266 茹だるような夜に(1)

 ……けたたましい音に揺り起こされた。


 はじめは目覚まし時計の音かと思ったが、すぐそうではないことに気づいて寝台を降りた……電話の呼び出し音だ。起き抜けの覚束ない足取りで電話台に向かい、電話に出ようと受話器に手を伸ばしたところでチンと鳴って切れた。


 ……受話器を取ろうとした手で頭の裏を掻き、ぼんやりと時計に目を遣った。


 ――ちょうど目覚まし時計が鳴る時間だった。俺は机に向い、今にも鳴り出そうとしている時計の背に指を回しスイッチを切った。


 久し振りに天気のいい朝だった。窓越しの強い日射しは部屋の隅々まで行き渡り、ここ数日は意識しないでいた壁の傷やテーブルの上に置き去りにされたカップ……そういったものの輪郭をはっきりした線で描き出している。


 そのまましばらく再び電話がかかってくるのを待ったが、いつまで経っても鳴る気配はなかった。やがて俺は諦めて階下へ向かった。


 洗面所の戸を引きかけ、ふと気になってホールに足を運んだ。スイッチをひねって照明を点す。……ぼんやりとした明かりに照らされる舞台はいつも通りで、何もおかしなところはなかった。きびすを返し、スイッチを切りかけて……そこで俺はもう一度振り返って舞台を見た。


「……」


 いつも通り、何もおかしなところのない舞台だった。その舞台に、昨日のリハーサルで起きたことの証拠は何も残っていなかった。


 あれだけ大きく広がっていた血溜まりのあとはもちろん、小さなしみひとつなかった。それを確認すると俺は改めてスイッチを切り、寝癖のついた髪を掻き撫でながら洗面所へと向かった。


 洗面所は昨日のままだった。雨の町から逃げ帰って脱ぎ捨てたTシャツが、洗濯機の中に落ち損ねてだらしなく垂れていた。


「……」


 ――顔を洗いながら昨日のことを思った。


 アイネはあの後だいぶ経ってから帰った。もう夜も遅かったので送って行こうとしたが「いい」と言って断られた。静かに返されたその一言には、けれども疑いもない拒絶の意志がこめられていたから、それ以上何も言えずその背中を見送るしかなかった。


 俺の申し出に「いい」と言ったときのアイネの表情が目に焼きついている。それは一昨日までの――おはようと言っても返事ひとつ返さなかった仮面のような表情だった。


 そんな彼女の表情に俺は、修復しかけた関係がまた元の凍てついたものに戻ってしまったことを思った。……なぜそうなってしまったのかわからない。あんな終わり方をしたリハーサルのためか……あるいは俺が最後に告げたあの一言のせいか。


 あれからアイネはカラスのところへ忘れ物とやらを取りに行ったのだろうか。ふとそう思い――だがその先を考えないまま俺は蛇口をめいっぱいに開け、ばしゃばしゃとを飛ばして勢いよく顔を洗った。


 奔出する水の音を耳元に聞きながら、煩悩を振り払う修行者のように顔を洗い続けた。――それが理由で、頭をあげ蛇口を閉めるまで、俺は上で鳴っている電話の音に気づかなかった。


「……ん」


 顔を拭かないまま階段を駆けのぼった。だが出ようと受話器に手を伸ばしたところでチンと鳴って切れた。


 ……しばらく立ち尽くしていたが、首を伝い落ちてゆく水の冷たさを感じて洗面所に戻ろうとし――やはり思い直してシャツの袖で顔を拭った。


「……」


 寝台に腰掛けて再び電話がかかってくるのを待った。だがいつまで経っても電話が鳴る気配はなかった。……朝からひどく疲れた気がして、そのままぼんやりと部屋を眺めた。


 新鮮な光の洪水は目覚めたときと変わらなかった。けれどもその新鮮な光の中にいつもと変わらない自分の部屋が、なぜかひどく虚ろで乾ききったものに見えた。


◇ ◇ ◇


「……つまり、あいつは日曜の本番に来られないってことか?」


「そういうことだと思う」


「それは……どうしようもないってことなのか」


「……どうしようもないってことなんでしょ。きっと」


 交流会館にはいつもよりだいぶ早い時間に着いたが、アイネはそれよりも先に来ていた。俺が石段の前に立つと、うつむき加減でそこに座っていた彼女は、こちらを見ないまま出し抜けにその話をはじめた。


 やはり昨日感じた通り気まずい関係に戻ってしまった、と砂を噛むような気持ちでそう思い――だが話を聞きはじめてすぐ、その思いは否応なく頭の片隅に追い遣られた。


 朝早くにDJから電話があった。ラジオ局で深刻な問題がもちあがり、今日の仕込みには参加できない。明日、明後日は微妙だが、行けない可能性が高い。今回のオペレーションは他を当たってほしい。――というのが電話の内容だった。


 ……そんな話を、淡々とした口調でアイネは語った。そのあいだ彼女は隣に座る俺と目を合わせず、終始うつむいたままだった。


 その表情が何を意味するのか俺にはわかりすぎるほどわかった。傍目から見ればきっと自分が彼女とそっくりの顔をしているだろうことも。


「……ドタキャンされると一番きついやつにドタキャンされたなあ」


 頭の後ろに手を組んで背をのけぞらせ、わざと軽い調子でそう返した。……それくらいしかできなかった。


 アイネが語った電話の内容はそれだけの重さを持っていた。ほとんど壊滅に瀕していたヒステリカにとどめを刺す、それは最後の一撃に等しかった。


「だいたいDJもDJだ。自分がドタキャンすればどうなるかってことくらいあいつだって――」


 その先は出てこなかった。DJがドタキャンすればどうなるか……そんなことは考えるまでもなかった。


 照明、音響、そのすべての効果を握るDJの役目は舞台のかなめで、あいつがいなければヒステリカの公演などというものは成立しない。他を当たろうにも間に合わせでどうにかなる役目ではない。……あいつに代わる人間などどこにもいないのだ。


