247 掛け違えたボタン(6)
「リカ」
人違いの可能性も考え、俺は抑えめの声で呼びかけた。その声に反応して頭をあげたのはやはりリカだった。俺の姿を認めると彼女は「はあい」と間延びした返事を返してきた。
「はあい、じゃないだろ。おまえな――」
「ああ、ちょっと大きな声で喋らないでってば。気分悪いんだから」
そう言ってリカは迷惑そうに顔をしかめて見せた。喉もとまであがってきたきつい言葉を、俺はそれで呑みこんだ。言われてみればリカの顔は心なし青白く見えた。こんなところで膝を抱え蹲っているのも変と言えば変だ。
「……平気なのか?」
「だから気分悪いって言ってるでしょ。人の話はよく聞きましょうって通知票に書かれなかった? ハイジ君」
いつもの人を食ったような薄ら笑いを浮かべてリカは言った。どうやら大したことはないようだ。そう思い、俺は彼女の隣まで歩いて行き、そこに腰をおろした。
「アイネが必死に捜してたぞ。おまえのこと」
「捜してたのはアイネだけ?」
「ん?」
「ハイジ君も捜してくれてたんじゃないの?」
「わかってるなら少しは申し訳なさそうな顔しろ」
「してるってば。これでも精一杯」
そう言ってリカはいかにもふざけたようなしかめっ面をつくって見せた。怒る気にもなれず、代わりに俺は内臓を絞り出すような溜息をついた。
「どうして昨日来なかったんだよ」
その質問にリカは答えなかった。俺から視線を逸らして前を見つめ、いつまで経っても口を開こうとしない。……何か話したくない理由でもあるのだろうか。そういうことなら、別に無理に聞き出そうとは思わない。
「なら質問を変えるか。昨日、駅前で銃撃事件があったんだけど、おまえその野次馬の中にいた?」
「いた」
今度はすぐに答えが返ってきた。前を向いたまま独り言のような調子で、「あの中にいた」とリカはもう一度答えた。
「何してたんだよ、あんなところで」
「撃ったの私だから」
「え?」
「ちゃんと死んでるか確認してたの。殺し屋の義務ってやつ?」
リカはそう言ってこちらを向き、ニヒルを気取ったような笑みを浮かべた。……完全にからかわれていると思った。こんな場面でからかってくるリカにはさすがに反感を覚えたが、やはりなぜか俺は怒る気にはなれなかった。
「……で、ついでに俺も撃とうとしたのか?」
からかいにはからかいで応えようと、俺は何気なくその先に踏みこんでみた。そんな俺の質問にリカは少しの驚きも見せず、「うん」と言って小さく頷いた。
「ついでと言うか、そっちの方が本当の目的だったんだけどね。でもハイジ君いつの間にか消えちゃったし」
「そうか……。俺にはリカが消えたように見えたんだけどな」
「ううん、消えたのはハイジ君。あの人混みからどうやって一瞬で逃げたのか、すごく不思議だった」
「……俺もまったく同じこと考えてたよ」
おかしな会話の成り行きに俺は少し考えこんだ。
からかい半分で切り出した話題だったが、返答からすると昨日あそこに立っていたのは幻ではなくリカ本人だったようだ。銃を向けて撃とうとしたところで消えたということなら、俺の側から見た彼女とは逆のものをリカは見ていたということになる。
――しかしそうなるとどこまでが本当でどこからが嘘かわからない。それを問い質そうと口を開きかけた、そこで隣からぼそっと低い声が聞こえた。
「義務だろ、自分の恋人を気遣うのは」
弾かれたようにリカを見た。にんまりと嫌らしい笑みを浮かべる彼女の顔がこちらを見ていた。
「おまえ、聞いてたのか!?」
「何をですか~?」
「さてはあのとき部屋の中にいたな……?」
「だから、何の話ですか~?」
「……ったく、とんだ茶番だ」
あのときカラスの部屋にリカがいたのなら、本当に茶番も茶番だ。カラスがアイネを部屋に入れようとするのに何の落ち度もなく、俺がただ一人空騒ぎしていたことになる。顔から火が出そうだった。だがそんな俺にリカはさっきと同じ調子で、「部屋になんかいなかったよ~?」と言った。
「……じゃあ何でその台詞知ってるんだよ」
「その台詞って、どの台詞~?」
「おまえな、いい加減にしないと――」
「アイネに聞いたの」
最後の一言だけ真顔に戻り、醒めた口調でリカは告げた。俺は思わず言葉に詰まった。何について話していたのかさえわからなくなった。そんな俺に、リカはまたにんまりとした笑みをつくった。
「……どこからどこまで聞いたんだ」
「私の彼氏の部屋の前でのことは、たぶんぜんぶ聞いたと思うよ」
「そうか……」
それならカラスがアイネを部屋に連れこもうとしていたくだりも聞いたことになる。それについてリカがどう感じたのか聞いてみたい気はしたが、言葉にはしなかった。自分が野暮で無神経な人間だという自覚はあるが、さすがにそれを言葉にするほど野暮でも無神経でもない。
「……電話で話したのか?」
「ううん、電話じゃないよ」
「と言うことは、会って話したってことか」
「まあ会ったといえば、会ったんだけどね」
コンクリートの谷間に浸み入る、空虚で乾いた印象のある陽光をぼんやりと眺めながら、ちょうどその陽光と似た感じのする横顔でリカは呟いた。彼女らしからぬ曖昧な返事に、俺は軽い苛立ちと不安のようなものを覚えた。
「……何だかはっきりしないな。第一、昨日に話したのにどうしてアイネは今日もおまえを捜してるんだよ。何か嘘ついてないか? リカ」
「嘘なんかついてないって。アイネは覚えてないんじゃないのかなあ、昨日会ったこと。ちょっと普通じゃない会い方だったから」
「……普通じゃない会い方?」
「そう、普通じゃない会い方」
一瞬、リカの言うことがわからなかった。けれども少し考え、俺はすぐ昨日の事件現場を思い出した。
