249 泣かなかった、泣けなかった(1)
――今朝もまた夢を見ている。今朝……そう、もう今朝という時間だ。
自分で夢を見ているとはっきりわかる夢。たしか明晰夢とかいっただろうか、その手の夢を俺は明け方にしか見ない。だから今はもう今朝というべき時刻で、昨日の朝と同じように寝覚める直前の浅い眠りのなかに夢を見ているということになる。
……これは昨日と同じ類の夢だ。頭の片隅に
場所は飲み屋のカウンター。居酒屋と呼ぶには小綺麗にすぎる、だがバーと呼ぶには垢抜けない飲み屋。俺はそこにアイネと並んで座っている。店内には何か音楽がかかっていたはずだし、他の客の声もあったと思うのだが今は聞こえない。隣で喋るアイネの声がかろうじて聞こえるだけで、その他の音は何も聞こえない。
俺たちの前にはそれぞれひとつずつグラスが置かれている。アイネの前に置かれたタンブラーの中身が何であるかはわからない。彼女のことだからノンアルコールの何かだったのだろう。だが俺のロックグラスを満たす暗褐色の液体がブラックルシアンであることは間違いない。
大学入学早々に酒を飲んでいるわけだから何かしらの法律は犯していたはずだが、アイネは何も言わなかった。約束やルールにこだわる彼女が、自分と関わりのないルールについて他人にとやかく言う人間ではないことを知ったのもこのときだ。
この晩はそのウォッカベースの強いカクテルばかりを立て続けに飲んだ。……そうして翌日に生涯最悪の二日酔いを味わい、ほのかなカルーアの臭いが残るゲロを便所に流しながら、もう二度とそれを飲まないと心に誓うことになるのだ。
「――つまり、最初は分隊だったってことなの。劇団ヒステリカ即興劇分隊。庭園とかで小さな即興劇を予告なしに
これはヒステリカに入団後、はじめてアイネと二人で飲みにいったときの会話だ。俺から誘ったのかアイネに誘われたのか……彼女が飲みになど誘うわけはないから、たぶん俺からだったのだろう。
会話は高校の頃の述懐からはじまり、やがて俺たちが入団したばかりの劇団のことに移った。劇団の主宰がなぜ団長ではなく隊長か、俺が尋ねもしないそれについてアイネはひどく熱心に語っていた。
「でも母体だった劇団は解散しちゃって、その分隊だけが残ったんだって。それでその分隊が劇団に格上げになって、だから劇団になった今でも団長じゃなくて隊長ってことみたい。キリコさんに聞いたんだけど、なるほどなあって思った」
そんなアイネの話に俺は相槌さえ打たずカクテルをあおり続けた。
この時点で俺は既にかなり酔っていて、話の内容は頭に入ってくるが何の感慨もなかった。ただときおり彼女の言葉に混じる『キリコさん』という名前を聞くときだけ俺の心はぎしぎしと音を立てて軋んだ。
……その名前は耳にしたくなかった。なぜなら俺はこの前日キリコさんに告白して、振られたばかりだったのだ。
「キリコさんはその即興劇分隊の初期メンバーらしくて、立ち上げのときのこととか色々話してくれたよ。構内でのパフォーマンスもキリコさんが取り仕切ってたんだって。わたしがそういうの面白そうだって言ったら、これまでは人数が足りなくてできなかったけど、これからまたやろうって言ってくれて――」
……だからキリコさんがどうこういう話など聞きたくなかった。
彼女に振られたこと自体はまだ諦めることもできたが、劇団のことも彼女のこともよく知りもしないのに勢いで告白などした自分を責める気持ちは強かったし、何よりこれからのことを思うと本当に気が重かった。
……ヒステリカを辞めるという選択肢もあった。だが振るにしてもこれ以上ないほどの思いやりをもって振ってくれたキリコさんのためにも、そして何より即興劇に興味を持って入団したばかりの自分の誇りのためにもその選択肢だけはとれなかった。
それが理由で、この場にアイネがいてくれたのはありがたかった。もしアイネがいなければ俺はひたすら暗い気持ちでどこまでも深い淵に落ちていくような飲み方をしていたと思う。