 ことの重大さをまだうまく実感できない頭で、これで日曜の舞台に向け本当に進退きわまったと、まるで他人事のようにそう思った。


「ハイジに謝ってくれって」


「え?」


「自分で謝りたかったけど、いくら電話かけても出ないから、わたしからハイジにもよく謝っておいてくれって」


「……そうか」


 気のない相槌を返しながら、今朝方の電話のことを思い出した。あれはDJからの電話だったのだ。


 タイミングが合わず結局出ることはなかったが、あるいは出なくてよかったのではないかと、どういうわけかふとそんなことを思った。


「どうしてくれてもいいって」


「……何を?」


「DJを。罵倒されるのは覚悟してるし、友だちの縁切られても仕方ないけど、それでも許してもらえないだろうから、あとで好きなだけ殴ってくれていいって」


「……」


「自分のせいで舞台が流れたらホール代は賠償するし、関係者と来てくれたお客全員に土下座してまわるって」


「……もういい」


「声が泣いてた。涙声ってことじゃなくて、本当に悲しい声だった。DJのあんな声聞いたのはじめて」


「……だからもういい。わかった」


「もっとよくわかったと思うよ……ハイジがちゃんと電話に出てれば」


 責めるような声でそう言い、それきりアイネは黙った。俺も言葉を返すことができず、ひとしきり沈黙が流れた。


 目の前を一人、また一人と学生が横切ってゆくのを眺めるともなく眺めた。時計を見ればもう朝練も終わりの時間だった。


 昨日と同じように隊長とキリコさんは現れなかった。そして今朝はついにペーターさえ来なかった。


 どうしようもなく深刻な事態だが、その深刻さをいまいち実感できない自分がいる。あまりにことが深刻すぎて、その深刻さに感情がついていけないでいるのかも知れない。……そんなことを思い、大きくひとつ溜息をついたあと、俺は真っ直ぐに背筋を伸ばした。


「そういうことなら仕方ないだろ」


「……」


「向こうの方が大変だって、DJがそう判断したってことだろうからな」


「……うん」


「軽い気持ちでドタキャンするようなやつじゃないことくらいわかってるし、よっぽどのことがあったんだろ。それなら何も言えない。そういうことなら仕方ない」


「……そうだね」


 仕方ないで済む話ではなかった。DJがいなければ舞台にならないことは火を見るより明らかで、どんな手を使ってでも――その局とやらに乗りこんででも引っ張ってくるべきなのはわかっていた。


 ……だがそうする気にはとてもならなかった。そればかりかこの場面で当然覚えるべき怒りさえ、俺は少しも感じることができなかった。


 この土壇場で責任を放棄したDJに対して怒りがわいてこない。その理由を考えて、すぐに思い至った。それはまったくわかりやすい理由だった。


 ……隊長もキリコさんも、そしてペーターさえもいなくなったヒステリカでは、DJがいようといなかろうとどのみち舞台などできない。今のヒステリカにDJを引っ張ってくる権利はない。そう……俺たちには怒りを覚える権利さえないのだ。


「やめる?」


 唐突な声に思わずアイネを見た。彼女はどこか疲れたような、だが真剣な目で俺を見つめていた。


「……何を?」


「今回の舞台」


「ばか言うな。そんなこと許されるか」


「でもできないよ、この感じだと。ハイジにだってそれはわかるでしょ」


 そう言ってアイネは視線を逸らした。彼女がそうした理由――そうしなければならなかった理由は、痛いほどよくわかった。


「……ずいぶんと弱気だな」


「弱気になんかなってない」


「弱気でなけりゃなんだよ」


「ただ現実をみてものを考えてるだけ。どこかの誰かと違って」


「できるだろ、どんな形にしたって。いざとなったら俺たち二人でも――」


「できない」


 強い拒絶の声だった。二の句が継げないでいる俺に畳みかけるようにアイネは続けた。


「無理なこと言わないで。二人での即興芝居なんてできない。他の人は知らないけど少なくともわたしは、そんなこと絶対に……どんなに頑張ってもできない」


 反論の余地のない断定だった。「そうか」と言って黙ることしか俺にはできなかった。


 アイネはもう俺を見ていない。唇をつぐみ、瞬きさえせず、いつになく険しい目で前方を睨んでいる。そんな彼女の横顔をしばらく見つめていたが、やがて耐えきれずに視線を外した。


 いたたまれなかったからではない、同情に胸が塞いだためでもない。……ただ痛々しいその表情を見つめ続けることで、必死に抑えつけている感情がまた暴れ出すのを恐れたからだ。


 始業のチャイムが鳴っているのが聞こえる。その音のする方を睨みつけたままアイネは動かない。彫像のように固まって身動き一つしない。


 ……このままでは埒があかない。そう思い俺が口を開きかけたとき、「役者を探して」という声が聞こえた。


「え?」


「ハイジは役者を探して。どうにかして見つけてきて」


「……」


「わたしはオペを探す。心当たりがいくつかあるから」


 それだけ言うとアイネは俺の返事を待たずに立ち上がり、そのまま小走りに視界から消えていった。


「……はいよ」


 と、時間遅れの返事を返して俺は立ち上がり、大きくひとつため息をついてから石段を降りた。

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