154 ダンスパートナー(5)

⦅入口もなければ出口もない、ただお互いに噛み合う歯車の群れが回転し続けるだけの場所。そんな場所に誘導される――というのが実験の結果だった⦆


⦅……その通りさ。ただそれも完全に失敗だったわけじゃない。元々あの実験はそのことを確認するためのものでもあったのさ。の権限がない者が侵入を試みたところで、結局はそこに誘導される、ってことのね⦆


⦅そうとも。失敗ではないよ、キリコ⦆


⦅いいや、失敗さ。には入れなかったんだからね⦆


⦅どこも失敗ではない。の一部には違いないのだろう? あの『歯車の館』も⦆


⦅その辺はあの男に聞いてみないと何とも言えないけどね。どっちにしても同じことだ。あんなところに入ってみたところでどこへも行けない。何もできやしない⦆


⦅訓練はできるだろう⦆


⦅……⦆


⦅何もないあの『歯車の館』でも、我々の意図する訓練は充分にできるだろう⦆


 そのマリオ博士の言葉で会話が途切れ、またしばらくの沈黙があった。


 さっきよりもだいぶ長く感じられたその沈黙の終わりに、マリオ博士の陰につまらなそうな表情で立っている子供に視線を移して、キリコさんは言った。


⦅どう呼べばいいんだい?⦆


⦅? 何のことだろう⦆


⦅その子のことだよ。名前くらいつけてあるんだろ?⦆


⦅それがキリコ、頭の痛い話なんだ⦆


⦅……? どういうことさ⦆


⦅名前をつけさせてくれないんだ、この子は。つけようとすると怒るんだ。それに関して言えば、私としても実に都合が悪いのだが⦆


⦅……どっちが先に入る? その子とうちのハイジと⦆


⦅ハイジ君の方から入るといい⦆


⦅レディファーストという言葉は知ってるかい?⦆


⦅心得ているさ。ただ待合いの場所にレディを待たせないというのも紳士のたしなみではないかな?⦆


⦅……まあいいさ⦆


 その会話の流れでようやく、マリオ博士に連れられてきた子供が少年ではなく少女であったことを知った。確認のため少女に視線を向けようとして、危うく思いとどまった。


 そう、俺には二人の会話が理解できないのだ。だから少しでも理解できるような素振りを見せるのはまずい……。


「ハイジ」


「え?」


「話はついた。これからさっき説明した『ヤコービの庭』に入ってもらうよ」


「わかりました、博士ドクター


「相手が誰か、って説明はもういらないね?」


「――はい」


「……なりで判断すると痛い目じゃ済まないよ。わかってるね?」


「はい、わかってます。博士ドクター


 そこではじめて、俺は少女に視線を向けた。改めて見るその姿は、たしかに華奢な体つきのローティーンの少女だった。


 彼女はつまらなそうな目で俺を見返したが、やがて不機嫌そうに眉をしかめ、視線を逸らした。


「……」


 不意に、キリコさんが言っていることを理解した。


 戦慄とともに、それを理解した。


 ――俺はこれからこの少女と殺し合う。そこには躊躇も手加減もいらない。外見からは想像できないが、キリコさんの話を総合すればこの少女は恐ろしい手練れなのだ。


◇ ◇ ◇


 向かいの扉をくぐると、そこは何もない小さな部屋だった。


 さっきの部屋にはまだここに繋がる扉があったが、この部屋には本当に何もない。入ってきた扉のこちら側にノブはなく、周囲の壁と同じ白い漆喰の壁になっている。その繋ぎ目さえ、よく見なければわからない。


 ……本当に何もない部屋だった。窓もなければ照明もない。


 それでいて部屋の中は白々とした明かりに満ちている。部屋全体が鈍い明かりを放っているようにも見えるが、正確なところはわからない。


 自分の他に何もない白一色の部屋。その現実離れした光景にどこか落ち着かないものを感じながら、俺はキリコさんに言われた通りその場に仰向けに横たわった。


『中に入ったら部屋の真ん中に仰向けに横たわる。そのあとはできるだけリラックスして天井を眺めていておくれ。そのうちに音楽が聞こえはじめたら、それによく耳を澄ます。あとは何もしなくてもその場所にたどり着けるはずだよ』


