155 ダンスパートナー(6)
――気がついたときは寝台の上だった。
朝、目覚めたときと同じカーテンの内側、白いシーツの敷かれたベッドに横たわっていた。
すぐ隣に気遣わしげなキリコさんの顔があった。俺が目を向けるとその顔にうっすらとした笑みを浮かべ、「どうだった?」と彼女は言った。
「え?」
「あの子との訓練だよ。どんな感じだったんだい?」
「……負けました」
「そんなのはわかってるさ。あたしが聞きたいのは具体的なところだ。どんな感じで戦って、どんな感じで負けたのか。その中でハイジは何か得るものがあったのか。そういうのが聞きたいんだよ」
そこで俺はキリコさんの服装がさっきまでとはまったく違うものになっていることに気づいた。
いかにも研究者といった白衣はどかへ、替わりにシックな黒のワンピースを身にまとっていた。光沢のある布地はサテンか何かだろうか。首元を飾る真珠のネックレスといい、まるでどこかパーティーにでも出かけるかのような装いに見える。
「どうだったか、って聞いてるんだけどね」
「え? あ……すみません」
キリコさんに促されて、俺は少女との訓練の顛末を語った。
と言っても、話すことがそれほどあったわけではない。少女を見失ってすぐ駆け出した。反撃に転じるため物陰に身を隠そうとしたところで、そこに潜んでいたらしい少女に倒され、たぶんそのまま殺された。……話すことができたのはその程度だった。
「得るものがあったかどうかわかりません。逃げるのが精一杯だったから。結局、何の反撃もできなかったし、はっきり言ってただ殺されてきたようなもんですね」
最後はどうしても自嘲気味になった。その言葉通り、訓練とは名ばかりで、俺はただ殺されてきたようなものだ。だがそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、「そっか」と素っ気ない口調でキリコさんは言った。
「まあそれでも逃げられただけ良かったじゃないか」
「え?」
「最初に姿見失ってすぐ殺されてた。その可能性だってあっただろ?」
「……そうですね」
「見失って逃げた。反撃しようとしたら先回りされてた。だったら次はどうすればいいんだい?」
「先回りされないようにする」
「その通りさ。ほら、充分訓練になったじゃないか」
そう言ってキリコさんは穏やかな笑みを浮かべた。服装のためか普段より
いつの間にかキリコさんは化粧までしている。やはりこれからどこかへ行くのだろうか。そう思い、そのことを尋ねるために口を開きかけたところで、「立って」と声がかかった。
「え?」
「もう立てるだろ。立って」
「あ、はい」
言われるまま寝台を降りて立ち上がった。「大丈夫?」と、またキリコさんの声がかかった。
「え?」
「目眩なんかはしない?」
「しません」
「飛んだり跳ねたりはできそうかい?」
「……」
そう言ってキリコさんは意地の悪い笑みを浮かべた。その表情の意味が何となくわかって、筋書き通りに応えるのもいいかと思ったが、あえて別の答えを返した。
「
「……何だい。つまらないね、まったく」
興醒めしたようにキリコさんは呟き、そのまま部屋の奥に消えていった。「けど何の問題もないね。その調子なら」という声があり、それからしばらくしてキリコさんは黒い服のようなものを抱えて戻ってきた。
その抱えていたものを俺がさっきまで寝ていた寝台に放り投げた。タキシードだった。
「……なんすかこれ?」
「タキシードを知らないのかい?」
「知ってますよ。知ってますけど……これ、着ろってことですか?」
「そういうことさ。それしかないだろ」
「でも何でまたタキシードなんか……」
「ああもう! そういじめないでおくれ。断り切れなかったんだよ!」
「下らない集まりにつき合わせてすまないね。最初に謝っとくよ。とりあえずそれ着て。蝶ネクタイの結び方はわかるかい?」
「一応わかりますけど……その、これからどこへ行くんですか?」
俺のその質問にキリコさんは露骨に顔をしかめた。だがすぐ諦めたように表情を弛め、小さくひとつ溜息をついたあと、力のない声で言った。
「パーティーだよ。楽しいパーティー」
◇ ◇ ◇
会場には既に多くの人が集まっていた。
タキシードやディレクターズスーツに身を包んだ初老の紳士が十名ほど。それぞれの紳士の隣には俺と同じくらいの年格好の、同じく盛装した男女が寄り添って立っている。
その間を縫うようにベルボーイジャケットを着た男たちが忙しく立ち働いている。
天井こそ低いが、小さな体育館ほどある広い部屋だった。
立食パーティーということなのだろう、その部屋のそこかしこに円いテーブルが並べられ、オードブルと見える鮮やかな色の料理を盛った皿や、閉じられた蓋の端からかすかに湯気を立てる平たい箱のような鍋が開宴を待っている。見ればスポットライトの用意まである。
