132 麻酔(4)
――カウベルの鳴る音に入口を見た。
ドアを開けて入ってきたのは男女の二人連れだった。手を繋いでいるところを見ればカップルのようだが、二人とも見覚えのない顔だった。それだけ確認したあと、俺は視線をテーブル脇の窓に戻した。
壁にかけられた振子時計の針は二時五十分を指している。待ち合わせの時間は三時だから、そろそろ待ち人が姿を見せてもおかしくない。
カウベルが鳴るたびに入口を見る。そしてその度にまた窓の外を眺める――そんな俺が傍目にどう映っているか、何となくわかる。だがもし人がそういう目で俺を見るのなら、それはあながち間違いでもないのだろう。
舞台の仕込みは四時からの予定になっている。午前中の首尾を報告しあってから向かおうというキリコさんの提言があって、この喫茶店での待ち合わせということになった。彼女は小屋で待ち合わせようと言ったが、場所については俺の主張をのんでもらった。ここの方が会場に近いし……何より小屋ではまた朝のように面倒なことにならないとも限らない。
当日の会場である『あおぞらホール』はここから歩いて二十分ほどの、ごみごみした古いビル街の奥まったところに建っている。キャパ百人足らずの狭いホールだが、その狭さゆえに観客との距離が近く、少人数での芝居をこととする劇団の間では人気が高い。ただ小屋付きの職人がいないため、使用できるのは照明のセッティングから音響の調整まですべて自分たちでまかなうことができる劇団に限られる。
ヒステリカではDJがその仕事を一手に引き受けている。今日の仕込みに関してもそのあたりの調整が主になる。そもそも舞台は地ガスリを敷かない板目のままで本番に臨むし、即興劇の場ミリなどたかが知れている。建て込みの必要な本格的な装置もない。ヒステリカの舞台で気を遣わなくてはならないのは照明と音響くらいで、極端な話をすれば今日の仕込みはDJの仕事のために用意されたものということになる。
そうした事情だけに、隊長たちが来なかった場合のDJへの弁明は重要だった。この店に入ってからというもの、俺はずっとそれについて――複雑に絡み合った事情をどうDJに説明するか、そればかりを考えていた。……ただ一方で、それは俺にとって救いでもあった。DJへの説明に頭を悩ませている間は、それ以外の余計なことを考えずに済んだからだ。
だがそれもようやく煮詰まった。色々と言い訳を考えてもみたが、最後にたどりついたのは『正直にありのままを伝えるべきだ』という至極真っ当な結論だった。都合のいい言葉でごまかして今日を切り抜けたところで意味はない。それに、DJには嘘をつきたくなかった。信じてもらえるかわからないが正直にこれまでの経緯を話し、そのうえで誠意をこめて頼み込むしかない。
――再びカウベルの鳴る音がして、入口を見た。
入ってきたのは灰色のスーツを着こんだ老人だった。それを確認して、俺はまた視線を戻した。
テーブル越しに窓の外を眺めるともなく眺めながら、けれどもDJへの対応について結論が出てしまった俺にはもう考えることがなかった。……考えることがなければ、俺はまたあの場所に戻ることになる。午前の庭園で何周したかわからない感情の迷路。……もうそこには戻りたくない。頭の中に別のはけ口を探して、そこでふと月曜日のことを思い出した。
――そう言えば俺はあの日もこの席に座っていた。キリコさんとふたり差し向いに座って、どうでもいいような話をしながら気の置けない時間を過ごしていた。
……そのとき自分が感じていた気持ちがどういったものだったか、もう思い出せない。何だか遠い昔のことのような気がする。そう思って俺は小さく溜息をついた。
あのときキリコさんは向かいの席でぼんやりとこの窓の外を見ていた。そう……ちょうど今、俺がそうしているように。
彼女と同じように窓の外を眺めながら、こうして通り過ぎていく無数の人々の中にキリコさんはよくリカたちを見逃さなかったものだと思った。定点観測というのもやはり本気だったのかも知れない。結果、キリコさんはリカたちの姿を認めた。そして俺たちはそのあとを追いかけて――不思議の国に迷い込んだ。