黙々と甘いカクテルを飲む俺の隣でアイネはとてもよく喋った。あとにも先にも、この晩のアイネほど朗らかによく喋る彼女を、俺は見たことがない。
「……こんなに話すやつだったんだな」
「ん?」
「あまり喋らないタイプかと思ってた。見た目からだけど」
……そうだった。ようやく口を開いた俺の台詞がこれだった。まるでアイネのお喋りをとがめるような無神経で遠慮のない台詞。けれどもそんな俺の台詞に気分を害した様子もなく、グラスの中のものを少し口に含んだあと「相手によるかな」とアイネは言った。
「たぶん、あまり喋らない方。ただハイジ……のことは昔から知ってるし」
少し照れ臭そうな調子でアイネはそう言った。
ハイジという名前を口にするあたりがどこかぎこちない。無理もない話だった。新しい名前を与えられ、今後はいついかなるときもその名で呼び合えと厳命されてからまだ二週間足らずなのだ。
アイネという呼び名は昔からの渾名ということなので、呼ぶ方も呼ばれる方もすぐ慣れたが、木に竹を接ぐようにまったく新しい名前をつけられた俺は容易に馴染めなかった。そしてそのハイジという珍妙な名前をつけてくれたのは、他ならぬキリコさんだったのだ……。
「高校のときはあまり話さなかったけど、三年間ああいう感じだったこともあって他人のような気がしないんだよね。それにずっと敵同士だったのが今度は一緒の舞台に立つってのも、面白い縁だと思わない?」
再び沈んでいこうとする俺などお構いなしにアイネはまた喋りはじめた。俺はそこで彼女の声にどこか気負ったような響きがあることに気づいた。そうして何となく、彼女が無理をしてこの場を盛りあげていてくれていることに感づいた。
「……無理させてる?」
「え?」
「ひょっとして俺のこと、気遣ってくれてる?」
俺がそう言うと一瞬アイネは意表をつかれたような顔をし、だがすぐ何気なさを装っているのが見え見えのポーズでグラスを口に運んだ。
……冗談のようにさえ感じられるその演技に俺は少し呆れた。このときはじめて、彼女は実人生での演技は下手なタイプかも知れないと思ったが、その直感が当たっていたことはあとあとわかることになる。
そんな俺の感想など知らず、いかにも気のない素振りを繕いながら、「気遣わなきゃいけないようなことでもあったの?」とアイネは言った。
彼女が言っていることは理解できた。
……聞いてもらいたい気がまったくなかったと言えば嘘になる。ここでキリコさんに振られた顛末をアイネに話していたら、彼女はきっとそれを親身になって聞いてくれたと思う。そうしてそれからのヒステリカで俺がキリコさんとうまくやっていけるように何かと気を遣ってくれたと思う。それはそれで悪いことじゃなかったに違いない。けれども俺はそうしなかった。
「さあ……どうだろうな」
曖昧に言葉を濁して俺はブラックルシアンをあおり、頭の中で燻っている昨夜のことをまた考え出した。
――即興劇団『ヒステリカ』規則第一条、団内の恋愛を固く禁ずる。右に違反した者は即刻退団。
……時代錯誤で馬鹿馬鹿しい限りの規則だった。だがその規則の合理性をキリコさんは実にわかりやすく語ってくれた。五人に満たない小さな劇団の中にそういうのがあったら気持ち悪い。新しく入ってくる団員への防波堤にさえなりうる。……確かにその通りだった。その規則を前に俺はキリコさんに振られたわけだが、それがただの建前でないと俺は信じた。
「……まあ、何となく落ちこんでるようだったから。わたしにもそれくらいの目はあるし」
落ちかけていたところにアイネの台詞がかかった。
カウンターの奥、棚にならぶ色とりどりの酒瓶を眺めながらさりげない口調でアイネは告げてきた。その見え透いた態度に俺は軽い反発を覚えた。
……聞きたいなら聞けばいい、いっそ根ほり葉ほり聞いてくれればいくらでも話してやる……そう思った。
「……詳しく聞かないのか?」
「話したいの?」
「……話したくない」
「それじゃ聞かない」
