246 掛け違えたボタン(5)

 そうして最後はおどけた台詞で、気まずい雰囲気を水に流す。そのにやけた表情の裏に、大人の女性という言葉そのままの優しさを感じずにはいられない。


 この人のこういう気遣いに俺はこれまで何度となく救われてきた……俺ばかりではなく、たぶんアイネやペーターたちも。


「喜んで請け合いますよ。その縛りがなくなったとき、キリコさんの気持ちが変わってなければですけどね」


「その言葉忘れるんじゃないよ? 乙女心を弄んだりするとあとが怖いからね」


「はいはい」


 真面目くさった顔でそんなことを言うキリコさんに、つい頬が弛んでしまう。もともと美人でスタイルもいいが、そういう意味ではなくもっと本質的なところで彼女は『いい女』なのだと改めて思う。


 ……所詮、俺などでは手が届かない人だった。入団したての頃、勢いに任せた俺の告白で一度はもつれかけた関係がこうしてうまく修正されたのは、ひとえに彼女のお陰だ。


「それにしても今日はなんだか町が物々しいね。駅前に警察がたむろしてたよ」


「昨日の事件のせいじゃないですか?」


「事件、ってどんな?」


「何でも人が撃ち殺されたらしくて」


「へえ……道理で。でもおかしいね。高度情報化社会に背を向けて生きてるハイジがなんでまたそんなこと知ってるんだい?」


「現場を通りかかったんですよ。ちょうどリカを捜しているときに」


 俺がそう答えるとキリコさんは「ふうん」と気の抜けた声を出した。それきり前を向き、神妙な横顔を見せながらしばらく沈黙した。


「どうかしましたか?」


「……いやね。ちょっと忸怩じくじたる思いってやつに駆られて」


忸怩じくじたる思い?」


「このあたしがそんなゴシップを逃したばかりか、よりにもよってハイジに教えられるなんてさ……」


 ぼんやりとした表情で前を向いたまま、独り言のようにキリコさんはそう言った。何か別のことを考えながら無意識に言っているようにも見えるが、無意識にしては少々手厳しい台詞ではある。俺は彼女にも聞こえるように深い溜息をひとつ吐いた。


「何かひどいことを言われてませんか、俺」


「――ん? ああ……ごめんごめん。で? 何の話だっけ?」


 やはり別のことを考えていたようだ。ただ考えてみれば俺もさっきは似たようなことをしていたのだから、あまり人のことは言えない。


「キリコさんが事件のことを知らなかった、って話です」


「ああ、そうそう。でもまあそれも仕方ないさ。ここんとこ舞台にかまけてだいぶ情報にうとい生活してたからねえ。こんなんじゃどこぞの研究所から変なウイルスが漏れて、隣町の住人がぜんぶゾンビになっても、こっちに押し寄せてくるまで気づきやしない」


「嫌なもの想像させないでくださいよ」


「そうなってからじゃ遅いからハイジもラジオくらいは聞いといた方がいいよ? 冗談はさておき、台風とか来るかも知れないし」


「それはまあ、たしかに……」


 そう相槌を打ったあと、俺はふと月曜のことを思い出した。


「……」


 ――ラジオといえば、延々と死体について語っていたDJのラジオだ。あれは銃殺された死体に関するもののようだった。あのラジオの内容と昨日の事件……なんだろう、まったく関係がなさそうにみえてその二つは奇妙に符合している気がする。


 俺の思い過ごしならいい。だがもしその二つが何らかの相関性をもって俺の目の前に展開された事象であったならば、それが意味するところは何なのだろう。その二つのから、いったい俺は何を読み解くべきなのか――そう思って、俺はまた考え事に没入しかけた。


「んー……っ!」


 唐突に悩ましげな声が響き、俺は入りかけていた思考から呼び戻された。隣に目を遣ればキリコさんが両腕をあげ、大きく背伸びをしていた。そうして腕をあげたままちらりとこちらに目を向ける。


「仕返しですか?」


「ん? 何のことだい?」


 そう言ってとぼけたような表情をつくる。さっき俺がした溜息の仕返しに違いなかった。キリコさんはときどきこういう子供のようなことをする。「まあ、いいですけど」と言って、俺はその会話を流した。


