245 掛け違えたボタン(4)

 学院の子たちはみんな泣いていた。


 結果が発表されたあとすぐに泣き声があがり、審査員の寸評の間も啜り泣く声が途絶えることはなかった。肩を震わせてしゃくりあげている子が何人もいた。あからさまな恨みの目でこちらを睨んでいる子もいた。


 そんな彼女たちの姿を眺めながら、俺はようやく勝ち取った勝利の喜びを素直に感じることができなかった。


 もちろん嬉しくはあった。必死の思いで目指してきた悲願が叶ったのだから嬉しくないはずがない。……ただ去年の今、俺はあちら側にいた。あちら側にいながら、彼女たちのように涙することはなかった。彼女たちが今日までどれほど真剣に演劇に懸けてきたか、人目も憚らないその涙が何より強く物語っていると思った。


 俺は――俺たちは果たして彼女たちと同じくらい真剣に演劇をやってきたのか、彼女たちを下して先に進む権利があったのか……そんな疑問に、俺は囚われていた。


 三年続けて勝ち続けた。今年も勝って当然の勝負だった。この予選はあくまで通過点に過ぎず、全国を目指して毎日厳しい練習に励んでいた――そんな努力も虚しく、敗北して惨めに泣いている彼女たちを、俺はとても他人とは思えなかった。舞台直前まで足並みを揃えようとせず、仲間とは名ばかりのばらばらな心のままで、不思議に拾った勝利に浮かれている後ろの連中よりよほど……。


 すべてが終わってしまっても彼女たちは帰ろうとしなかった。いつまでも泣き続けながら、まるで俺たちの行く手を阻むように出口のあたりに固まっていた。このままでは出られないから部長がどうにかしろと、後ろから誰かの声が聞こえた。……気は進まなかった。勝者が敗者にどんな言葉をかければいいというのか。だが俺は少しわざとらしく時計に目をやったあと、ゆっくりと彼女たちの方へ近づいていった。


 みんな泣いていた。誰に声をかければいいのか――誰に声をかけていいのかわからなかった。けれども俺はそこで、彼女たちの中にただ一人泣いていない女がいるのに気づいた。それがアイネだった。


 ――彼女のことは知っていた。去年の大会で主役を演じていたのが彼女だったし、大会の説明会でも何度か顔を合わせたことがあった。何より彼女が学院演劇部の部長であることを俺は知っていた。まともに言葉を交わしたことはなかったが、俺が学院演劇部を思うとき常に彼女の顔を思い浮かべるほど、アイネは俺にとって存在だった。


 彼女は泣いていなかった。泣き崩れる学院の子たちの中にあって、アイネだけはどこか吹っ切れたような顔で涙を流すことなく立っていた。俺が見ていることに気づくと、彼女は近くで泣いている子に何かを告げ、おずおずと俺の方に歩いてきた。


「おめでとう」


 とアイネは言った。俺は何と答えていいかわからなかったが、それでも「ありがとう」と返した。すると彼女は右手を差し出し、


「全国に行けるように祈ってる。頑張って」


 と言った。俺は差し出されたその手を握り、そこではじめて正面から彼女の顔を見た。


 ――穏やかな顔だった。透きとおる二つの瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。そこには恨みの色も、悲しみの色もなかった。何かを悟ったようなその顔を、俺は純粋に綺麗だと思った。その顔に少しだけはにかむような微笑を浮かべ、凛とした声で彼女は言った。


「三年間、楽しかった。あなたたちがいたから、この三年間は本当に楽しかった」


 その言葉は、長い冬の終わりを告げる春風のように俺の心を打った。


 それは決して負け惜しみの言葉ではなかった。彼女の正直な、飾りのない気持ちであると信じた。目の前で握手をしている女が、俺が彼女たちをそう思っていたように俺たちをライバルと認め、この三年間を演劇に明け暮れてきたのだということを、その一言で理解した。


 最後の勝負に敗れ、泣き濡れる仲間たちの中にあってただ一人涙を見せず、含羞の笑顔で潔い訣別の言葉をかけてくる彼女を、俺はこの上なく格好カッコいい生き物だと感じた。


格好カッコいいな、あんた」


 ……思わずそう口にしてしまったのは、今思い出しても恥ずかしくてならない。その俺の言葉をどう受けとめたのか、アイネは少し困ったような何とも言えない表情をつくった。


 その表情に俺はようやく自分の失言に気づいて、咄嗟に繕いの言葉を探した。すぐに見つかったそれを、頭の中でまわして確認したあと、精一杯の笑顔をつくって、言った。


「いつか、今度は一緒の舞台に立とう」


 返事の代わりに彼女は小さく頷き、最後に俺の手をぎゅっと力強く握った。そうして振り返り、よく通る大きな声で仲間たちに退出を告げた。泣いている子は、もう誰もいなかった。


