250 泣かなかった、泣けなかった(2)
目が覚めたあと、俺はしばらく温かい
幸せな夢から醒めたとき特有の包みこまれるような余韻――悪い夢ではなかった。そう……あれは俺にとって悪い思い出ではなかった。
けれども意識がはっきりしてくるにつれ、その幸せな余韻は潮が引くように消えてゆき、代わりにそのまったく逆の気持ち――昨日の朝の寝覚めに似た憂鬱が胸の奥から迫りあがってくるのを覚えた。
「……っ!」
そうしてすぐ最悪の気分になる。思い出したくもない、昨日の小屋の前でのアイネとの衝突を思い出して。
……回想はその小屋の前を振り出しに裏通りでのリカに移り、公園でのキリコさんとの遣り取りまで遡る。そこからすべてが終わってしまったあと携帯で彼女と交わした噛み合わない会話に飛び、そしてまた黄昏の町に凍てついた目で俺を睨みつける女の前に引き戻される。
『――何それ。そんな約束した覚えないんだけど、わたし』
俺は覚えている……こうして思い出した。
入団して間もない頃、俺たちはたしかにあの『約束』を交わした。はじめて二人で飲みに行った席で、強かに酔っ払った俺が無理矢理押しつけるようにして……。
そんな形で交わされたものであっても約束には違いない。それを無視するような態度をとった俺にアイネは怒りを覚えた――そう思った。それですべての辻褄が合うと思った。
だがそんな約束などした覚えはないとアイネは言った。リカのことでいつになく感情的になり、激しく執拗に俺に詰め寄ったそのあとで。
――リカのことは気にかかる。起きたばかりの真っ
今日には話すと明言した手前、朝練が終わったあとにでもアイネにそのことを説明しなければならないが、今もってうまく説明できる自信はない。
それはそうだ……うまく説明などできるはずがない。正直な話、こっちが説明を求めたいくらいなのだ。
……いずれにしても昨日は失敗だった。隊長のくれた一日をまるで無駄に過ごし、アイネとの関係を少しも改善できなかった。
いや……むしろ更に悪化させたと言っていい。あんな激情をあらわにするアイネははじめて見たし、その反動はこれから来ると考えて間違いない。……そのことを思うと気が重い。舞台も近いというのに毎日毎日、俺たちはいったい何をやっているのだろう。
だが――それでも昨日とは違う。今日から本番の日曜まで俺たちに休みはない。確実にこなしていかねばならない仕事が山積みになっている。
その皮切りに今日の午後には常会が待っている。実質的に演技の確認ができる最後の機会だ。その意味がわからないほど愚かなアイネではない。あるいは何事もなかったかのように自然な態度を見せてくれるかも知れない。
「……まあ、ありえないだろうけど」
そう独り
◇ ◇ ◇
少し早めに小屋を出て大学に着くとペーターが既に来ていた。
会館の玄関に続く石段に立ち、発声練習をしている。集合の時間までにはまだ二十分近くあるが、さすがペーターといったところだろうか。彼女の練習熱心は高校の頃からずっと変わらない。
「あ、おはようございます。先輩」
俺に気づくとペーターは石段を下り、まるで主人を見つけた犬のようにこちらに駆け寄ってきた。
「相変わらず早いな」
「それはそうですよ。舞台はすぐそこですから」
てらいのないいつも通りの笑顔でペーターはそう言った。だいぶ前から発声を続けていたのだろう、その額にはうっすらと汗の玉が光っている。
「先輩こそ今朝は早いですね。どうしたんですか?」
「まあ、舞台が近いからな」
「そうですよね。舞台が近いと遅くまで寝てられませんよね、やっぱり」
同意するように何度も頷いて見せる彼女にちくりと胸が痛んだ。
今朝、俺がいつもより早く来たのは舞台のためではない。アイネより先に着いてやる気のあるところを見せ、せめて少しでも有利にことを運びたいという計算があったからだ。……純粋に舞台のために早起きして自主練に励んでいるペーターを前に、そんな自分がひどく薄汚いもののように思えた。
「先輩? どうしたんですか?」
「え? ああ、何でもない。……少しくしゃみが出そうになって」
「ひょっとして風邪ですか?」
「いや、違うと思う。埃でも入ったんだろう」
「あ、それたぶん違いますよ。きっと今朝は眩しいからです」
「……眩しい? くしゃみと関係あるのか?」