「しかし、あれだね。駅前なんて身近なとこで殺人事件に遭遇するなんざえらく物騒な世の中になったもんじゃないか。こんな女盛りで死にたかないよ、あたしは」


「キリコさんは死にませんよ。そう簡単には」


「何だいその無責任な言いぐさは。そこは燃えるような目で『僕が命に代えても守ります』って言うとこじゃないのかい?」


「それこそ無責任ですよ。ゾンビに襲われて守りきる自信なんてないし」


「やれやれ。そんなことじゃ乗り換えてもらう甲斐も何もあったもんじゃないね」


 そう言ってキリコさんはつまらなそうに小さく鼻を鳴らした。そうしておもむろにブランコから立ちあがり、「さて、また捜しに行くよ」と思い切りよく宣言したあと、こちらにぬっと右手を突き出した。その手には彼女の携帯が握られていた。鮮やかなワインレッドの携帯を、俺は何となく受け取った。


「……何ですか? これ」


「あたしの携帯電話だよ」


「そんなこと聞いてるわけじゃなくて。どうしてこれを俺に?」


「なら説明しようか。これからハイジもリカって子を捜しに行く。そこまではいいね?」


「いや俺は……。まあいいですけど」


「何だい、はっきりしない返事だね。捜しに行くのかい? 行かないのかい?」


「行きます」


「よろしい。あたしも捜しに行くわけだから、言ってみればこれからあたしたちはそのリカちゃんを手分けして捜すことになる」


「つまり、情報交換に使うと?」


「当たらずとも遠からず、ってとこだね。ハイジがリカちゃんを見つけた場合には、その携帯は使う必要なし」


「はい」


「で、あたしがリカちゃんを見つけた場合には、その携帯に一報が入る」


「……何でまたそんなことを?」


「あんたの手柄にするために決まってるだろ。そうすりゃ仲直りもできて、みんな丸く収まるって寸法さ」


「あ――」


 事もなげに言うキリコさんの横顔を俺はまじまじと見つめた。まったく……どうしてこの人はこれほどまでに『いい女』なのだろう。こんな姿を見せられたら、さっき彼女の口にした冗談をつい本気にしてしまいたくなる。


「でも、いいんですか?」


「何がだい?」


「俺なんかがキリコさんの携帯預かって」


「なに言ってるのさ。そんなの気にするような間柄じゃないだろ?」


 なぜか嬉しそうな顔でキリコさんはそう言うと、俺の背中を平手でしたたかに打った。ばしっ、という大きな音がして、呻き声こそ我慢したがかなり痛かった。……どうも昨日から俺は女にひっぱたかれ続けている気がする。


「電話に出て男からだったら、『俺の女に手を出すな』ってちゃんと言うんだよ? 女からだったら、まあ適当にあしらっといておくれ。それから言うまでもないことだけど――」


 そこで言葉を切ってじっと俺を見つめ、それからふっと表情を弛めて、「言うまでもないね」と呟いた。


「……何ですか、それは」


「何でもないよ。それじゃあたしは大学を中心にまわってみるから。あんまりこっちはあてにせず、ハイジの方でもきっちり捜すように」


 それだけ言い残し、頭の横に小さくひらひらと手を振りながらキリコさんは公園を出ていった。その背中が見えなくなったところで俺はブランコから立ちあがった。


「……よし!」


 時計に目を遣るとちょうど二時だった。容赦なく照りつける午後の太陽の下に、蝉の声はもうどこからも聞こえてはこなかった。


◇ ◇ ◇


「……ふう」


 午後五時。腕時計でその時刻を確認したあと、俺は額の汗を拭い、大きく溜息をついた。


 初夏の陽射しはまだ充分に強いが、そのつくる影はようやく濃く長くなってきている。中背のビルに挟まれた裏通り。あてもなくリカを捜し続けて入りこんだそこは、まるで周囲から置き去りにされたような空虚な静けさに満ちていた。


 そんなビル陰をとぼとぼ歩きながら、『無駄な努力』という言葉がまたしても脳裏に浮かんで消えた。公園を出てからもう何度この言葉を思ったかわからない。数十回か、あるいは数百回くらいになるのかも知れない。……自分の住む町がこれほど広いと思ったのは初めてだった。その広い町にあてもなく一人の人間を捜すことが、これほどまでに人を疲れさせると知ったのも。


 ……結局、昨日は真面目に捜していなかったのだなと思い知った。


 昨日も俺は同じようにリカを捜し町を歩きまわったが、これほど精神的に疲弊することはなかった。それもそのはずで、真剣に捜さなくてもリカに大事はないと信じていたし、もっと言えばアイネに義理立てするための捜索と割り切っていた。そんな気持ちで町を歩くのだからそれは散歩と変わらない。舞台舞台で切迫していたところへむしろいい気晴らしになったと、そんな風にさえ考えていた。


