」


 そう言ってキリコさんは残る二人に向き直った。何か示し合わせてあったのか、アイネと隊長もそれで納得したように緊張を解いた。


「何だったんですか? さっきのは」


「気にしなくていいよ。二人揃って来てなかったから、まあ妄想をたくましくしていたってわけさ」


「……なるほど」


 言っている意味は理解できた。俺とペーターが揃って朝練に来なければ、二人の間に『何かあった』と考えるのが普通だ。大方その道に長けたキリコさんが探り役を買って出て、その結果がこれということなのだろう。


 それにしてもペーターが来ていないのはおかしかった。あいつがこの大事な時期に連絡もなく朝練を休むなど到底考えられない。


 そこで初めて――昨日ペーターと別れたときのことを思い出した。


 ……そう言えばあの別れ際は異様だった。あいつは俺の目の前から忽然といなくなったのだ。そのあとのことがあったせいで気にかけていなかったが、彼女がこの場に来ていないという事実を前に、その異様さが妙に際立ってくる。


 あれはいったい何だったのだろう。今朝のこの状況と何か関係があるのだろうか――


「ハイジは電話番号知らないのかい?」


「え?」


「あの子の家の電話番号だよ」


「済みません。知らないです」


「……演劇部に連絡網とかなかったの?」


 それまで黙っていたアイネが独り言のように呟いた。高校の頃のことを言っているのだ。たしかに高校の演劇部には連絡網があったが。


「卒業したときに捨てた」


「そう」


 俺の電話嫌いを知っているためか、アイネはそれ以上言わなかった。ペーターは携帯を持っていないから、かけるとしたら家の電話しかない。時代に逆行するアナクロ劇団『ヒステリカ』において、携帯などという文明の利器を持つ人間は二人しかいない。


「アイネは聞いてないのか?」


「聞いてない」


 キリコさんに目を向けると彼女は無言で頭を振った。……アナクロ劇団の面目躍如といったところだが、だとすると事態は深刻になってくる。連絡をとろうにも手段がないのだ。


「時間が押している。始めよう」


 そんな俺たちをどう見てか、まるで何事もなかったかのように隊長が朝練の開始を宣言した。キリコさんは何か言いかけ、だが結局なにも言わず発声の立ち位置についた。俺とアイネもそれに倣った。


 それから俺たちはペーターを待ちつつ発声を始めた。日課のサーキットを終え、そのあとは三人での掛け合いを中心にの摺り合わせをした。昨日の醜態を返上するためかキリコさんは気合いののりが良く、引っ張られる形で俺たちの演技も噛み合い、いつになく有意義な朝練になった。


 けれどもいよいよ激しさを増す日射しのもと、いつも通り隊長の宣言をもって散会するまで、ペーターは遂にその姿を見せなかった。


◇ ◇ ◇


「……何これ」


 延々連なっていた壁がようやく切れ、重々しい門構えの向こうに邸宅がその偉容を現したとき、アイネは一言そう呟いて絶句した。


「あいつの家」


「それはわかるけど……」


 冷静が売りのアイネには珍しく、唇を半開きにして惚けたように目の前の光景を眺めている。もっとも俺はそれを無理もないと思ったし、むしろ懐かしく感じた。初めてここを訪れたとき、俺もまた似たような顔をして、似たような台詞を口にしたのだ。


 ――朝練が終わったあと、俺はペーターの家を訪ねることを思い立った。彼女の家には高校のころ一度だけ行ったことがあり、道順の記憶もどうにか残っていたからだ。


 別れ際にそれを仲間たちに告げたことで、アイネがついてくることになった。俺は一人で行くつもりだったのだが、男一人で押し掛けるより信頼されるというキリコさんの言葉には説得力があり、アイネの身体が空いていたこともあって、結局、彼女と連れ立って隣町行きのバスに乗った。


 そんな経緯で俺たちは、こうしてペーターの家の前に立っている。ただ家の前と言っても、普通のそれとは何から何まで違う。


 ぐるりを囲む白壁に穿たれた門は、車二台が余裕で通れるほど大きく、今は黒塗りの鉄格子で固く閉ざされている。その門から構内へ舗装された道が延び、邸宅の玄関を右に折れて、それより先は視界に入らない。沿道にはどれも同じ高さのプラタナスが濃緑の葉を揺らしている。その木々の影を映す白亜の邸宅は、まるで古の貴人を祭る聖廟か何かのように、初夏の強い日射しの下ひっそりと厳かに佇んでいる。


「アイネの役目だろ」


「え?」


 俺は門脇のインターフォンを指さして、いつまでも動かないアイネを促した。


「男の声だと警戒されるから、それで来てくれたんじゃなかったのか?」


「ああ……うん。そうだった」


 そう呟くと、アイネはおずおずと進み出てインターフォンを押した。指を離してしばらく待つ。……けれども反応は何もなかった。


「……」


 アイネは無言のままもう一度インターフォンを押した。だがやはり反応はない。


「壊れてるんじゃないの?」


「どうだろうな」


 こちらでは音が出ない型なのか、それともアイネが言うように壊れているのか。古びて色褪せたインターフォンは釦を押しても黙りこくっていた。家の中ではチャイムの音が響いているのかも知れない。……けれどもそこは黒い鉄柵の向こうに遠すぎて、俺たちの耳には何も届かなかった。


「もう出たのかもな」


「え?」


「あいつもう家を出て、行き違いになったのかも」


「……それでも誰かいるんじゃない?」


「いや、たぶん誰もいない。あいつ母親いないし、父親はほとんど帰ってこないらしいから」


 そんな俺の言葉に、アイネは驚きの表情を屋敷に向け――すぐにその表情を曇らせた。……俺にはその変化の理由がよくわかった。


 たった一度ここまでペーターを送った三年前、豪邸に消えていく彼女の小さな背中を、たぶん俺も同じ表情で眺めていたのだ。


 充分に間を空けて釦を押す。物言わぬインターフォンをしばらく眺め、また釦を押す。すっかり夏めいた青空の下、額に汗をかきながら俺たちはそんなことを虚しく繰り返した。


 反応はいつまでもなかった。ただ大きな屋敷だけが強い日射しの中に輝いていた。

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