 キリコさんの説明はそれだけだった。……わけがわからないというのが正直なところだが、俺としてはその言葉に従うしかない。


 仰向けに寝ころんだまま全身の力を抜いた。そうして真っ白な天井を眺めるともなく眺めた。


「……」


 こうして仰向けに寝ころんでいれば白い天井以外何も見えない。ほの白い光を放つその天井を、まるでそれ自体大きな蛍光灯のようだと感じた。


 視界の端には壁との境が入っているが、ぼんやりとした薄明かりの中にその境も曖昧になってくる。そうしているうちに慣れてしまったのか、じっと目を凝らしても壁と天井を見分けることができなくなった。


「……」


 部屋の中に音はなかった。そのうち音楽が聞こえはじめるとキリコさんは言ったが、どれだけ耳を澄ましてもそんなものは聞こえてこない。そればかりかまるで放送室の中にでもいるかのようにかすかな音も耳に入ってこない。


 すべての音が死んだ真っ白な部屋。そのただ中にだらしなく横たわっているうちに、ふと――自分が奇妙な錯覚に陥りはじめていることに気づいた。


「……」


 まず気づいたのは、ずっと背中にあった床の感触が消えたことだった。


 部屋に入ってすぐ仰向けに寝ころんだまま姿勢を変えていない。だから床の感触は今も背中にあるはずだった。それがいつの間にかなくなっていた。


 床の上に投げ出している手や脚にもその感覚がない。ちょうど水の中に浮かんでいるような……けれどもたゆたっているというのではなく、何もない空間に固定されているような、そんな奇妙な錯覚が徐々に大きく、確かなものになっていくのを感じた。


「……」


 やがてその錯覚は揺るぎのない感覚に変わった。床に寝ていたはずの俺は何もない空間――見渡す限り真っ白な静寂に満ちた空間に立っていた。


 いや……立っているというのも違う。そこにはもう床も天井もなかった。上もなければ下もない。立っているのか寝ているのかもわからない状態で、その何もない空間に繋ぎとめられていた。


「……っ!」


 不意に、何とも言いようのない不安が胸に湧き起こった。


 自分という存在がその何もない空間に呑みこまれてしまうような――身を乗り出して真っ暗な谷底を覗きこんだような、本能的な不安だった。


 その不安から逃れたくて、俺は床に寝転がってからはじめて身体を動かそうとした。……できなかった。気がつけば俺は身体の自由を奪われていた。どれだけ力をこめても指一本動かせない、完全な金縛りの中にあった。


「……っ!」


 唐突にノイズが響いた。色も音もない、時間の感覚さえ失せた空間に圧倒的なノイズが流れこんできた。


 そのノイズに同調して、折からの不安は一層強く激しくなった。まっさらだった俺の意識の中に、不安がただひとつの感覚として押し寄せた。


 そう、そのノイズは俺の中のだった。両手で耳を覆いたくても腕はあがらなかった。大声で叫びたくても舌は動いてくれなかった。


 魂を掻き消すような不安が極限に達し、意識を失ったと感じたところで――


 歯車だらけの部屋の中に立っている自分に気づいた。


「――」


 ――かちかちと無機的な音を立ててまわる歯車だらけの部屋。そんな異様な風景の中に俺は立っていた。


 そこはもうさっきまでいたはずの白い部屋ではなかった。上も下もない身動きのとれない空間でもなかった。


 その異様な風景の中に俺はしっかりと自分の両脚で立っていた。


「……」


 ――目の前には既にあの少女がいた。


 互いに噛み合って回る巨大な歯車の狭間に、ちょうどあの部屋でそうしていたように両手をだらりと提げ、つまらなそうな顔をした少女がぼんやりとした視線をこちらに向けていた。