 けれども今日は違う。真剣にリカを捜し出そうという気持ちになってしまっている。


 リカを心配する思いが強まったわけではない。今日はアイネに頼まれてもいない。それでも昨日より真剣な気持ちになってしまったのはキリコさんのせいだ。あんなことを言われ、携帯まで渡されて真剣にならないわけにはいかない。何としてでも俺がリカを見つけてやろうという意気ごみで町中を捜しまわった。


 ……だがその結果、俺が得たものは疲労だけだった。


 炎天下を三時間も小走りに動けば身体には相当にこたえる。だがそれよりも、『こんなことをしていても見つからない』と半ば諦めに似た思いを抱きながらの捜索に、心の方が先に参ってしまった。どこかで読んだ話によれば、拷問のコツというのは相手の希望をぎりぎりのところで失わせないことにあるのだという。それを踏まえれば今の俺は、まったく要領のいい拷問を受けているに等しい。


 ……喉が渇いた。だが俺は財布を持っていない。公園に持って出てはいなかったし、そのあと小屋に取りに帰らなかったからだ。それが理由で、自動販売機を横目に見ながら素通りするしかない。そうするたびにだんだんと息が苦しくなってくるのを感じる。


 以前、役作りのために脱水症状の体験を試みたことがある。ちょうどこんな日に厚手の上下を着こみ、重い荷物を背負って水を飲まず歩き続けたのだ。脱水症状に陥ったときどんな変化が起きるのか知るのが狙いだったが、その実験により俺は明確なかたちで脱水症状の感覚を得ることができた。それは簡単な言葉にできる。脱水症状になると人間は『息が苦しくなる』のだ。そう、ちょうど今の俺がそうなっているように……。


「……まずいな」


 ふと立ちくらみを覚えたところで俺は危機を実感した。……これは実にまずい。このまま歩き続けて行き倒れになったのでは洒落にならない。咄嗟に頭の中の優先順位を変え、とりあえずどこか水が飲める場所を捜すことにした。


 ――水場はすぐに見つかった。路傍にぽつんとあったこけし型の飲み口。その先から出てくる水を俺は貪るように飲んだ。生水は身体に悪いなどと気にする余裕もなかった。錆びた鉄の臭いがする生温かい真水を、これほど美味いと感じたのは生まれてはじめてかも知れない。


 飲めるだけ飲んで一息つくと、俺は近くにあった石の腰掛けに座りこんだ。そうしてしばらく目を閉じて水が全身に染み渡るのを待った。周囲に風はなかった。ただ炎天に炙られた大気が澱のようにたゆたっているのを感じた。


 再び目を見開いたとき、辺りの風景は様変わりしていた。


 もちろんさっきまでと同じ風景には違いない。だが俺の目にその風景はさっきまでのそれとは違うものに映った。そればかりか、歩き続けていたとき俺の心に満ち充ちていた息詰まった絶望のような感覚がきれいに消えていることに気づいた。


 ……何のことはない、精神的に疲弊したと感じていたのは単に水分が足りなかっただけなのだ。そう納得して俺は立ちあがり、リカの捜索を再開することにした。


 ――だがしばらく歩いたところで、俺は周囲の風景がやはりどこかいつもとは違っていると改めて感じた。


「……」


 奇妙な感覚があった。


 既視感という言葉がそれに近いのかも知れない。ただ既視感もなにも、この道沿いの風景を俺はこれまでに何度も見ている。その何度も見ているはずの風景を初めて目にするような……それでいて過去にどこかで見たことがあるような――そんな奇妙な感覚だった。


 裏通りに入ると、その感覚は一層強くなった。


 脱水症になりかけていた身体に水分が補給されたことで精神が少し驚いているだけだと、そう片づけるのは容易たやすかった。だが俺はそうすることなく、その感覚に流されるまま歩き続けた。それはたしかに奇妙な感覚だったが、決して嫌な感覚ではなかったからだ。むしろその感覚の中に、俺は懐かしさに似たものを感じた。


 今はもう忘れてしまった夏の日の午後。一人道に迷うなか、心細い思いで眺めたビルの谷間に射す光と陰。背筋にふっと寒さを覚えるような奇妙に透きとおった景色……俺が今眺めているものはそれだと思った。


 妖しさと懐かしさが入り交じったようなその感覚に引きずられるようにして俺は歩いた。何となく、それが俺をどこかへ連れて行ってくれるような気がした。


 ――三十分ほど歩いたところで、俺はその場所に辿り着いた。人通りのない路地裏の日陰、よく注意して見ないとわからないそこに、踞るようにして彼女リカは座っていた。

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