……思い返してみればそれはかの有名な児童小説の冒頭と同じだった。だとすればキリコさんが窓の外に見たのはリカたちではなく、兎だったのかも知れない。懐中時計を手に大慌てで公爵夫人のもとへと急ぐ白兎。それならば話のつじつまは合う。
そうだ。あの日から俺たちのまわりで起こり続けた奇妙な出来事は、不思議の国を訪れたかの少女が目にしたものと比べてもきっと見劣りはしない。俺たちもまた白兎に連れられて、いつの間にかその不思議の国とやらに迷い込んでしまったのだ――そんな愚にもつかないことを思いながら、ぼんやりと窓の外を眺め続けた。
――窓の外を通り過ぎてゆく
「……」
一瞬、呆然として動けなかった。けれどもすぐ我に返り、そのあとは速かった。
ジーンズのポケットから財布を取り出し、紙幣を抜く手ももどかしくそのままテーブルに叩きつけて店を飛び出した。わずかに遅れて再びカウベルの音。何かを叫んでいる店員の声を背中に聞いた気がした。だが俺は構わず、人混みを掻き分けるようにしてペーターの歩き去った方角に向かい駆け出した。
方角は合っていた。走りはじめて間もなく、遠い道の先に俺はペーターの後ろ姿をとらえた。火曜日に俺の前から忽然と消えた日のままの服装をしていたから見間違えようもない。その小さな背中を目指して、アスファルトからの熱気がむっとくる昼下がりの通りを全力で駆けた。
――先を行くペーターの姿を見失うまいと駆けながら、俺は強い既視感を覚えた。
喫茶店の窓の外に探し人の姿を認め、取るものも取りあえず駆け出してあとを追った月曜日の出来事。キリコさんと二人でリカたちを追いかけ、だがどれだけ走っても距離を縮めることができなかったあのおかしな追跡劇……思えばこれはその焼き直しだった。追跡する相手と、隣にキリコさんがいないということに違いはあっても。
「……はあ、はあ」
いや――違いはそれ以外にもあった。
俺はあのとき、こんなに息をきらしてはいなかった。……息をきらすほど走ってはいなかった。なぜなら月曜日のあれは、決して気づかれてはならない秘密の追跡行だったからだ。先を歩くリカたちに気づかれないように俺たちもゆっくりと歩いてあとをつけた。けれども、今は違う。
「……はあ、はあ」
……そう、今は違う。周囲に靴音を響かせ、通行人の視線を顧みず、ときには車のクラクションさえ浴びて俺はペーターを追いかけた。彼女に気づかれても構わない、むしろ気づかせたいという気持ちでひた走った。
あいつには聞きたいこと、言ってやりたいことが山ほどある。何よりここで彼女をつかまえることができれば、絶望的だった明後日の舞台に一筋の光明が射すのだ。
「……はあ、はあ」
そう思って走り続けた。だがそうして走り続けるうちに、俺はふとおかしなことに気づいた。喫茶店を出てすぐに見つけたペーターの背中――遠い道の先を歩くその小さな背中が、どれだけ走っても大きくなってこないのだ。
「……はあ、はあ」
流れる汗をそのままに走り続けながら、おかしいという思いはなおもつのった。
傾きかけた陽光に照らされる午後の目抜き通り。そのずっと先をペーターは悠然と歩いていた。……彼女が歩いていることは遠目にもはっきりとわかる。そうであるはずなのに、これだけ走っても俺は彼女に追いつくことができない。
「……どうなってんだよ、これ」
荒い息の中でそう呟いた。だがそう呟きながらも――俺にはわかりはじめていた。
……そう、これはあのときと同じだ。ちょうど月曜日にリカたちを追ったときと同じ。あのときのように、俺はまたあの不思議の国に迷い込もうとしている。……それでもペーターを追いかけずにはいられなかった。明後日の舞台に一縷の望みをつなぐ、あいつが最後の希望なのだ。
「はあ、はあ……ペーター!」
声を限りに叫んでもペーターが立ち止まることはなかった。その声はただ道行く人々の奇異の視線を集めただけだった。驚いた顔で振り返る子連れの女性。慌てて脇道へ逃れる老人までいる。……あるいは気が触れたと思われたのかも知れない。そのすべてを路傍の石のように無視し、流れる汗をそのままに俺は走り続けた。
