117 裏路地の芝居小屋にて(4)

 ――失意の中にあった。どうしようもないほど深く打ちひしがれていた。


 高校二年の夏の演劇全国大会地区予選。つい先日のそこで学院――アイネたちの高校――に敗れたすぐあとだった。


 土曜日の部活で簡単なミーティングを終え、何か食べに行こうという仲間たちを振り切って、宛てもなく落日の町に出た。


 茹だるように暑かった。喘ぎにも似た蝉の声がまばらに響いていた。


 ……二年続けての敗退だった。俺が入部してから、北高は一度も地区予選を突破できないでいた。そのすべてを学院に阻まれていたからだ。


 結局、今年も雪辱を果たすことができず、このままでは来年も同じ轍を踏むことになる。かつて全国大会に駒を進めたこともある北高演劇部の斜陽は、誰の目にも明かだった。


 何もかもが遣る瀬なかった。……気遣って声をかけてくる後輩も、負けて数日も経たないのにもう普段の顔に戻っている仲間たちも。


 おまえたちにとって大会とはそんなものだったのかと言ってやりたかった。……だがそれを言ってみたところで何も変わらないことはわかっていた。所詮あいつらにとって大会とはそんなものだったのだ。演劇は優劣を競うものではない……言い古された真理は、いつの間にか部内の合言葉になっていた。


 ミーティングでは次期部長の指名を受けた。部長といえば聞こえはいいが、ただ他になり手がなかっただけだ。それは望むところだった。予想しないことではなかったし、自分が引手となって来年こそ学院に勝利したいという気持ちはあった。


 そう……俺はどうしても学院に勝ちたかった。演劇が優劣を競うものでないことはわかっている、良い舞台の定義は別の次元にあっても構わない。ただ三年間、高校の部活動としての演劇に懸けてきたせめてもの証に、たった一度だけでも学院に勝ちたい。それは悲願だった。


 ……けれどもその悲願は叶いそうになかった。学院は予選を勝ち抜いた。そして今も大地区予選に向け濃密な練習をつんでいる。片や俺たちは気のない反省会を終え、なし崩しに次の体制に移っていくだけだ。


 ……勝ち抜いた者と敗退した者との間にはそれだけの壁ができる。去年にできたその壁を、今年は破ることができなかった。またひとつ厚くなったその壁を打ち破るためには何かが必要で――その何かが、俺にはわからなかった。


 ……だから歩くしかなかった。滝のような汗をかきながら俺は歩いた。何も考えられなくなるまで歩き続けるつもりだった。


 歩いて、歩いて、どこを歩いているかもはっきりしなくなったとき――忘却の闇に沈みゆく町のどこからか、かすかな祭囃子が耳に届いた。


 初めは聞き違いではないかと疑った。季節こそ祭の時機だったが盆はまだ先だったし、その祭囃子はあまりにも幻のように聞こえたから。


 けれどもそれがたしかに響いているものだと知ったとき、俺の足は動いていた。その調べに引き寄せられるように、俺はすっかり暗くなった夏の夜の町を歩き続けた。


 ――祭ではなかった。


 たどり着いた先で俺が見たものは縁日の賑わいだった。通りの両脇には香具師の屋台が並び、楽しげに笑う人の群がその間を縫って歩いていた。通りの先には小さな神社があった。祭囃子はその神社の境内から響いているようだった。それをたしかめに行こうとして――俺はその足を止めた。


 目の前に広がる華やかな情景から自分が隔絶されていることを知った。


 その情景を、俺はどこまでも虚しく眺めた。酔ってくだを巻く老人の赤ら顔も、母親に買い物をせがむ子供の声も……すべてが手の届かない遠くにあった。


 そして俺は、一年後に同じ気持ちでこの情景を見る自分を、ありありと想像した。


 ……もう帰ろうと思った。そこでふと、俺は傍らの電柱にかけられた吊り看板を目にした。


 段ボールに単色刷りのチラシが貼られただけの粗末な看板。題名も内容もなく、ただ簡単な地図で場所を示しただけの不親切な案内。


 しばらくそれを眺めたあと、俺は誘導に従って裏通りに入った。人々の喧噪に背を向ける細い細い通り。街灯の一本すらない薄暗がりに、ぼんやりと燐光のような明かりをまとって、その芝居小屋はあった――


◇ ◇ ◇


「……嘘だろ」


 ――目の前の光景が信じられなかった。


 今、自分の目に映っているそれは、あのときの芝居小屋だった。


 三年前の夏にふらりと迷いこみ、それからの俺の演劇観を決定的に変えるきっかけとなった舞台を観た、その場所だった。


 ……どこをどう歩いて、今またこの芝居小屋にたどりついたのかわからなかった。何もかもあのときと同じだった。肌にじっとりとまとわりつく熱を孕んだ風も、その熱に浮かされたように芝居小屋の扉を開けようとする俺も。


