251 泣かなかった、泣けなかった(3)
――鮮やかな緑が揺れている。
空は抜けるように青く、午前十一時にさしかかろうとする庭園は紛れもない夏の到来を告げている。穏やかな風の匂いも。じっとりと肌にまとわりついてくる大気の熱も。
朝練が終わったあと俺はここに移動し、そのままずっと動かずにいる。来てしばらくのうちは『虎の巻』を広げていたのだがやがてそれも閉じ、今はただぼんやりと目に映る風景を眺めている。
……結局、朝練はぐだぐだのまま終わった。
発声こそどうにかこなしたがそのあとはほとんど練習にならず、まるで噛み合わないちぐはぐな掛け合いに終始した。いつもなら間違いなく隊長から駄目を出されるレベルの演技だったが、隊長は今朝ばかりは何も言わず、じっと黙ってそのひどい演技を眺めていた。
……もっとも、初っ
使い古された言いまわしだが、人は演技の中で自分を偽れない。心に思うところがあればそれはそのまま演技に出てしまう。今回に関して言えば三人が三人とも釈然としない思いを抱え、それを不完全にぶつけ合ったあと演技に入ったのだから結果は最初から見えていた。
何の手も打たずにそんな茶番を演じさせた隊長に疑問を感じはしたが、言葉にはできなかった。その原因の一端が俺にあることは疑いのない事実だったからだ。
……アイネとの一件がなければもっとましな練習になっていたに違いない。そしてそこにペーターが絡んでこなければ、少なくとも彼女との間だけでもまともな掛け合いができていたはずだ。
だが、今朝の練習が崩れた最大の原因は別のところにある。それはとりもなおさずキリコさんが来なかったことだ。
アイネたちとぎくしゃくした演技を続けながら、生け垣の向こうから照れ笑いを浮かべて駆けてくるキリコさんの姿を祈るような思いで俺は待ち続けた。……だが、彼女は来なかった。遂に最後までキリコさんは練習の場に姿を見せなかった。
朝練が終わったあと、キリコさんの様子を見に行かせてほしいと俺は再び隊長に進言した。だが隊長はすげなくその進言を退け、その件については午後の練習まで保留するように俺を含め三人にそう命じた。
隊長のその命令で朝練は散開となり、アイネは何も言わずその場を去った。そうして俺もまた――演技を見てほしいと言ってまとわりつくペーターを隊長に押しつけ――その場を去りこの庭園に逃げこんだ。
庭園を逃げ場所に選んだのには理由がある。少し気持ちを落ち着けたらまた会館の前に戻るつもりだったのだ。
どんな動機で発せられたものにせよ演技を見てほしいというペーターの要求は妥当だったし、そうすることで彼女との関係だけでも元通りに修復しておきたかった。それは午後の練習までに俺ができることのうちで最も有意義なことだと思った。だから会館にほど近い庭園に逃げこみ、ほとぼりが冷めたら彼女のもとに向かうつもりでいたのだ。
……だができなかった。ほとぼりはいつまでも冷めなかった。
あれからもう二時間近く経とうとしているが、もやもやした気持ちが一向に治まらない。やはりキリコさんが朝練に来なかったことが心に引っかかっているのだ。午後の練習まで保留しろ――と隊長がそう言うからには何か考えがあってのことだろうし、命令とあらば従うしかない。実際これまで隊長の命令に従うことでみな上手くいってきた。……だが今回ばかりは不安が募る。いつもとはどこか違うという感覚がどうしても拭えない。
キリコさんについて隊長は最後まで具体的なことを話してはくれなかった。
だがそんな隊長を、俺は責められない。俺もまた最後まで昨日の出来事を話さなかったからだ。……と言うより、話せなかった。だから事情を知っていることを臭わせながらそれを語ろうとしなかった隊長の気持ちが、俺には何となくわかる。
あるいは隊長も俺と同じように不可思議な事件に遭遇したのかも知れない。そして無用の混乱を避けるためにそれをあえて口に出さなかったのかも知れない。……そういうことなら隊長の気持ちは、まるで自分のことのようによく理解できる。
――それにしても、昨日キリコさんからかかってきたあの電話はいったい何だったのだろう。
俺が気持ちを切り替えられない理由のひとつはそこにある。昨日の午後はおかしなことばかりだったが、そのとどめになったのがキリコさんからの電話だった。『研究室に帰って来い』と、回線の向こうでしきりに彼女はそう言っていた。俺がその研究室の場所を知っていて、いつもそこへ帰ってくることになっている……そんな口振りだった。
もちろん、俺はその研究室へは帰らなかった。代わりに住み慣れた小屋に帰り、寝台に突っ伏して眠りに落ちるのを待ちながら、朝練でキリコさんに会ったら真っ先にあの電話のことを尋ねようと心に誓った。
けれどもその朝練に彼女は来なかった――結果、あの謎めいた電話が俺の中で化け物のように膨れあがったのは、決して不自然なことではないと思う。
あの電話のあと黄昏の町をさまよい歩き、そこで感じた奇妙な胸騒ぎの感覚は、まだはっきりと俺の中に残っている。そればかりかその感覚はこうしている間も少しずつ大きくなっている気さえする。
