153 ダンスパートナー(4)

「え?」


「今、ここは変わろうとしている。ジャックが何か大きな目的のために動いているのがあたしにはわかるし、の動きも慌ただしくなってきた。一刻だって止まっていちゃくれない。ここも……それにあそこもね」


「……」


「あんたが――ハイジがまだジャックのこと気にかけてるのはわかってる」


「……」


「つき合いも長かっただろうしね、無理もないよ。そっちでのがどんなだったか、正直よくわからないけど、あいつがどんなだったかはわかるつもりさ。……今でもあいつのことを信じてるんだろ? ハイジは」


「……それは」


「けど、お願いだよ。あいつのことはもう忘れておくれ。あいつのことは忘れて、あたしのために動いておくれ。あたしのためにだけ動く忠実な道具になっておくれ。……契約は破らないからさ。このごたごたがぜんぶ片づいたら、ハイジが欲しいと言ったものはちゃんとあげるから――」


 そう言ってキリコさんは俺に向き直った。とらえどころのない曖昧なままの表情に、ほんのかすかな笑みを浮かべて。


 ……言いたいことは幾つもあるはずだった。問い質しておきたいこと、訂正しなければならないこと。けれどもその全てを呑みこんで、今ここで言うべき台詞を、俺は口にした。


「楯になるくらいしかできません」


「ん?」


「今の俺には、博士ドクターの楯になるくらいしかできない。それだけです」


 精一杯の思いをこめた一言だった。だがその一言にキリコさんは相好を崩し、「だからいんだよ」と言った。


「え?」


「だからハイジはいんだ。まったく、こんな状況だってのに楽しいったらないね。あんたと一緒なら世界の果てまでだって行けそうな気がするよ」


「……」


「しけた顔するんじゃないよ! あたしの騎士ナイトだったらしゃんとしな。さ、見るもん見たし次いくよ。砂風もだいぶ強くなってきたしね」


 そう言いながら伸びをして、キリコさんは元来た暗い穴の中に戻りかけた。だがそこで何か思い出したように立ち止まると、「銃は持ってるね?」と言った。


「え?」


「銃だよ。朝、ホルスターと一緒に置いといた銃」


「ああ、それなら持ってます」


 両肩にかけるサスペンダー式のホルスターは上着の中に装着している。左の脇腹に触れるには、昨日あの部屋で撃ちまくった無銘の銃が提がっている。上着の上から触れてちゃんとあることをたしかめ、触れた指でそこを指さして言った。


「もちろん持ってます。ここに」


「そっか。ならいいんだ」


 そう言うとキリコさんは振り返り、そのまま階段を降りて行こうとする。「どこへ行くんですか?」と、今度は俺が声をかけた。


「ん?」


「次って、今度はどこへ行くんですか?」


「訓練」


「……訓練?」


「そう、訓練」


 それ以上なにも言うことがないというように、キリコさんは一人で暗い階段を降りていってしまう。のぼってきたときの闇の濃さを思い出し、俺は慌ててそのあとを追った。


◇ ◇ ◇


 螺旋階段を降りて通路に戻り、それほど歩かないうちにその部屋に着いた。


 何もない小さな部屋だった。向かいに扉がひとつあるだけで、他には何もない。訓練という言葉に昨日と同じような部屋を想像していた俺は、少し拍子抜けしてキリコさんを見た。


「ここでどんな訓練をするんですか?」


「ここでするわけじゃないんだ」


「え?」


「ここで訓練をするわけじゃない。これからハイジには『ヤコービの庭』に入ってもらう」


「ヤコービの庭?」


 唐突に告げられた単語を鸚鵡返しに口にした。けれどもふと、その『ヤコービの庭』という言葉に聞き覚えがあることに気づいた。その言葉を俺はどこかで聞いている。そう――昨日のマリオ博士との会話の中で。