 夢を見ているのだろうかと思った。そうとしか考えられなかった。


 ……それでも俺は扉に手をかけ、音を立てないように開いて芝居小屋の中に入った。


「――だから! これはこの自動販売機で買ったものだって、そう言ってるじゃないですか」


「そんな理屈は通りません。不燃ゴミを出す日はちゃんと決まってるんです」


「それは知ってますよ。……空き缶は不燃ゴミじゃなくて資源ゴミですけどね」


「知っててこんなをなさるんですか? まったく最近のお若い方ときたら……」


「たかが空き缶ふたつじゃないですか! それにさっきから何度も言ってるように、これはこの自動販売機で買ったものなんですよ!」


 ……それはあの日の舞台だった。


 舞台に立っているのは三年前のあのときと同じ小柄な男と――ここで初めて出会ったキリコさんだった。


 俺は夢を見ているのだろうかと再び思った。……だが、夢でも構わないと思った。


 俺は後ろ手に扉を閉め、あのときと同じようにがらがらの、箱馬を並べただけの座席に腰をおろした。


「まったく、ああ言えばこう言う。……いいですか? あなたは一人で生きていると思っているのかも知れません。この都会の砂漠のなかを、一匹でもたくましく旅する駱駝のように」


「何を言ってるんですか。僕は一度だってそんな……」


「でも! 本当はそうじゃないんです。見えないところで助け合って生きているんです。そうでしょう、違いますか?」


「それは……そうかも知れない」


「そう。あなたもその助け合いの輪の中にいるんです。そしてその輪には定められた決まりというものがあるんです。わかりますか? ゴミの日を守るというのも、その決まりのひとつなんです」


「……いいからもうこの缶を捨てさせてくれよ」


 俺はこの舞台を覚えている。


 自動販売機横のゴミ箱に空き缶を捨てようとする青年と、それをとがめる婦人。すべてはそこから始まる。


 ゴミの日を守れという婦人の主張と、この自動販売機で買ったのだから捨ててもいいという青年の主張は真っ向から対立し、不毛な議論は次第に白熱していく。


 そしてそこへ、空き缶をいっぱいに詰めたビニール袋を荷台にくくりつけた自転車に乗って、薄汚い身なりの男が登場する。


 これも忘れえぬ面影――隊長扮する浮浪者だ。


「いやはや、参りましたな。これはお兄さんの言っていることが正しい」


「まっ! ならあなたは非を認めるのですか!? そうやって空き缶を集めることが喜ばれる行為ではないと!」


「認めざるをえないでしょうなあ。行政が集めることになっているものを勝手に持っていくんです。それに、中には処理場に出向いて集める人までいる。これはどう考えても喜ばれる行為ではない」


「ああ、僕はそんなことはどうだっていいんです。……ねえおじさん、どうせならこの缶も持って行ってはくれませんか?」


「ええ、ありがたくいただきますとも」


「いけません! そちらの話し合いはまだ片がついていないでしょう!」


 早く立ち去ってほしいがために浮浪者の行為を黙認する婦人と、その矛盾に憤懣やるかたない青年。


 空き缶の処理を間に挟んでの三つ巴の応酬。……だがやがて会話は空き缶から離れ、政治、経済、文化、あらゆるものを巻きこんだ舌戦へと展開してゆく。


「でも、それは身勝手というものでしょう。僕たちにとって労働は義務じゃないですか」


「いやいや、それは一面的な見方というものです。労働が義務というのは、たしかに憲法において定められておりますが、それはあくまで建前であって、法的な拘束力は何ら存在しないのです」


「それは……そうかも知れませんけど」


「善悪は緯度の問題などと申しますが、ひとつ海を渡れば就労に服さない者など沢山おります。さらに申しあげれば、歴史を紐解いてごらんなさい。近世以前の価値観では、労働がこれすなわち悪とみなされることさえ――」


「いい加減お若い方をたぶらかすのはおやめなさい! 人は働いてお金を稼ぐものです! それができないのは自らの無価値を声高に叫んでいるのと同じです!」


「おや? ではあなたはどんなお仕事を」


「主婦をしております」


「はは。では私と同じく無価値を声高に叫んでいるわけですな」


「失礼な!」


 青年は公正で一般的な考え方をするも常にやりこめられ、婦人は論理の皮をかぶりながら極めて感情的な考えを並べ立て、浮浪者は悟りに達したようなことばかり言いながら何の責任も負おうとしない。


