248 掛け違えたボタン(7)

 小屋に帰り着いたときにはもう薄暮れだった。予想しないことではなかったが、アイネが扉の前で待っていた。


 俺は何も言わないままアイネの隣に立ち、扉に背持たれた。精神も身体もそのまま座りこみたいくらいに疲れきっていた。


「それで、何があったの?」


 いつもより低く落ち着いた声でアイネが尋ねてきた。彼女がこういう声で喋るときは二つに一つ。本当に落ち着いているか、逆にそんな声をつくらねばならないほど感情が高ぶっているか、そのどちらかだ。


 ……今のアイネがそのどちらであるかは考えるまでもない。この先の流れは容易に想像がつく。だがその流れをうまく制御するだけの余裕は、今の俺にはない。


「俺さ……今すごく疲れてるんだ」


「そんなこと聞いてないんだけど」


「わかってる。電話であんなこと言って……あんな切り方して、それでアイネがどう感じてるかはわかってる。だから謝る――ごめん」


 そう言って俺はアイネに向き直り、深々と頭を下げた。今はこうするしか方法がない。これでわかってほしい。……だがアイネは意に介さず、「謝ってなんて言ってない」と吐き捨てるように言った。


「わかってくれ……疲れてるんだ。今おまえとやりあってる精神的な余裕は――」


「わたしだって疲れてる! のせいでくたくたに疲れきってる!」


 俺の台詞を遮ってアイネは一息にそう言った。会話はまだはじまったばかりだが彼女は既にオーバーヒートしかけている。このままだとまたこじれてしまう。それだけはどうしても回避しなければならない。


「真面目な話だ……アイネ。俺たちは今、どちらもかなり疲れている。精神がぼろぼろになって、ささくれ立ってる。おまえはもう熱くなりかけてるし、俺だっていつまでつかわからない。このままいくと不毛な争いになる。……それは理解してくれるよな?」


 ありったけの誠意をこめて言った。アイネからの返事はない。理解してくれた証拠だ。……そう、ちゃんと話せば彼女はわかってくれる。いくら感情が高ぶっていてもアイネの中から理性の灯が消えることはない。


「一晩ぐっすり眠って、明日になったらぜんぶ話す。そういうことで今日は勘弁してほしい……お願いだ」


 そう言って俺はまた頭を下げた。これが俺の精一杯だった。アイネの黒い革靴をじっと見つめながら頭を下げ続けた。アイネはしばらく黙っていたが、「二つだけ聞かせて」と言った。俺は頭をあげた。


「一つめだけど、これだけはどうしても教えて。……リカは無事なの?」


「……」


 ――答えられなかった。その質問に俺は答えられない。


 ……と言うより、その質問に答えられるくらいなら最初から最後までぜんぶ喋っている。そこが話せないからこそ何度も頭を下げたのだ。……いっそ声に出してそう言ってやりたかった。だがそれを言ってしまえば何もかも台無しになる……そんなことはもう目に見えている。


「……悪いが答えられない」


「……どうして答えられないの?」


「察してくれ……頼むから」


「察してって!? それならわたしの気持ちも察してよ! そんな風に言われたら心配でしょうがないじゃない! リカのこと心配でしょうがないじゃない!」


 ……で、結局こうなる。


 アイネの言っていることは正しい……百パーセント正しい。電話で要領を得ない話をしてアイネを混乱させたのは俺の非だ。当然、アイネにはそれを追及する権利があるし、俺はそれを説明すべきだ。けれども俺にはその用意がなかった……だから最初に謝った。そんな努力も虚しく、衝突はこうしてはじまってしまった。


「……俺が悪かった。ごめん」


「謝ってなんて言ってない!」


 激昂して捲し立てるアイネの声がどこか遠くの方から聞こえてくる。


 ……話してしまえばよかったのかも知れない。そのことでアイネをさらに混乱させる結果になったとしても、あの顛末を洗いざらい話してしまえばよかったのかも知れない。そうすれば、少なくともこの不毛な展開は避けられた。


「救急車って何よ! 救急車呼ぶようなことになってたんでしょ!? リカに何があったのよ! 教えてよ! 教えてったら……!」


 ……だがこうなってしまった以上もう駄目だ。何よりあれをうまく説明するだけの気力が俺の中にはない。どうしようもなく疲弊した精神にアイネの声がただ喧しい。……今はただ眠りたい。泥のように眠って、ひとときでも頭を休めたい。