 そこでアイネと交わした社交辞令めいた約束は、半年後に二人が入る風変わりな劇団で叶えられることになる――


◇ ◇ ◇


「……ふう」


 長い述懐を終えて俺は小さく溜息をついた。遠い蝉の独唱がまた意識に浸みこんできた。


 もう半分忘れかけていたあの夢を今朝に見たのは、やはり昨日のことがあったからだろうか。俺の中でアイネとあの夢とは、どこか深いところで結びついているのかも知れない。


 ……きっと結びついているのだろう。高校三年の頃、学院演劇部の部長を務めていた彼女についてはリカから何度か聞いた。アイネがどれほど熱心に部活を引っ張っていたかという明るい思い出話だったが、その行間に俺はアイネの部長としての苦悩を感じずにはいられなかった。アイネも俺とは違う――だがどこか似通った『地獄の季節』を抜けてきたのだなと、そのときはしみじみそう思った。


 思えばヒステリカに入ってすぐアイネと打ち解けられたのは、そういう下地があったからなのかも知れない。


 高校生活を通して俺たちは火花を散らす間柄ではあったが、同じ時間を過ごしてきた同志でもあった。だからこそあれほどすぐ打ち解けられたし、何かと弾き合いながらも今日まで仲間としてうまくやってこられたのだ。そう……互いにたった一人の同期として、俺たちはずっとうまくやってきた。俺はアイネを深く信頼しているし、彼女の方でも、俺のことを信頼してくれていると信じている。


「――謝ろう」


 ベンチから身を起こし、俺は決意を言葉にした。


 昨日の不適切な発言について、もう一度ちゃんと彼女に謝ろう。あのとき、俺はカラスに苛立っていた。そのカラスをやりこめるためにアイネをにしたのだ。……彼女にしてみればいい迷惑だ。その場限りのつまらない諍いの道具に、身に覚えのない関係をでっちあげられたのだから。


 釈然としない思いが消えたわけではない。逆の立場だったら俺はそれほど怒らないだろうし、事情を察して話を合わせさえするだろう。


 ……だがそれはきっと俺が男だからだ。男女の性別による考え方の違いはたしかにある。どんなにさっぱりしていてもアイネは女だ。使い古された言いまわしだが、女の考えることはよくわからない。けれどもそれを慮ってやらなければ仲間とは言えない。ましてや相棒などとはとても言えない。


 もう一度ちゃんと謝ろう。きちんと頭を下げて許しを乞おう。明日の朝か、できるなら今日中に。誠意をこめて謝ればアイネはきっと許してくれる。それでも許してくれなければ……そのときは何度でも謝るしかない。


 結論が出たことで妙にすっきりした気分になった。半日あまり浮いてしまったが、これで少なくとも俺の側では、隊長からもらった時間を有効に活用できたと思った。


「――おや?」


 小屋に帰ろうとベンチを立ったところで、道の方から耳覚えのある声が聞こえた。偶然にもキリコさんが通りかかったところだった。


「何してるんだい、また。こんなところで」


 そう言いながら彼女は公園の中に入り、ブランコに腰をおろした。俺を見て座れと言うように顎をしゃくる。そのぞんざいな仕草に呆れながら、俺は素直に彼女の隣のブランコについた。


「で、何をしてたって?」


「イメトレですよ。キリコさんこそ何を?」


「あたしかい? あたしは探偵ごっこ」


「探偵ごっこ?」


 俺がそう聞き返すとキリコさんは気怠そうに欠伸をし、それからおもむろにブランコを漕ぎはじめた。


「アイネちゃんに頼まれてね。ちょっと人捜しをしてたのさ」


「人捜し……というと?」


「ハイジも知ってるだろ、リカって子だよ。昨日の会議に来なかった」


 リカ――唐突にキリコさんの口から飛び出したその名前に、すっかり忘れていた捜し人のことを思い出した。そうだ……俺もまた昨日、リカを捜していたのだ。リカを捜し町中を歩きまわって、その挙げ句にアイネとあの諍いを起こしたのである。