「どんな場所なんですか、その『ヤコービの庭』っていうのは」


「詳しい説明はなしだ。話をややこしくするだけだからね。ただの戦場だよ。少なくとも今のハイジにとっては」


「戦場?」


「そう、戦場だ。ハイジにはこれからそこで実戦訓練をしてもらう。その銃で実際に撃ち合うんだ。そうだね、殺し合うって言った方が近いか」


「殺し合い、ですか」


 キリコさんの話はだいたい理解できた。俺はこれからその『ヤコービの庭』という場所に向かい、そこで訓練をする。その訓練というのは実際に銃で撃ち合う、殺し合いと言った方がいいものである。そこまでは理解できた……それが想像もしなかったとんでもない話であることも。


 けれども俺の中に恐怖はなかった。恐怖ばかりか、自分がこれから殺し合いをするという実感さえなかった。だいたいこの何もない部屋のどこにそんな戦場があるというのか。


 そこまで考えて――不意にさっきの光景が脳裏に蘇った。夕暮れの地平に黒々と林立するビルの群れを思い出し、それで点が線で繋がったと思った。


「さっきの場所ですか?」


「ん?」


「さっき見たあの場所ですか? その『ヤコービの庭』っていうのは」


 キリコさんはしばらく何のことかわからないというような顔をしていたが、やがて合点がいったように「ああ」と呟いた。そうして頭の横でひらひらと手を振りながら「違う違う」と続けた。


「勘違いさせちまったね。『試験場』と『ヤコービの庭』は別物だよ。縁もゆかりももない、まったく別次元の存在さ。だいたい言ったじゃないか、あそこでは血で血を洗う戦争が繰り広げられてるって。そんな危ないとこにハイジをやれるわけないだろ」


「……? 『ヤコービの庭』ってのがさっきのあそこじゃないのはわかりましたけど、いずれにしろ俺はこれからそこで血で血を洗う殺し合いをするんじゃないんですか?」


「ん……説明が悪かったね。いったん話を戻すよ。これから入ってもらう『ヤコービの庭』ってとこは、さっきも言ったように戦場だ。そこでハイジには実戦訓練をしてもらう。そしてその訓練ってのは、ぶっちゃけた話が殺し合いってことになる」


「はい。そこまでは」


「けどね、そこでは死なないんだ。殺されても死なない。『ヤコービの庭』では弾丸が脳天をぶち抜いても、実際には死なないんだよ」


「シミュレータみたいなもの、ってことですか?」


「ああ、そのあたりが一番わかりがいいかも知れないね。そのために作られた場所ってわけでもないんだが、これからハイジに入ってもらうのはまるっきりそのためだし」


 そう言ってキリコさんは胸の前に腕を組み、壁に背もたれた。そして眼鏡の裏側から、どこか憂わしげな視線をこちらに向けた。


「それでも、心配なんだよ」


「え?」


「そういう場所だってわかってても、この訓練でハイジがどうにかなりやしないか、あたしはそれが心配なんだ」


「……」


「相手が相手だからね。ただ結局のとこ、動かない標的相手に悠長な訓練してる余裕はなくなっちまったんだ。実戦に勝る訓練はない、ってのはハイジにもわかるだろ?」


「わかります」


「そんなわけさ。いい結果なんて求めちゃいない。とにかく長く生き残るように頑張ってみておくれ。少しでも、一分一秒でも長く。そうしてできることなら、その中で何かを掴んで帰ってくるんだ。わかったかい?」


「わかりました。博士ドクター


「よろしい」


「ときに、その訓練の相手ってのは誰なんですか?」


「ん? ああ……そろそろノックがくる頃合いだよ」


「え?」


「細かい男だから約束の時間を三分とたがえないのさ。噂をすれば、ほら」


 キリコさんの言葉通り、控えめなノックの音が響いた。扉が開き、白衣を着た初老の男――マリオ博士と、その陰に隠れるようにあの少年とも少女ともつかない子供が部屋の中に入ってきた。