そんな部屋の様子を眺めながら、どこかで見たような光景だと思った。そう、参加者の年齢に幅があることも含めて、これはまるで――
「披露宴みたいですね」
「ん?」
「いや、結婚披露宴みたいだと思って。何だか」
「……いい観察だね。似たようなもんさ」
「? どういうことですか?」
「まあ、そのうちにわかるよ」
華やかな雰囲気とは裏腹にキリコさんはずっと浮かない調子でいる。
この会場に入ってから何人かの紳士が俺の理解できない例の言葉で話しかけてきたが、素っ気なくあしらっていた。それも話をするのも億劫だという感じで。隣で理解できない風を装いながら、そんなキリコさんに訝しさを覚えた。
俺の知るキリコさんはこういう場が嫌いではない。……と言うよりむしろ好きで、同じ男をあしらうにしても、話しかけてくれるなというような態度はとらないはずだ。にもかかわらず彼女がそんな態度をとるのは何か思うところがあるのだろうか。
そもそもこのパーティーがどういったコンセプトで催されるものなのか、そのあたりからしてまったくわからない。
何となく聞いてはならないような気がして控えていたが、そろそろ限界だった。談笑する人々の中にわけもわからないまま突っ立っている居心地の悪さにいい加減我慢ができなくなってきた。
キリコさんは相変わらず
「
そこで会場にどよめきが起こった。皆の注目している方に目をやると、開け放たれた扉からマリオ博士と、古めかしいフランス人形のようなドレスを着た少女が入ってくるところだった。
入ってきてすぐ少女はこちらに
「……っ!」
激しい戦慄を覚え、俺は思わず目を反らした。
眼前に迫った少女の顔――そしてその直後に喉を引き裂かれた感覚が生々しく蘇った。そのまま目を合わせ続けていたら発狂しかねない、それほどの戦慄だった。
だがそんな俺の胸の内をよそに、少女をつれたマリオ博士は入り口から真っ直ぐに俺たちのところへ歩いてきた。
⦅やあキリコ、助かった。来てくれて本当にありがとう⦆
⦅あんたに礼言われる筋合いはないよ。仕方ないだろ、評議会の決定なんだから⦆
⦅君が乗り気でないのは聞いていた。だが言い訳をさせてもらえるなら、こういうことでもなければ……⦆
⦅ああ、わかってるさ! あんたの言いたいことは全部わかってる。だからもうあっちへ行っとくれ。こうして座ってるだけであたしは精一杯なんだよ⦆
⦅わかった、わかったよキリコ。ともかく来てくれてありがとう。できれば楽しんでくれたまえ⦆
⦅無理なこと言わないでおくれ。これでもまっとうな淑女なんでね、あたしは⦆
木で鼻をくくったようなキリコさんの答えに、マリオ博士は肩をすくめてその場を立ち去った。少し遅れて少女もそのあとをついて行く。
スカートの裾をなびかせて小走りに歩く後ろ姿だけ見れば、それは年相応に可愛らしい少女でしかなかった。
「で、何だって?」
「え?」
「さっき何か言いかけてたじゃないか」
「ああいや。これ、どういうコンセプトのパーティーかと思って」
「……説明する気も起こらないよ」
一呼吸置いて、見るからにげんなりした表情でキリコさんは言った。その表情のまま視線を入り口と逆の方に走らせ、「それに、そろそろはじまるみたいだ」と言葉を継いだ。
不意に会場の照明が消えた。
それから聞き慣れたカシャッという音がして、スポットライトの灯りが会場の前方を照らした。……ピントが合っていない。そのピントの合わない円はそのままよろめくように移動し、やがてその円の中にマイクを持ったタキシードの男が入った。
⦅紳士淑女の皆様、本日は当パーティーにご来場いただき、誠にありがとうございます。開宴に先立ちまして、本日の司会を務めさせていただく私ことロバート・マクスウェルから、前口上を述べさせていただきます――⦆
小さな笑い声とともに喝采があがり、司会者は前口上を語りはじめた。
けれどもその前口上というのはのっけから隠語に満ちた極めて内輪向けの話のようで、ときどき紳士たちの間で笑いが起こったが、俺にはそれがどんな内容かさっぱりわからなかった。
隣でキリコさんがこれ見よがしに音つきの大欠伸をした。だがその音も喧噪にかき消され、俺以外誰の耳にも届かない。
⦅さてさて、前口上が長くなりました。では場が暖まって参りましたところで、本日のパーティーに参加する紳士淑女の皆様方をご紹介したいと思います。ですがご存じの通り、私が紹介できますのは紳士の――もとい
そこでまた小さな笑い声があがった。何がおかしくてあがった声かはわからなかったが、その司会者の話で今日のパーティーのコンセプトが何となくわかった。
つまり、これは『俺たち』のお披露目パーティーなのだ。
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