「お願いだ……今日はもう帰ってくれないか」


「帰れるわけないじゃない! こんなぐちゃぐちゃの頭で明日の朝までなんて堪えられない……! リカはどこにいるのよ……それだけでも教えてよ!」


 それはこっちが聞きたいくらいだ。思わずそう言ってしまいそうになった。アイネは俺のシャツの胸のあたりを掴み、恫喝するように俺を責め立てる。いつにない姿だった。彼女がこんな風に取り乱すのを見たのははじめてかも知れない。


 ひょっとして泣いているのかと思った……けれどもやはり彼女は泣いてはいなかった。アイネの目は怒りとも怨みともつかない激しい感情の炎をその中に宿して、ぎらぎらと狂おしく輝いて見えた。だが俺に向けられたその双眸は、黄昏の薄暗がりにもはっきりわかるほど乾ききっていた。


「ねえ簡単なことでしょ!? わたし何か難しいこと聞いてる!? リカが無事かって聞いてるだけでしょ!? どうしてそんな簡単なこと教えてくれないの!? 教えて! ねえ教えてよ!」


 糾弾が加速するにつれ、アイネの目は一層きつく激しい光をもって俺を捉えた。その視線から逃れることもせず、俺はただ無気力に彼女を見つめ返した。そうして見つめているうち、目の前で俺を責める彼女が知らない誰かのように思えてきた。不条理に言いがかりをつける名前も知らない女。乱暴にシャツを掴んで秘密を吐けと強要する見ず知らずの他人……。


 ――頭の中が徐々に白くなってくるのがわかった。明らかに危険の兆候だった。このまま頭が真っ白になれば取り返しのつかない破局を迎えることになる。だが疲れ果てた俺に抗う気力はない。いい加減に疲れた……何もかもがどうでもいい。この感情に流されるままもうどこへでも――


「教えてよ! 教えてったら! ハイジの知ってること教えてよ! ねえリカをどこにやったの!? リカをどこに隠したの!? 教えてよ! 教えてったら! お願いだから――」


 ばあん――と、真横で鈍い音が響いた。それでアイネは口を閉ざした。


 右手に触れる冷たい鉄の感触に続いて、じんわりとした痛みが腕にのぼってゆく。あるいはどこか痛めてしまったかも知れない。……だが冷静を取り戻した心の中に、殴ったのが扉で本当によかったと思った。


「明日、話す」


 ほとんど呻くように、俺はそれだけ絞り出した。


 アイネはしばらく黙っていた。見なくても俺には彼女がどんな顔をしているのかわかった。そんな顔をさせるつもりはなかった……彼女を傷つける気持ちは、俺にはなかった。


「……そう」


 一言そう呟いて、アイネは帰ろうとした。


 喪心の中、俺はこのまま彼女を帰したくないと思った。こんな気まずい状態のまま帰したくない……そう思ったとき、俺の口は開いていた。


「昨日のことは、悪かった」


 アイネは立ち止まり、そこでおもむろにこちらを振り返った。


「……何のこと?」


「カラスの前で言ったことだ」


「……思い出させないでよ、そんなの」


 驚くほど冷たい声でアイネはそう吐き捨てた。


 その言葉は鋭いきりのように俺の胸を穿うがった。だが俺は何度でも謝らなければならない。あの台詞を口にしたことは本当にいけなかった。なぜなら……そう、なぜなら――


「本当に悪かった。ああいうことは言わないって……そういう約束だったもんな」


 ――今、思い出した。俺はたった今、その約束を思い出した。


 そうだ――そういう約束だったのだ。彼女ほど約束を大事にする人間はいない。それを考えればアイネがあれほど怒ったのも納得できる。他の何についてでもなく、俺は約束をないがしろにしたことについて謝るべきだったのだ。何度でも謝ろう。アイネが許してくれるまで何度でも……。


 だがそう考える俺の前で、アイネは厳しい表情を崩さないまま、


「何それ? そんな約束した覚えないんだけど、わたし」


 と言った。


 ……話はそれで終わりだった。呆然と立ち尽くす俺を残して、緩慢に濃く深くなっていく夜の静寂しじまの中へアイネの後ろ姿は徐々に小さくなり、消えていった。



 どっと疲れが来て、俺はその場にへたりこんだ。


 今しがた殴りつけた鉄扉が背中に冷たかった。右手を見ると小指の付け根あたりが破れ、うっすらと血が滲んでいた。その右手をぎゅっと握りしめ、俺はいったい何をやっているのだろうと、自嘲だけでできた大きく深い溜息をついた。