「ありますよ。太陽が眩しい朝はいつもくしゃみが出るんです私。そういうのってありませんか? 今朝は雲がなくてすごく眩しいから、きっと先輩のもそれだと思うんですけど」
「ああ……そうかも知れないな」
たしかに今朝はひどく眩しい。会館前の景色を眺めながら今さらのように俺はそう感じた。力強い初夏の陽光がどこまでも溢れていた。その眩しい光のなかに薄汚れた校舎の壁さえも輝いて見えた。
「……そうだな。太陽が眩しかったせいだ」
「きっとそうですよ。でも変な話ですよね。何で太陽が眩しいとくしゃみがしたくなるんだろう?」
「どこかで繋がってるんだろ。太陽が眩しくて人殺しの衝動に駆られる男もいるようだし」
「え? そんな人がいるんですか?」
「いるよ。……と言うか、それでピンと来ないやつがなぜ文学部になんか入ったんだ?」
「あ、と言うことは戯曲の登場人物ってことですね。待っててください、すぐに思い出しますから」
「戯曲じゃなくて小説だけどな」
難しい顔つきで考えこむペーターを見て、俺は小さく溜息をついた。
彼女は基本的に小説というものを読まないから、どれだけ待ったところで、『それってママンが死んだ人ですか?』というような気の利いた答えが返ってくることはないだろう。ぼんやりとそんなことを考え――そうして俺は自分の気持ちがさっきよりだいぶほぐれていることに気づいた。
「思い出しました。テネシー・ウィリアムズですね?」
「だから、戯曲じゃないって言ってるだろ」
……何だかんだで俺はこいつに癒されていると思った。
高校の頃、露骨な好意を向けてくる彼女に俺はただひたすら苛立ちを感じていたが、今にして思えばそれに救われていた部分も確かにあった。
今朝のこれもそうだ。いつも通り気の置けない会話もさることながら、舞台を前に朝早くから来て自主練に励んでいる後輩の姿に、叱責にも似た力強いエールを受けた思いだった。
いずれにしろ練習の邪魔をしてしまった。俺も一緒にやるから発声に戻ろう――そう言いかけたところでペーターは俺の肩越しに何かに気づいたようにそちらを見遣って、「あ、おはようございます」と声をかけた。
「おはよう」
後ろから乾いた声がかかった。アイネの声だった。恐る恐るそちらを振り返ったが、振り返るより早くアイネは俺の脇を擦り抜け、石段に向かっていた。
「おはよう」
その背中に俺からも挨拶を投げかけた。だが昨日の朝と同じようにアイネからのおはようは返ってこない。もっとも形だけ考えれば、アイネのおはように俺が返事をしたようにも見てとれるから、一概に昨日と同じとは言えない。
……まあ昨日と同じかどうかは別にして、いずれにしろ機嫌は良くないと考えるべきなのだろうけれども。
アイネは石段に腰を降ろすと早々に『虎の巻』を広げた。どうやら時間が来るまでそれを読むつもりのようだ。ここでペーターに発声をしようなどと言えば嫌味ともとられかねない。そう思って俺は口から出かかっていた言葉を寸前で呑み下した。
「……?」
そんな俺をペーターは不思議そうに眺め、それから石段のアイネに視線を移した。……下手に勘ぐられてはたまらないと思ったが、この際どうすることもできなかった。
二人でいるときのペーターは俺を和ましてくれるいい後輩だが、三人目が加わるとその構図は一気に崩れる。特にこういう状況における彼女は俺にとって害にこそなれ、何の助けにもなってはくれない。
――こういう状況で頼りになるのは誰を置いてもキリコさんだった。彼女ならばこの場に居合わせる三人の心理を読みとって巧みに調停してくれる。だがキリコさんはまだ現れない。俺はアイネに倣って『虎の巻』を広げながら、針のむしろに座る思いでその心強い調停者の登場を待った。
◇
例によって時間ぎりぎりに隊長は来た。ほとんど一分の狂いもなく時間通りに来るのがこの人の習性で、だから隊長が来ると同時に朝練がはじまるのがパターンになっている。……けれども今朝はそのパターンから外れることになった。
「キリコさんがまだ来てない」
隊長が着くや、俺はにわかに切迫した思いをこめてその報告をした。
それだけの理由はあった。キリコさんが朝練に遅れることは滅多にないのだ。ましてや舞台を直前に控えたこの時期にそんなことなど考えられない。