 それは世間の縮図であり、今もこの町のどこかで交わされていてもおかしくないやりとりだった。


 風刺と滑稽に力点を置いた、今こうして再び見ても興味深い舞台だった。


「大切なのは物事を俯瞰する目です。たしかに環境問題に血道をあげるのもいいでしょう。ですが考えてもごらんなさい。我々は広大な宇宙に浮かぶ惑星に暮らし、馴染み深いひとつの恒星のまわりをぐるぐるまわっております。その恒星は遠い未来――だが確実にそこにある未来に膨張を始め、やがて我々の星を焼き尽くすのです。それを思えば我々はそう、ゴミ収集用のポリ袋に生ゴミとともに閉じこめられた蠅の群と同じです。その中には腐乱した食物が潤沢にあります。蠅たちはそれを食し、交尾をして増えます。けれどもその蠅たちは、遠からず灼熱の業火に焼き尽くされる運命なのです。蠅たちにできることはなんでしょう? 答えはひとつ、どうにかしてポリ袋を食い破ることです。もちろん蠅にはその能力がない。だからそこにが必要なのです。我々にとって必要なのは進化であり、そうして見れば環境問題に血道をあげることは、自己満足にすらならない無駄の極みということになります」


 ……今見ても興味深い舞台には違いなかった。


 だが今の俺にはわかる。これは一時期もてはやされた不条理劇の流れを汲むものだ。


 このときの『ヒステリカ』はまだ即興劇に移行していない。キリコさん自身がそう言っていた。だからこの舞台は今となっては――そして三年前において既に時代遅れだった過去の遺産にあやかったもので、小劇場系の劇団が好む、独創と名づけられた翻案に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。


 ……けれども三年前の俺は違うことを思った。


 果てしない舌戦の中に紡がれていく不条理な物語。数日前に跳ねた自分たちの舞台と似ているようで、それはどこか違っていた。


 そこには何かがあった。この芝居小屋にたどりつくまで、黄昏の町をさまよいながら自分たちに足りないと感じた、その何かがあった。


「僕にはわからない。あなたは何を苛立っているんだ!? 綺麗な服を着て、指に沢山の宝石をつけて! 朝から晩まで家で優雅に過ごすことのできるあなたにとって、いったい何が気に入らないんだ!?」


「わかるものですか! あたしはこの町に数限りない籠の鳥の一羽。籠の口は開いていて、その気があれば逃げることさえできるからよけい始末に負えない! あたしはいっそ奴隷にでもなりたいのです! 醜く太った男に毎夜毎夜弄ばれる、性的な奴隷にでもなりたいのです!」


「なればいい。あなたがそう望むのなら誰にも止める権利などありません」


「馬鹿なことを言わないで! そんなことできるものですか!」


「あなたが言うことは何もかも矛盾している! そしてそれに気づかないでいる! いや気づかないふりをしている! 何て羨ましい話だ! おじさんもだ! 二人とも何て素直に生きているんだ! ああそうだ! 羨ましいんだ! 僕にはあなたたちが羨ましくてならない!」


 加速する会話のうちに物語はカタストロフィを迎える。


 ヒステリーにかられた婦人が浮浪者の首を絞め、その婦人の頭を青年が鉄パイプで殴って殺す。


 浮浪者も既に死んでいる。


 青年は空き缶をごみ箱に捨てようとし、やはりそうするのを止めて、二つの空き缶を両手に持って二人の死体をそのままに退場する。


 緞帳が降りるその瞬間までを、俺ははっきりと覚えている。


 ――あのとき俺は、この舞台に理想を見た。


 この不条理な世界に入りこみたいと思った。


 ここから一年の間に何をなすべきか、わかった気さえした。


 それはとても簡単なことだった。


 それはひとつの役を最後まで演じきることだった。


 ひとつの役を最後まで演じきることのできる、そんな舞台を創ることだった。


 縁日の賑わいの裏で人知れず打たれていた舞台。俺はそれを、偶然に迷いこんだ現世と隔世の狭間だと思った。


 ――すべてはここから始まった。そして俺はまたここへ戻ってきた。


 照明が落ちる。カーテンコールがおこる。


 熱気のこもる暗闇の中、俺は三年前の自分とひとつになって、指の骨に痛みが走るほど激しく拍手を打ち鳴らしていた――






 ――じじっ、と蝉が鳴いた。


 夜の公園だった。


 気がつけば俺は夜の公園に一人、薄汚れた街灯のもとブランコに腰かけていた。


 舞台などどこにもなかった。うらぶれた芝居小屋も細い裏通りも、賑やかな縁日の人盛りもなかった。


 祭囃子はもう聞こえなかった。代わりにじいじいと夜蝉の低い鳴き声が、どこか近くからきれぎれに聞こえた。


 暑さに喘ぐように一頻り鳴いては休み、休んでは鳴く気怠げな声。


 額から首筋に伝う汗をそのままに、呆然と宵闇の公園を眺めながら、耳に届くその声を、俺はただ虚ろに聞き続けていた。

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