「あれからずっと捜してるけど見つからない、助けてほしい、って言われてね。あの子にそんな頼まれ方したんじゃ断れないしねえ」


「……そうですか」


 アイネがまだリカを捜していたことに軽い驚きと罪悪感を覚えた。そうして直感的に思うところがあった。彼女の昨日から今朝にかけての態度にリカのことが関係しているのではないかと……。


 思ってみればそうだ。リカのことを聞きたくてカラスを訪ねたのに、ろくに話もできないうちにその場から引っ立てられたのだ。アイネが怒る材料としてはそれだけで充分だ。さっきまでだらだら考えていたことよりずっと説得力のある原因のように思える。……危ないところだった。もしそれが原因だとしたら、見当違いの謝罪でまたアイネを怒らせていたかも知れない。


 ……それにしてもアイネがまだリカを捜しているというのはどういうことだろう。昨日、俺は町でリカを目撃し、そのことはちゃんとアイネに説明した。それでもまだ彼女がリカを捜しているというのがわからない。……もしそういうことなら、あのあとアイネの方でもリカを訪ねるなり連絡をとるなりして、それが不首尾に終わったということなのだろうか……。


 そう言えば――ごたごたでそちらにまで頭がまわっていなかったが、昨日の事件現場でのはかなりおかしかった。……はいったい何だったのだろう。事件現場を取り巻く群衆の中に、俺はたしかにリカの姿を見た。けれどもそのリカはいつもの彼女とは違って、張りつめた空気の中で銃をもたげ、その銃口を俺に向けて「――ずいぶん深刻みたいだね」


「……え?」


 いつの間にかキリコさんはブランコを漕ぐのを止め、まじまじと俺を見つめていた。


「ああ……済みません。落ちてました」


「『語るに落ちる』ってのはよく聞くけど、『語らずに落ちる』ってのもあれだね。眉間にしわ寄せて黙りこむハイジなんてはじめて見たよ」


「いや……別にそんな心配してるわけでもなくて」


「ん?」


「リカのことなら気にする必要なんてないですよ。どうせすぐ見つかるだろうし」


「あたしが気にしてるのはそのリカって子のことじゃないよ」


「え?」


「あたしが気にしてるのは深刻に擦れ違っちまってる後輩二人のことさ」


 そう言ってキリコさんはまたブランコを漕ぎはじめた。誰もいない公園の日溜まりに、きいきいという小さな音が響いた。


「……なんか、妙な勘違いしてませんか?」


「勘違いだったら、まあ何も問題ないんだけどね」


 いかにも何気ない調子でそう言いながら、キリコさんはきいきいブランコを漕いだ。それで俺は何となく察するものがあった。


 ……これはいつもの手だ。彼女一流の尋問の手口だ。何か込み入った事情を聞き出そうとするとき、キリコさんは決してそれをはっきりした言葉にしない。ごく自然に会話がそちらに流れるようにし、聞く用意があるということを曖昧に仄めかす。そうしてこちらが話しはじめるまでいつまでも粘り強く待ち続けるのだ。


「朝に話した通りです。と言うか……変に気をまわさないでください」


 だが今回ばかりはその手口に乗るわけにはいかない。事情が込み入りすぎている……キリコさんが相手とはいえ、あんなことを話せるわけがない。それにその話の一部には厳重に口止めされている部分がある。うっかり口を滑らせてそのあたりを話してしまうのが何より怖い。


 アイネとのつき合いで最も気をつけねばならないこと、それは約束の厳守だ。


 彼女の中で『約束』という言葉はおそらく『契約』か、もっと言えば『宣誓』に近い意味合いを持つ。ほんの小さな約束でも律儀に守るし、当然のように相手にもそれを求める。だからアイネに対してはどんな約束も軽んじてはならない。……まして昨日のような約束を破れば、そこにどんな理由があってもアイネは生涯許してくれないだろう。


「ちゃんと解決できるのかい?」


 相変わらずブランコを漕ぎながら、真剣な声でキリコさんが言った。本気で心配してくれているのだということがその声の調子でわかった。「できます」と、俺は返した。


「できないようならいつでも言うんだよ。ここへ来てつまらないことで舞台にけちがつくなんて、まっぴらだからね」


 それだけ言うとキリコさんはブランコを漕ぐのをやめた。これもいつも通りだ。ときにお節介なほど相談に乗ろうとするが、線を引けばそれ以上は踏みこんで来ない。こちらの感情を無視して根掘り葉掘り聞き出そうとはしない。


「それともこの際、あたしに乗り換えるかい? ちょうどいいじゃないか。今度の舞台であたしがヒステリカを辞めれば、あのふざけた規則の縛りもなくなるわけだしさ」

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