「……はっ! はっ! はっ!」
そのうちに俺は何も考えられなくなった。もう自分がどこを走っているかもわからなかった。通行人の喧噪も風の音さえも消え、破裂しそうな心臓の鼓動と激しい喘ぎ、そして流れ去る景色の先を行く小さな背中だけが残った。
――だがそれも遂に消えた。額から流れ落ちる汗が目に入り思わず目をつぶり、再び目を開いたそのとき……ペーターの姿はもうどこにもなかった。
彼女はまた俺の目の前から消え失せてしまったのだ。
「……はっ、はっ、はっ、くそ……っ!」
滝のような汗が全身を流れていた。俺は前屈みになり、顎から滴る汗がアスファルトに黒い染みを作るのを眺めながら虚しい悪態をついた。
「……はあ、はあ、はあ」
呼吸が落ち着いてくるにつれ、言いようのない悔しさがこみあげてくるのを感じた。……今度は不思議の国に入ることさえできなかった。
ペーターに追いついていればせめて何かが起きたはずだ。どんなことでもよかった。たとえそれが何であれ、もはや手詰まりの状況に新しい糸口を与えてくれるかも知れなかったのだ……。
「……はあ、はあ、はあ。……え?」
けれども屈むのをやめ頭をあげたとき、俺の頭は再び真っ白になった。
俺が立っていたそこは『あおぞらホール』の正面だった。そしてどういうわけだろう、扉が開いていた。本来ならば俺が開けるべき扉が、まるで誘うように開け放たれていた。
「……」
何かが音を立てて噛み合った気がした。……やはりそうだ。俺が追いかけていたのはペーターではなく、時計を手にした白兎だったのだ。
一瞬の躊躇があって、けれども俺はその開け放たれた扉から『あおぞらホール』へとのりこんだ。。
「……」
――舞台には先客がいた。降り落ちる一条のサス明かりの下、一人の男が作業に取り掛かっていた。DJだった。
扉が開いていた謎はそれで解けた。DJにとってここは勝手知ったる施設で、事務員にも顔が利くのだ。
「……ずいぶん早いな」
こちらに向けられたDJの鷹揚な背中を眺めながら、盛り上がっていた気持ちが急速にしぼんでいくのを感じた。
俺がペーターと道化じみた追いかけっこをしている間にも、DJはこうして一人で仕込みにかかっていたのだ。……返事を返さず、黙々と作業を続ける背中がそれを糾弾しているように見えた。にわかに申し訳ない気持ちでいっぱいになり、俺は舞台へ急いだ。
「ペーターは来てないか? ここへ来る途中で見かけたんだけど」
DJは一度怪訝そうな表情でこちらを振り返り、無言のまま頭を元に戻した。
そんなDJを見て俺は自分がした質問のおかしさに気づいた。考えてみればそうだ……途中でペーターを見かけたのになぜ一緒に来なかったのか。事情を知らないDJにとってそれは、たしかにおかしな質問に違いない。
「そうだ……ところで」
そこまで考えて、俺は今ここで一連の事情をDJに説明する覚悟を決めた。
……逆に、今しかチャンスがないと思った。いつもの調子で返事を返されては深刻な説明を切り出しにくくなる。舞台に向かう足どりを遅めながら、俺は意を決してその話題に踏みこんだ。
「……仕込みの前に、お前に話しておかなきゃならないことがあるんだ」
そう告げて舞台上のDJを見た。だがDJは依然としてこちらを見ない。……奇妙だと思った。いつものDJならもうとっくに気安い挨拶が返ってきているはずだ。
「どうしたんだDJ――」
ぱん、と何かが弾けるような音がして、脇腹に殴られたような衝撃を感じた。
次いで耐え難い激痛が脊髄を突き抜けた。何が起こったのかわからないまま、俺はたたらを踏んで近くの客席にもたれた。
舞台上でDJがおもむろにこちらに向き直るのが見えた。
「そいつは名前を呼んでくれた分だ」
それだけ言うとDJは舞台を降り、客席の間の通路をゆっくりとこちらに歩いてくる。右手に提げている長い筒のようなもの――それがDJ愛用のカラシニコフだと気づいた瞬間、脇腹にまた激しい痛みが走った。
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