 ――と、携帯に着信があった。


 電源は切っておいたはずだがいつの間にまた入れていたのだろう。そんなことを考えながら振動するそれを取り出し、開いた。


 発信元は非通知だった。……誰からだろう。俺は仕方なく緑色のボタンに指をのばした。人の携帯など借りるものではない。まして女性のものなど――


『もしもし、ハイジかい?』


 ……キリコさんの声だった。その声に俺はわけもない懐かしさと温かみを感じた。彼女と最後に喋ったのがもう何年も前のような、そんな錯覚に襲われた。


「はい、俺です」


『作戦の首尾はどうだい?』


 単刀直入にそう尋ねてくる。……だがこの質問に答えるのは、正直ひどく辛い。


「……面目ありません。失敗しました」


『何をどう失敗したのさ?』


「敵をみすみす取り逃がしました。それでも一度は捕捉したんですが……」


『ああ、そりゃ仕方ないよ。最初からそんなに期待してなかったしね』


「……おまけにアイネとまた揉めてしまいました」


 そう言ってしまってから、俺はキリコさんへの申し訳なさに泣きたくなった。せっかく作戦を立ててくれ、携帯まで貸してくれたのに、それがいちいち裏目に出てしまった。彼女の心遣いをすべて無にしたことが苦しかった。


『アイネ……聞いたことのある名前だね』


 ふと、回線の向こうでキリコさんはそんな調子の外れたことを言った。……遠回しに慰めてくれているのだろうか。だが今の俺に慰めなどただ虚しいだけだ。


『それで、アイネって子がどうしたって?』


「……揉めたんですよ。詳しい事情を説明しろって」


 そう言いながら、確かにこれでは何のことかわからないなと思った。俺とリカの間に何があったのかキリコさんは何も知らない。そこにアイネがどう絡んで、どう悶着に結びついたのかも、もちろん知らない。


『ハイジは、そのアイネって子のことをよく知ってるのかい?』


「さあ……知ってると思ってましたが、ここ二日ほどでよくわからなくなりましたよ」


 ……どういう慰めか知らないが、今はこの遠回しなキリコさんの気遣いさえも煩わしい。このままでは彼女にまできつい言葉を吐きかねない。そう思い、通話を切る断りを入れようとした。――そのとき妙な一言が耳に届いた。


『まあいい。そういうことなら、とにかく帰っておいで』


「……え?」


『積もる話はこっちで聞くよ。だから早く帰っておいで』


「帰る……って、どこへですか?」


『どこへも何も……研究室に決まってるだろ』


「研究……室?」


 ……研究室といって思い当たるのは大学の研究室しかない。


 キリコさんが某学部の某研究室で日夜博士課程の研究に励んでいることは知っている。けれども俺がその研究室を訪ねたことは今まで一度もないし、何よりどこの学部棟の何階にその研究室があるのか俺はまったく知らない。そこへ帰って来いというのはいったいどういうことなのだろう……。


『研究室といったら研究室だよ。どうしたのさハイジ。……何かあったのかい?』


「あったと言えば……色々あったんですが」


『……! これ以上はまずいようだよ。それじゃ切るけど……わかってるね、ハイジ。早く帰ってくるんだよ? できるだけ早く、ちゃんといつもの所に――』


 通話の切れた携帯を耳に押しあてたまま、俺は少しのあいだ動けなかった。だがやがてそれをジーンズのポケットにしまうと、俺は立ちあがり歩き出した。


 キリコさんの研究室がどこにあるかなどわからなかった……だから、そこに向かっていたわけではない。どこへ向かっているかもわからずに、茹だるような薄暮れの町を闇雲に歩いた。


 どれほど歩いたのだろう。小さな橋のたもとでふと俺は立ち止まった。藍色に染まりゆく空の裾に連なる一本の細い橙の帯。一日の名残の熱を孕んだ濃厚な初夏の風の匂い。そのひとつひとつに……俺は奇妙な胸騒ぎを感じた。


 ――世界のどこかで歯車が噛み合った。巨大な舞台装置が音を立てて動き出した。そんなありもしない幻想を覚えて……俺は踵を返し、来た道をまたゆっくりと引き返した。

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