 その姿を認めて、俺はまず、どうして彼女がもういるのか不思議に思った。


 俺は少女より先にあの部屋に入り、あの長い拷問のような時間を経てここにたどり着いた。それなのに彼女がまったくのタイムラグなしにここにいるというのはおかしい。


 だがそんな小さな疑問は次の瞬間、少女の姿が目の前から消えるのと同時に霧散した。


「……え?」


 瞬きをするほどの間に少女は俺の目の前からいなくなっていた。あとにはさっきまでと同じく、何のために回っているかもわからない歯車の群れが残った。


 ……そこでふと、そういえば俺は何をしにこの場所に来たのだろう、と思った。


 そしてその直後に、ぞくりという擬音そのままの悪寒が背筋に走るのを感じた――


「……っ!」


 反射的に駆け出した。駆け出しざまにホルスターから銃を抜き、振り返りもせず背後に向けて撃った。


 銃声は引きも切らない歯車の音にのまれて消えた。弾の行く手を確認しないまま、俺はつんのめるようにして全力で走った。


「はっ、はっ、はっ……」


 どれだけ走り続けても風景は変わらなかった。数知れない歯車の群れがどこまでも果てしなく連なっていた。


 けれども俺が走りながら考えるのはその異様な風景についてではなかった。


 自分が今まさに殺されようとしているという現実。その現実の中でどうやって生き延びるか――息を切らして駆ける俺の頭は、ただそれだけを考えて忙しなく回り続けた。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 少女が消えた直後に受けた衝撃はそれほどのものだった。


 自分がここに来たのは少女と殺し合うためだと理解した瞬間、彼女が俺の目の前から姿を消したことが何を意味するのかわかった。理屈ではなく、おそらくの本能として直感した。


 その本能に命じられるまま、俺はただひたすらに逃げた。手の中には反撃のための武器がある。だがあの少女を前にこの銃こんなものが何の意味ももたないことは、目隠しをして撃った弾が当たらないことのように、はっきりとわかる。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 それでも限界が来た。もう走り続けることはできないと観念して俺はその場に立ち止まり、銃を両手に持って周囲を見回した。


 ……脚が今にも崩れ落ちそうにがくがくと震えている。全力で走り続けてきたのだから当たり前だ。


 少女の姿はどこにもない。かちかちと回る歯車の他に、動くものは何も目に入らない。


「はあ……はあ……」


 次第に呼吸が落ち着いてきたが、また走り出そうとは思わなかった。逃げたところでいずれ追いつかれるのは目に見えている。


 それに――ここに至ってようやくこれが『訓練』であることを思い出した。これが『訓練』である以上、逃げ続けていては意味がない。


 たとえ破れかぶれでも反撃しなければ何も得られないまま終わってしまう。それではキリコさんに合わせる顔がない。


「はあ……はあ……」


 いつでも撃てるように銃を両手に持ち、全神経を集中して辺りの様子を窺った。


 攻撃がどこから来るかわからないし、それがどんな攻撃かもわからない。せめて背中を預ける壁がほしいと思ったが、ここにそんな都合のいいものはない。あるのはが身を隠すのにおあつらえ向きの歯車だけだ。


「はあ……はあ……」


 動悸が静まるにつれて混乱していた頭もだいぶ冷静になった。その冷静を取り戻した頭で、次に自分がとるべき一手を考えた。


 少女の武器が銃だとしたら――体格差から考えておそらく銃なのだが――こうして突っ立っている俺の身体は絶好の的以外の何物でもない。


 見つかれば撃たれる。そう考えていいだろう。だがまだ撃ってこないところをみると、彼女は俺を視認できていないのだ。


「はあ……はあ……」


 それに、あれだけ全力で走ってきたのだから少女はまだ後方にいるのかも知れない。……いや、歩幅が違うのだからきっとそのはずだ。


 だとしたら今、俺が今すべきことは歯車の陰に身を隠すことだ。


 そう、ここには壁がないが、人の背丈ほどもある歯車がある。その陰に身を隠して気配を絶てば、反撃の機会も生まれるかも知れない。


「……」


 そう思うのが早いか俺は周囲に視線を巡らせ、身を隠すための歯車の陰を探した。


 少し前方に、隣り合う二つの歯車がゆっくりと回っているのを認めて、そのあたりがちょうどいいと思った。


 背後に気を配りながら、できるだけ足音を殺してその場に駆け寄った。その歯車の陰に入ろうとしたところで――唐突に世界が反転した。


「あ――」


 息のかかりそうな間近に少女の顔があった。


 何を考えているのかわからない無感動な目つきでじっと俺を見ていた。


 俺は床に仰向けに寝転がり、少女はその上に馬乗りになっている。咄嗟に銃を持つ手をもたげようとした。刹那、少女の唇が動いた。


⦅終わり⦆


「え――」


 視界から少女の顔が消え、次いで首筋に激痛が走った。


「ぐえ……」


 痰がからんだような呻き声が聞こえた。それが自分のものであると理解したところで、俺の意識は真っ暗な闇の中に落ちた――

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