今はその胸騒ぎの正体がどういった感情なのか言葉にできる。「不安」と「苛立ち」だ。その二つの感情がちょうど半々くらいの割合で混じり合ってもやもやと俺の心に渦巻いている。
そう……そこには確かに苛立ちが含まれている。
キリコさんが朝練に来なかったことはアイネとのごたごたを一時的に忘れさせてくれたが、現実問題としてそれは何も解決できていない。
朝練のあと何も言わずに会館前を去ったアイネの態度が雄弁にそれを物語っている。昨日の宣言通りリカのことを話すつもりでいたのに、その話題に触れてくることもしなかった。……もっともそれを話したところで、あの雰囲気では昨日の二の舞になっていた気もするのだが……。
そうして問題は最終的にリカの事件に行き着く。
とどのつまりはあれが諸悪の根元だ。あれさえなければアイネとの関係がここまで険悪になることはなかった。そしてこれはただの想像だか、それに続くキリコさんからの電話も――あるいはかかってこなかったのかも知れない。
正直、あれこそわからない。昨日に起こった不可解な出来事の中で、あのリカの事件は飛び抜けて不可解だった。
……あれはいったい何だったのだろう。
ちゃんと死んでいるか確認しに来ただとか、俺を撃ち殺そうとしただとか、会話の内容が部分的に異常だったこともある。俺がアイネと電話をしている隙にいつの間にかいなくなっていたというのもおかしい。何よりあいつは腹部から血を流していた。俺の腕の中できれぎれに息を吐きながら、素人目にもはっきりとわかる死にゆく者の表情をリカは見せていた……。
――あんなものを見せられればアイネでなくてもリカのことが心配になってくる。
だが、俺の中でその気持ちが小さいまま燻っているのは、事態のあまりの異常さに感情がついていかないからだと思う。あれが現実に起こったこととは未だに信じられない自分がいるのだ。記憶に残るそれはどう考えても現実としか思えないが、現実として認められない自分も、確かにいる。
「……」
夏を迎えようとする庭園の緑が淡い陽炎の中で揺れている。
真向かいのベンチに横たわって居眠りをしている男がいる。天頂にさしかかろうとする太陽の下、コンクリートの歩道に木漏れ日の光彩がゆらゆら踊っている。不意に――目の前に広がるその風景を幻のように感じた。
幻……そう、今朝も感じたように昨日のあれは幻だったのではないか。
あのとき俺はリカを捜すことに躍起になっていた。彼女を見つけだせばアイネとの仲直りのきっかけになるというキリコさんの言葉を信じたからだ。その強い思いに引きずられるように町中を歩きまわり、一時は脱水して足下も覚束ないようになった。そして水を飲み生き返って――その直後にリカと会った。
幻覚というのは心身が弱っているときに経験するものだという。洋の東西を問わず宗教家が神との対話を求めて断食をするのはそのためだと、何かの本で読んだことがある。そのあたりを踏まえて考えれば、脱水症に倒れかけた俺が切望のあまりリカの幻を見たという仮説は、そうでたらめなものでもないように思えてくる。
……何のことはない。そう考えればすべて俺の身から出た錆だ。
アイネと仲直りしたさにリカの幻を作りあげ、その幻に気狂いの妄想じみたことを語らせた挙げ句に自分の前から消し去った。それを現実と取り違えて大仰に騒ぎ立て、アイネの心を乱してかえって関係を悪化させた。
それが事実だったのだとすれば俺はどうしようもないばかだ……ほとんど狼少年に近い。
……だがひょっとして狼少年も羊を思うあまり、いもしない狼の群れを幻に見たのかも知れない。もしそうだとしたら、俺はもう二度と狼少年という言葉を嘲りの意味で使うことはできない……。
「……何やってるんだろうな、まったく」
溜息まじりに虚しすぎる独り言を吐いた。
そう実際に言葉にしてみると、身体の中から魂が抜けて出ていくようなひどい脱力感を覚える。
……本当に何をやっているんだろうな、と思う。舞台はもう日曜に迫っているというのに高揚もなければ緊張もない。あるのはただもやもやした負の感情だけだ。……こんなことではいけない。舞台がいいものになるはずがない。
――ともかく午後の練習だ。そこがここからの巻き返しをはかる上で絶対に落とせないポイントと思っていい。
今回の舞台に向けての活動を締めくくる最後の常会。その練習がいいものになればぐだぐだに終わったあの朝練は帳消しになる。明日からの重要な日程をこなすためのはずみがつき、アイネとのいざこざも自然に修復されるかも知れない――
「……よし」
午後の練習をいいものにすること――今はそれだけを考えればいいと思った。そう思うことで少しだけ気が楽になった。頭をあげ庭園の景色を眺めた。その視界の隅に、ぱっと目を引く鮮やかな色が入った。
「――ん?」
珍しく着物を着た女がいる。そう考えてすぐ、俺は艶やかな着物に身を包んだその人が、一昨日会った隊長の妹であることに気づいた。
声をかけようか迷っていると、向こうの方で俺に気がついたらしく、優雅な物腰で真っ直ぐこちらに歩いてきた。
「ここにいらしたんですか、お兄様」
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