思い切りよくそう言うとアイネは酒瓶を眺めるのをやめ、こちらに視線を戻した。その目で、彼女が本当にもう聞かないと心に決めたということを俺は理解した。
アイネはタンブラーの中身を空にし、代わりの飲み物を注文して元の表情に戻った。
束の間の見え透いた演技はもう終わっていた。次の一杯を頼んだことの意味もよくわかった。沈みきっていた気持ちが少しだけ上向いた。――いい女だな、と俺は思った。
「いい女だな、あんた」
思わず口に出してそう言っていた。
さすがにアイネは驚いたように目を丸くして、「……いきなり何の話よ」と訝しげに返した。
「何となくそう思って。あんたいい女だから、こんな風に優しくされたら俺、そのうちあんたに惚れるかもな」
「そんなつもりで優しくしたわけじゃ……と言うか、別に優しくなんてしてないし」
そう言って赤くなるアイネを見て、気持ちが一層上向くのがわかった。
さっきの尋問が演技で今のこれが演技でないとしたら、俺の隣に座っている彼女はキリコさんとはまったく逆のタイプの、けれども同じくらいいい女だと思った。
昨日に振られたばかりでそんなことを考えるのは不謹慎だと感じはしたが、これから同じ劇団でやっていくなか俺はいつかこの女に惚れるかも知れない……酔いのまわる頭でぼんやりそう思った。けれども――
「けどいくら惚れても、俺はあんたとはつき合えないんだよな……」
「……?」
そうして今度は俺が問われもしないのにその規則についてアイネに語った。
即興劇団『ヒステリカ』規則第一条、団内の恋愛を固く禁ずる。右に違反した者は即刻退団。
キリコさんに言われたままの言葉を使って、まるでアイネをたしなめ説得するように切々と語った。結局、俺は自分からそのことをアイネに喋ったのだった。キリコさんに告白したことと、その結果振られた点については伏せて。
……だが今にして思えばすべて喋ったのと何も変わらない。少なくとも俺がキリコさんにそうした感情を抱いていた事実と、そこに規則を突きつけられてショックを受けたことだけは間違いなくアイネに伝わってしまっただろう。その揚げ句の深酒に自分がつき合わされたのだということも。
だがそんな俺の繰り言をアイネは何も言わず、いちいち頷きながら聞いてくれた。
「ばかばかしい規則だけど、俺は守ることにしたよ」
「……うん」
「言ってることはわかるしな。守らないといけない」
「……うん」
『約束』をしたのはその話の最後だった。完全に酔いがまわって落ちる寸前、俺はほとんど押しつけるような勢いでその『約束』を口にしていた。
「特に俺たちは同期だからな……。いつか二人だけになる可能性もあるし……絶対に守らないと。いいか、俺たちは何があっても恋人にはならない……。たとえお互い好きになっても……絶対にそういう関係にはならない。約束してくれアイネ……お願いだ」
「うん……わかった」
――その一方的な『約束』をアイネがどんな表情で受けとめたのか、今はもう覚えていない。
その『約束』さえ俺はもうすっかり忘れていた。世の中に溢れかえる約束の例に漏れず、あったことさえも忘れられ、記憶の片隅で朽ち果てていく
……けれども人間の記憶とは本来、失われないものなのだという。忘れてしまった記憶というのは、頭から消去されてしまったのではなく、ただ思い出せないだけなのだと。思い出はみな美しいと誰もが言うが、それはただ自己防衛のために都合の悪いことを思い出さず、美しい記憶しか思い出さないだけなのだと。
おそらく昨日の事件がなければ俺はその『約束』を思い出すことはなかっただろう。けれどもひとつ言い訳ができるなら、昨日まで忘れていたのは決して都合が悪かったからではない。
思い出す必要がなかったのだ。
それはもう日々の生活に染み渡ってあまりにも自然なことになっていたから……思い出す必要がなかったから、俺はその『約束』を昨日まで思い出さなかっただけなのだ――
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