「俺と同じような会い方ってことか」
「まあ、そんな感じ?」
「でも連絡くらいしてやれよ。アイネはまだおまえのこと捜してると思うぞ。何かあったらいけないって」
「そうだよね……あの子に悪いことしちゃった」
そう言ってリカは寂しげな表情をつくった。……そんな顔をするくらいなら今からでも連絡すればいい。そう言おうと口を開きかけたところで、不意にリカがこちらに向き直った。
「ねえ、ハイジ君さ」
「なんだよ」
「ハイジ君は、アイネのこと好き?」
唐突な問いかけに反応できなかった。これまでリカには何度もこの手の質問をされているが、こんな真剣な目で聞かれたのははじめてだった。
「……なに言ってるんだ、いきなり。それについてはこれまでに何度も――」
「正直に答えて。お願いだから」
「……」
「ねえ……一生のお願いだから」
「……ずいぶん安い一生のお願いだな」
軽い言葉を返しても真摯な眼差しに変化はなかった。……この質問からは逃げられないと思った。俺は覚悟を決め、心の中にその質問に対する答えを探した。
「……好きだよ。どういう好きかは別にして」
「一言多い」
「けど、それが正直なところだ」
言葉通り、それが正直なところだった。隣に目を遣るとリカは少し不満げだが、それでも納得したような顔をしていた。彼女がなぜいきなりそんな質問をぶつけてきたのか訝しく思いはしたが、あえて問い質そうとは思わなかった。
「そう言うリカは、アイネのこと好きなのか?」
「好きに決まってるじゃない。大好き」
「あいつのどのあたりが好きなんだ?」
「可愛いとこ」
即答だった。予想外の答えが返ってきたことで、俺は少し面食らった。個人的な見方からすると、可愛いという形容ほどあいつから遠いものはない。男好きのするメリハリの効いたスタイルにはたまにどきっとさせられるし、飾り気のない
「……可愛いか? あいつ」
「うん、可愛い」
「どういう意味の『可愛い』だよ?」
「『キュート』の意味」
「それってあいつから一番遠い言葉だと思ってたんだけどな……」
「それはまだあの子がハイジ君に心を許していないってことだね」
「……そうなのか?」
「もっと仲良くなったらそういう顔も見せてくれるよ、きっと。可愛いときのアイネは本当に可愛いの。女の私でさえ胸がきゅうんとなるくらい、すごく可愛いんだから」
……にわかには信じがたい話だと思った。そんなアイネの姿など想像もつかない。胸がきゅうんとなるどころか、年相応の女らしい涙さえ見たことがないのである。
たとえばペーターなどは割とよく泣く。キリコさんは滅多に泣かないがそれでも泣くときは泣く。だがアイネは泣かない。少なくとも俺は彼女が泣いているところを一度も見たことがない。
地区予選のあの日の印象がそれほど強かったということもあるのだろうが、『アイネは何があっても泣かない』というのは、俺の中でひとつの真理のようなものになっている。もちろん、それは俺にとってマイナスの印象を持つものではない。だがそんな
考えの糸が切れたところでふと隣を見ると、リカは俺を横目に見つめながらくすくすと笑っていた。俺は何だかその笑顔を見ていられなくて目を逸らした。
……どうしてこんな話になってしまったのだろう。わけもない羞恥心を覚えながら、俺はそう思った。会議に来なかったことについてリカを問い詰めていたはずが、いつの間にかこんな話になってしまっていた……。
「ハイジ君はちょっとあの子に似てるね」
「え?」
「アイネによく似てる。可愛いところが」
「……何の話だ」
「大事なのはここからだからね。色々つらいこととかあると思うけど挫けちゃだめよ~?」
「だから何の話だ」
――前屈みになり踞っているリカに気づいたのはそのときだった。短い髪の毛が膝にかかり、背中が小さく震えている。
「リカ……?」
呼びかけに返事はなかった。――刹那、俺はひどく場違いな臭いを嗅いだ。乾ききった路地裏の大気に溶ける錆びた鉄のような臭い。その臭いがすぐ隣からただよってきているのを知り、俺は迷わずリカの肩を掴んだ。
「おい――リカ!」
途端、リカの身体はぐったりと俺の腕の中に転がりこんできた。そこで目にしたものに俺は愕然とした。リカの服は血塗れだった。腹のあたりを中心にシャツからスカートまで赤黒い血の染みがじっとりと広がっていた。
「……何だよ、これは」
信じられないものを見る思いで腕の中のリカを眺めた。あまりのことに何をどうすればいいのかわからなかった。そんな俺に労るような笑みを向け、「いいの、気にしないで」とリカは言った。
「いいわけないだろ! そうだ救急車だ。救急車を……!」
公衆電話が近くにあるはずだった。そこから救急車を呼ぼうと俺は立ちあがりかけた。だがそこでリカは思いもよらず強い力で俺の腕を掴み、「呼んじゃ駄目」と言った。
「……救急車は駄目。いま救急車なんて呼んだら……舞台できなくなっちゃうよ……?」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
激昂して叫んだ。けれどもリカは俺の腕を掴む手を離そうとしない。どうすればいい……どうすれば。混乱のなか俺は焦りに焦った。そこで不意に尻のあたりに振動が起こった。
「……!」
携帯のバイブだった。こんなときに何で電話がかかってくるんだ――と苛立ち紛れに俺は携帯を取り出した。広げるとディスプレイには『アイネちゃん』という文字が表示されていた。そこで閃くものがあった。そうだちょうどいい、アイネに救急車を呼んでもらえばいい! 通話開始のボタンは緑色のこれ……!