朝練開始の時間が近づくにつれ、俺はアイネとの諍いを忘れキリコさんのことばかりが気になり出した。彼女はたいてい時間の十分前に来て下らないお喋りをするのが常なのだが、それが今日に限って時間になっても現れない。
「そのようだな」
隊長の返事はしごくあっさりしたものだった。当然、事情を話してくれるものと思っていた俺はその返事に軽い驚きと戸惑いを覚えた。
「隊長は何も聞いてないの?」
「私の方に連絡は来ていない」
少しも動ずることなく隊長はそう言った。サングラスに隠れてその表情はわからないが、それにしてもあまりにいつも通りであるその態度を俺は訝しく感じた。
……隊長に連絡がいっていないとなれば無断欠席ということになる。だがこの大事な時期にあのキリコさんが無断欠席などするはずがない。
「……電話は繋がったのか?」
「出ない。何度かかけてみたけど」
俺に目を向けず携帯の画面を見つめながら、それでもアイネは質問に答えてくれた。だがそうなると事態はいよいよ切迫してくる。
「隊長、俺キリコさんのとこへ行って様子見てくるよ」
そう言って駆け出そうとした。その俺を、「いや、それには及ばない」という隊長の一言が引き留めた。
「……?」
「行かなくていい。時間だ、朝練をはじめよう」
「……どういうことだよ、隊長。キリコさんが無断で朝練を休むわけない。何かあったのかも知れないだろ?」
「そのことなら心配ない。キリコ君から連絡は受けていないが、その無事は私が保証する。安心していい」
いつに変わらない泰然とした調子で隊長はそう告げた。その言葉に俺は一層の訝しさを感じた。
「……やっぱり隊長はキリコさんから何か聞いてるんじゃないの?」
「いや。さきほど言った通り、私は何も連絡を受けていない」
「それならどうしてキリコさんが無事だってわかるんだよ」
俺がそう言うと隊長は困ったように眉をひそめ、「とにかくそうとしか言いようがない」と答えた。
……その要領を得ない答えに俺は憤りを感じはじめた。今日の朝練にキリコさんが休むとなれば全体の志気に関わる。それなのに答えをはぐらかす隊長が信じられなかった。
「聞かせてくれてもいいだろ。キリコさんは来なくて、理由もわからない。そんなことじゃ心配で朝練なんてできない。隊長は何か知ってるんだろ? それなら聞かせてくれても――」
「ハイジこそ何か知ってるんじゃないの? キリコさんのこと」
更に追及しようとするところに、アイネの台詞が割って入った。相変わらず携帯の画面を見つめながら、素っ気ない口調で彼女は続けた。
「携帯が繋がらない理由も、ハイジはよく知ってそうだし」
そう言われて……はじめて俺はそのことに気づいた。
……そうだ、キリコさんの携帯にかけても繋がるわけがない。その携帯は俺が借りたままになっているからだ。いくらかけてみたところでそれは誰もいない俺の部屋で、羽をもがれた蠅のように虚しく身体を震わせるだけだ。
それで俺は何も言えなくなってしまった。要領を得ない隊長の答えに納得がいった。そんな俺を冷たい目で一瞥したあとアイネは立ち上がり、携帯をジーンズのポケットにしまった。
「いったいどうしたんですか? アイネさん」
それまで黙っていたペーターから声がかかった。思わずそちらを見た。彼女は攻撃的な目でじっとアイネを睨んでいた。俺は即座に危険を悟った。
「どうしてそんなに先輩にきつく当たるんですか?」
今度はあからさまな非難の口調でペーターは言った。アイネの顔が当惑に歪むのが見えた。だがおそらく彼女のそれより俺の当惑の方が激しい。ペーターの次の台詞まで俺ははっきりと予想できた。
「昨日からずっとじゃないですか。何をそんなピリピリして――」
「ペーター」
怒気をこめてその名前を呼んだ。呼ばれた彼女は一瞬びくっと身を竦ませ、それから憂わしげな目を俺に向けてきた。
こちらの顔色を窺うような懐かしい視線。その視線にちくちくといがのようなものを感じた。……久し振りの感覚だった。それは高校最後の夏に向かうあの季節、毎日のように感じ続けたやり場のない苛立ちだった。
「……ともかくキリコ君のことは心配しなくていい。今朝の朝練には来ないが、案ずることは何もない。時間が押している。さあ、発声練習をはじめよう――」
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