⦅待たせてしまったかな⦆


⦅問題ないよ。いま来たとこさ⦆


 そうして二人はまたで喋りはじめた。俺が知らないはずの、けれどもなぜか理解できる言語――


 それを耳にしてすぐ、昨日キリコさんに言い含められたことを思い出した。俺はなぜかこの言語を理解できる……だがこの場ではそれを理解できない演技をしなければならない。


⦅快く提案に応じてくれてありがとう。まずそのお礼を言わせてくれ⦆


⦅そいつはごめんだね。そんな礼なんて受けるいわれはないよ。あとひとつ訂正させとくれ。こっちは何も快く応じたわけじゃないんだ⦆


⦅相変わらず手厳しいな。今日ぐらい友好的にいかないか、キリコ。せっかくの共同演習なのだから⦆


⦅友好的だってね。聞いて呆れるじゃないか。第一、演習なら殺伐としてた方がいいだろ。ダンスの相手させるんじゃあるまいし⦆


⦅やはりそれか。君の言い分もわかるがキリコ、あの話は――⦆


⦅で? 『鍵』はどこにあるって?⦆


 先が続きそうだったマリオ博士の台詞をキリコさんの一言が断ち切った。マリオ博士は虚を突かれたように口を閉ざし、やれやれというように微笑したあと、また元の曖昧な表情に戻った。


⦅おそらく君の想像で合っているよ、キリコ。私の手に入る『鍵』といったらそれしかないだろう⦆


⦅もったいぶらずに出すんだね。どうせ遅かれ早かれ出すんだ⦆


⦅わかった、わかったよキリコ。『遮断式』と君たちが呼んでいた導入法がそれだ⦆


⦅……まあ、が別の場所じゃそれしかないだろうね⦆


⦅それはつまり、他の導入法では本体との直接的な接触が必要となってくる、と理解していいんだろうか?⦆


 その質問には応えず、キリコさんは向かいの扉を一瞥した。それからまた視線を戻してマリオ博士を見た。その顔にはいつの間にか冷たく凍てついた表情――たぶんキリコさんが最も真剣なときの表情がのぼっていた。


⦅音源はどこから?⦆


⦅どこから、というのは――⦆


⦅どこから?⦆


 同じ言葉を二度繰り返すキリコさんにマリオ博士はまだ何か言おうとし、だが何も言わず諦めたように大きく息を吐いた。


⦅この間の実験で君が使ったものだ⦆


⦅盗聴してたってこと?⦆


⦅そういうことになる。だが誤解してもらっては困る。盗聴したのは私ではない。ロブだ⦆


⦅ロブ?⦆


⦅そう、ロブだ⦆


⦅あたしはてっきりあなたかエリックだと思った⦆


⦅私ではないよ。エリックでもない。いくら彼でも君に気づかれずプログラムに仕込むのは不可能だ。君がどれだけ厳重にセキュリティを固めてあるか誰だって知ってる。破ろうとして破れるものではないよ、あの男ならまだしも⦆


⦅ならどうやって……⦆


⦅さすがのキリコもアナログの録音にまでは気がまわらなかったとみえる⦆


⦅……⦆


⦅精緻に組み上げられたシステムの弱点はそこだよキリコ。どんな装置でもネズミに配線を囓られてはお手上げだ。原始の技術が最新鋭の技術を破るというのも皮肉な話だがね⦆


⦅……なるほど⦆


⦅もっともロブには君のやっていることの意味がわからなかったようだ。当然、録音した音の意味も⦆


⦅……⦆


⦅ばら撒いておいた録音機のひとつにたまたまあの実験の音が入ったというだけのことのようだ。実際、メディアの保管もかなりなおざりだった⦆


⦅それを、マリオが盗んだ?⦆


⦅盗んではいない。借りてきただけだよ⦆


⦅……どうだか⦆


⦅本当のことだ。終わればちゃんと返す⦆


 そこでしばらくの沈黙があった。その間キリコさんは凍てついた目でじっとマリオ博士を睨んでいたが、やがて大袈裟に溜息をつき、⦅これからはその辺も気をつけないとね⦆と呟いた。


⦅で、そのロブの音源とあたしんとこから盗んでったデータを精査してこの運び、ってことかい⦆


⦅違う、と言ってもどうせ信じてはくれないのだろう?⦆


⦅……まあいいさ。けど残念だったね、あの実験は失敗だったのさ。見よう見まねでやったところで『ヤコービの庭』には入れなかった。あんたの言う『遮断式』でたどりつけたのは――⦆


⦅歯車の館――だね?⦆

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