『――もしもし』
「もしもし!」
『……』
「もしもしアイネか!?」
ほとんど叫ぶような声で回線の向こうに呼びかけた。けれども返事は返ってこない。電波が悪いのだろうか。そんなことはない、ディスプレイの右上に黒い棒が三本ちゃんと立っている……!
「もしもし! もしもし!?」
『……どうしてハイジが出るの?』
やっと声が聞こえた。やはり電波のせいではなかった!
「もしもしアイネか? 聞こえてるんだな!?」
『こっちが質問してるの。どうしてキリコさんの携帯にハイジが――』
「そんなことはどうだっていい! リカがここにいるんだ!」
『え……? リカがそこにいるの?』
「そうだリカがここにいる。それでちょっとヤバいことになってる!」
『……ヤバいこと?』
「救急車呼ぶような状態なんだよ! 公衆電話が近くにあるはずなんだけどそこまで行けないんだ! だから代わりにアイネが呼んでくれ! 頼む!」
『ちょっと落ち着いて、ハイジ』
冷たいアイネの声が耳に届いた。受話器越しだからかも知れないがこれまでに聞いたことがないほど無機的な声だった。
『救急車を呼ぼうにも行き先がわからないんじゃ呼びようがないじゃない。そこはどこなの?』
たしかにアイネの言う通りだった。俺は頭をあげ、辺りを見まわした。けれども住所を明示するようなものは視界に入らなかった。
「わからない。ここがどこかわからない……!」
『少し歩けば住所の書いてある電柱があると思うから』
「それもできない。俺はここから動けない」
『何で動けないの?』
「何でって……リカに腕を掴まれてるから――」
そこで俺は絶句した。
……リカがいなかった。さっきまで俺の腕を掴み、苦しげに喘いでいたリカはもうどこにもいなかった。
『……なに言ってるのかわからない。だいたいハイジはその携帯持ってるんでしょ? だったらその携帯で――』
「何で……だ?」
立ちあがって辺りを見まわした。だがそこには誰もいなかった。リカは――どこにもいなかった。
『ハイジ……? どうしたの?』
「……リカがいなくなった」
『……どういうこと? わけのわからないことばっかり言わないで』
「ごめん……さっきまでのぜんぶ忘れてくれ」
『さっきからなに言ってるのよハイジ! ちょっといい加減に――』
アイネの返事を最後まで聞かずに電話を切った。さっきまでリカがいた自分の腕の中を見つめ、それから周囲を眺めた。
だが、そこには誰もいなかった。何がどうなっているのかまったくわからなかった。意味もなく立ちあがり、それからまたその場にへたりこむ……そんなことを何度か繰り返した。
また携帯のバイブが震えた。アイネがかけ直してきたに違いない。
その電話には出ず、怒ったように振動するその赤い携帯を見つめながら、俺は自分がどうしようもなく間の抜けたことをやってしまったことに気づいた。最後のあたりでアイネが言おうとしていたこと――ここに携帯があるのだから、この携帯で救急車を呼べばいい。……まったくその通りだ。返す言葉もない。使い慣れないものを持つからこういうことになる……。
またバイブが震えた。俺は携帯を開き、赤いボタンを押した。一秒……二秒でディスプレイの表示が消える。使い慣れない俺でも電源の切り方くらいはわかる。
静かになった携帯をジーンズのポケットに突っこみ、俺は両手で顔を覆った。……いったい何がどうなっているのだろう。リカはどこへ行ってしまったのだろう。ぐるぐる回る頭を抱え、俺はしばらくその場から動けなかった。腕にはまだ、そこを掴むリカの手の感触がはっきりと残っていた。
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